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White Album Short Story #3
弁護士 観月マナ 1

殺意のシャンパングラス

 マナちゃんのスカートが破けたせいで、俺はマナちゃんに散々殴られた上に、俺の給料から新しいスカートを買う約束までさせられてしまった。……でも、あれは勝手にマナちゃんが壊れたソファに座って、スプリングに引っかけたせいだと思うんだがなぁ……。
 でも、マナちゃんの機嫌がそれでやや持ちなおしたので、それはそれで良しとしよう。
 ……なんだか、段々俺って卑屈になってるような気もする……。

「藤井さん、こっち見ないでよ。見たら殺すからね!」
 物騒な事を言いながら、マナちゃんは俺の背中で着替えていた。
 先日の事務所荒らしは、ご丁寧に更衣室兼資料室のドアまで壊していった。というわけで、今度は俺がそのドア代わりになっているところである。とほほ。
「……なにか不満そうね」
「別になんでもないです」
「……すっかり奴隷状態ね、青年」
 からかうような声がした。台詞は英二さんの言いそうなものだが……。
 俺は思わず目を見開いた。
「……理奈ちゃん?」
「ハァイ」
 事務所のドアのところに、サングラスをかけて帽子をかぶった(いわゆる対マスコミ用変装スタイルの)理奈ちゃんがいた。サングラスをちょっと下げて、栗色の瞳で俺を見る。
「事務所が荒らされたって兄さんに聞いて、ちょっと陣中見舞いに来たの。これ、おみやげ」
 そう言って、右手に下げた果物入りの籠を見せる。……どうでもいいけど、病人のお見舞いじゃないんだから……。
 と、俺の背中にピタッと何かが張りついた。
「り、理奈ちゃんって、緒方理奈ちゃん!?」
 言うまでもなくマナちゃんだ。
 理奈ちゃんは、事務所のドアを閉めると、サングラスを取り、帽子を外して、大きく息をついた。
「ふぅ。これ、息苦しいのよねぇ」
「ほ、本物……」
 ぎゅっと、マナちゃんの手が俺のシャツの裾を握っていた。俺は思わず微笑んで振り返った。
「大丈夫だって。別に取って喰われるわけじゃ……」
「見るなって言ったでしょっ!!」
 バコォン
 いきなりアッパーカットを喰らってのけ反る俺。
「あうぅっ」
「ふふふ」
 理奈ちゃんがくすくす笑った。マナちゃんは真っ赤になって、手早くスカートを上げて、ホックを止めると、資料室から出てきた。そして、理奈ちゃんの前でペコペコ頭を下げる。
「あのあのあのあのよよよようこそ。私が私が観月マナですっ」
 ……初めて、俺はマナちゃんが由綺の従妹だって実感した。
 俺達は、『エコーズ』に場所を移すことにした。なにしろ、一応片づけたものの事務所はあの通りなのだから。
 そして30分後、俺は理奈ちゃんが横で聞いている中、マナちゃんに、これまで調べた結果を報告した。
「それじゃ、そのファイジング・プロが怪しいってわけね」
 俺の話を聞いて、マナちゃんは腕組みした。
「まだ、そうと決まったわけじゃないけど、俺も疑いは濃いと思うよ」
 そう言って、俺はちらっと理奈ちゃんを見た。理奈ちゃんは、何ごとか考えている様子だった。
 俺は話を続けた。
「で、美咲さんの言うとおり、まずは毒を飲ませた手口を考えようと思ったんだけど……」
「……どうせ、藤井さんのことだから、そこでお手上げになったんでしょ?」
 じと目で俺を見るマナちゃん。事実なので俺は何も言えず、とりあえず謝った。
「……ごめん」
 マナちゃんはため息を一つつくと、言った。
「状況を整理しましょ。まずは事実を並べてみるところから……」
 今のところ、判明している事実を個条書きすると、こうなる。
 ・タクが死んだのは、毒物を飲んだせい。(A)
 ・タクが直前に飲んだのは、由綺が渡したシャンパングラスに由綺が注いだシャンパン。(B)
 ・シャンパングラスには毒物が塗布されていた形跡なし。(A)
 ・瓶の中に残ったシャンパンにも毒物が混入されていた様子はなし。(A)
 ・タクの死体から検出された毒物は、即効性のもので、服毒から数秒以内に倒れたと思われる。(A)
 ・同じ毒が、シャンパングラスに付着していたシャンパンの残りから検出されている。(A)
  (A):長瀬刑事の証言(鑑識結果)
  (B):緒方理奈を始めとする目撃証言(森川由綺本人の証言も含む)
「今のところ、これで全部ね」
 マナちゃんは、確認すると、ノートに書き出した事実を前にして頬杖を付いた。
「毒が入ってきたのは……、お姉ちゃんがシャンパングラスに注いでから、タクが飲み込むまでの間……かぁ」
「その間、シャンパンに対して何か出来るのは、由綺だけ……」
 呟いた俺の臑が、思いっ切り蹴飛ばされた。
「つぅ〜〜〜っ!!」
「それじゃお姉ちゃんが犯人になっちゃうじゃないの!!」
 マナちゃんは俺を怒鳴ると、眉根に皺を寄せて考え込んだ。
「あと、考えられるのは……、毒を入れたのはタクだった……」
「自殺?」
 思わず俺は目をむいた。
「可能性がないわけじゃないでしょ?」
「でも、タクは由綺からグラスを受け取って、そのまま口に運んだんだろ? ねぇ、理奈ちゃん」
 理奈ちゃんはうなずいた。
「そうよ。私、由綺をずっと見てたわけじゃなかったけど、少なくとも由綺がタクにグラスを渡してから、タクが飲むまでは見てたもの。その間、タクも由綺も変な動きはしてなかったわよ」
「毒をカプセルか何かに入れて置いて、シャンパンと一緒に飲んだ……わけないか」
 自分で言って、自分で否定するマナちゃん。確かにそれだったら、そのカプセルとやらが見つかってるはずだ。
「由綺は、何もしてないって言ってるんだろ?」
「ええ」
 マナちゃんはうなずいた。それから顔をしかめたのは、今日の取り調べの事を思い出したからだろう。
「お姉ちゃんは、ただシャンパンを注いで、渡しただけだって言ってた」
「じゃあ、毒はどこから……? まさか、湧いて出てきたわけあるまいし」
 俺達は、沈黙した。
 カランカラン
 カウベルの音が鳴って、俺達は弾かれたように入り口に視線を向けた。
 俺は、呟いた。
「由綺……」
「みんな、ここにいたんだ」
 由綺が入ってきた。その後ろから影のように弥生さんがついてくる。
「お姉ちゃん、もう大丈夫?」
 マナちゃんが立ち上がって、気遣わしげに訊ねた。由綺は微笑んでうなずく。
「うん。ごめんね、マナちゃん」
「いいのよ。全部あのぼんくら共が悪いんだから」
 腕組みして憤然と言うと、マナちゃんは弥生さんに視線を向けた。弥生さんは、微かにうなずき、笑みを浮かべた。
 ……何かやったのか、この二人は……。
「それより、どうしてここに?」
 俺はとりあえずこの二人には係わらないことにして、由綺に尋ねた。
「うん……」
「あ、とりあえずコーヒーでも頼もうか」
 そう言いながら、俺は立ち上がって、カウンターに駆け寄った。
「マスター、ブレンド2つ……、いや3つ、頼むよ」
 自分のコーヒーも飲み干してしまっていたのを思い出して頼むと、マスターは黙ってうなずいた。
 と。
 トン
 俺の背中に、そっと暖かいものが被さってきた。
「……由綺?」
「……ごめんね、冬弥くん……」
 由綺は、後ろからそっと、俺の身体を抱きしめた。
 とっさに俺は振り返り、マナちゃんが俺達に背中を向けて、弥生さんとなにやら話しているのを見て、ほっとした。それから、軽い自己嫌悪を感じる。
(一々マナちゃんを確認してどうするんだよ……、俺は……)
 いきなり後ろから俺に抱きつくのは、由綺の癖だ。それも、淋しいときの。
「由綺……。大丈夫。みんなが付いてるよ」
 俺は、由綺の手を握って、そっと言った。
 “俺がついてる”って言うのが一番格好いいんだろうけど、今の俺にそれをいう資格はない。いや。今の俺がそれを言えるのは、由綺に対してじゃない。
「……うん」
 コクンとうなずくと、由綺はゆっくりと俺から手を離した。
 俺は振り返った。
「ごめんね、冬弥くん。……私って駄目だなぁ。早く冬弥くん離れしないといけないのに……」
 由綺は照れたように俯いて呟いた。それから、顔を上げた。
「でも、うん、もう大丈夫だよ」
「由綺……」
 俺は、ぽんと由綺の頭を叩いた。
「きゃん」
「さて、対策を立てよっか」
 出来るだけ明るく聞こえるように、俺は言った。そして、タイミングよくマスターが盆にコーヒーを乗せて、俺の前に出す。
「……え? 俺に持って行けって? バイト代は出るんですか? ……や、やだな、冗談ですって」
 俺は盆を受け取った。
 俺達は、改めて由綺自身から話を聞いたが、別に新しい証言が飛び出すこともなかった。
 結局、ため息の山を築いた後、俺達は解散した。
 俺とマナちゃんは、昨日と同じように、並んで歩道を歩いていた。ちなみに、マナちゃんが大事そうに胸に抱いているのは、理奈ちゃんにもらったサイン色紙である。
「……ねぇ、藤井さん」
 不意に、スキップして前を歩いていたマナちゃんが振り返った。
「え?」
「シャンパンのことだけど……」
「うん」
 マナちゃんは俯いて、考えながら、言った。
「同じシャンパンなのかな……」
「え?」
「つまり、よ。警察で鑑定されたシャンパンは、本当にお姉ちゃんがタクに飲ませたシャンパンなのかな?」
 一瞬置いて、俺は飲み込んだ。
「もしかして、シャンパンはすり替えられていた……?」
「それなら、つじつまが合うのよ」
 マナちゃんは腕を組んで考え込んだ。
「タクが派手にぶっ倒れて、みんなの目はそっちに向くわよね。その隙に、毒入りのシャンパンを、何も入ってない普通のシャンパンと取り替えた……」
「その可能性はあるね。由綺も理奈ちゃんもタクの方を見てたはずだし。でも、どうやって証明する?」
 俺が聞き返したとき、もうマナちゃんは携帯電話を取りだして、プッシュしていた。
「もしもし……? あ、観月です。お姉ちゃんに代わってもらえますか?」
 由綺は、弥生さんの車に乗っていった。今頃はまだあのBMWに乗ってるはずだ。
「……あ、お姉ちゃん? 私。……うん、ちょっと聞きたいことがあって。パーティーの時のお姉ちゃんの服装を聞きたくて。うん。……あ、それはいいの。手は? 手袋はしてた? してない? ホントね? ……うん、そう。ありがとう。じゃ、お休みなさい」
 ピッ
 携帯電話を切ると、マナちゃんは俺にVサインをして見せた。
「お姉ちゃん、手袋してなかったって」
「それがどうかしたの?」
「バカバカバカ!」
 ポカポカポカ
 いきなり頭といわず胸といわずぽかぽかと殴られて、俺は慌ててマナちゃんの腕を掴んだ。
「ストップストップ!」
「んもう、ホントに馬鹿なんだから! いい? お姉ちゃん、手袋してなかったって言ってたのよ。ということは、お姉ちゃんが触ったシャンパンの瓶には指紋がついてたはずでしょ?」
「うん」
 その通りなので、俺は頷いた。
 ……。
「バカバカバカ!」
 ポカポカポカ
 また殴られて、俺はもう一度マナちゃんの腕を掴んだ。
「ストップストップ!」
「んもう! ホントに正真正銘の馬鹿なのっ!? つまり、シャンパンの瓶にお姉ちゃんの指紋が付いてなかったら、そのシャンパンの瓶はお姉ちゃんが触ったものじゃないって証拠になるでしょ!」
 ようやく、俺にものみ込めた。
「そっか。つまり、瓶がすり替えられた証拠になるわけだ!」
「そう。そして、警察にあるあのシャンパンの瓶は証拠能力を失うわけよ」
「で、由綺は無罪放免、と!」
「それは……どうかしら?」
 今まで喜んで、それこそピョンピョンはね回っていたマナちゃんが、いきなり静かになって呟いた。
「マナちゃん?」
「お姉ちゃん以外がやった可能性は出てくるけど、お姉ちゃんがやったんじゃない、っていう証拠には、ならないと思う……」
「え? でも、少なくとも由綺には、シャンパンをすり替えることはできなかっただろ? 理奈ちゃんがずっと一緒だったんだから……」
「協力者がいた、とか言われたら? ……あ、理奈ちゃんが共犯にされちゃうかもしれない……」
 腕を組んで考え込みながら、マナちゃんは呟いた。たしかに、理奈ちゃんがもし共犯なら、すり替えは簡単だ。なにしろ、現場に最後まで残っていたのは、由綺と理奈ちゃんの二人なのだから……。
 それから、俺達は黙って歩道を歩いた。そして、交差点にやってきた。
 俺のアパートはここから右に曲がり、マナちゃんの家は真っ直ぐ行く。
「藤井さん……」
「え?」
「調べて欲しいことがあるの」
 マナちゃんは、言った。
「私、明日もお姉ちゃんについていなくちゃいけないから……」
「いいよ。何を調べればいい?」
「あのシャンパン。ドンペリだったかな? それについて。誰がいつ用意したのか」
「ホテルの従業員に聞いてみるよ」
 俺は頷いた。
「お願いね。それじゃ、お休みなさい」
 そう言って、マナちゃんは自分の家に向かって歩いていった。俺はその姿を見送ってから、自分のアパートに向かって歩き出した。

to be continued

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