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White Album Short Story #3
弁護士 観月マナ 1

殺意のシャンパングラス

「ん……」
 俺は、ふと目を覚ました。
 カーテンの隙間から、白い光が漏れている。
 隣からは、規則正しい寝息が聞こえてくる。
 すぅ、すぅ、すぅ、すぅ
 夕べあれだけごねてたのに、結局こうしてる辺りが、マナちゃんの可愛いところなんだよな。
 本当に、素直じゃないんだから。
 俺は思わず顔がほころぶのを感じながら、マナちゃんのちょっと固い黒髪を撫でた。それから、時計を見る。
 午前6時。
 と。
 トルルルル、トルルルル、トルルルル
 不意に電話が鳴った。その音で、マナちゃんが目を覚ます。
「う……ん?」
 俺は、まだ寝ぼけているマナちゃんを置いて、ベッドから降りると、リビングに置いてある受話器を取った。
「ふぁい、ふじーてす」
 思いっ切り寝ぼけた声だった。
『おはようございます。篠塚です』
 その声を聞いた瞬間、まさに冷たいシャワーを浴びたように俺はシャキッとした。寝ぼけていた脳細胞が急激に目を覚ます。
「弥生さん? どうしてここに?」
『観月弁護士に連絡を取りたいのですが、自宅の方にも、事務所の方にもおられない様子ですので』
「あ、はい……」
 まさか、ここにいます、なんて言うわけにも……。いや、弥生さんならお見通しかもしれないなぁ……。
 俺が逡巡している間にも、弥生さんはあの感情を感じさせないしゃべり方で、淡々と続けた。
『昨日の夜遅くになってから、警察の方から連絡がありまして、由綺さんに今日の午前中に警察の方まで出頭して欲しいと要請を受けました』
「警察から?」
『ええ。警察から連絡を受けた場合、こちらにも連絡して欲しいと観月さんに言われておりましたので、事務所の方に電話を数回掛けましたが、不通でしたし……』
 そりゃそうだ。
 昨日の事務所荒らしは、ご丁寧に電話線を全て切断して行きやがったから、しばらく事務所に電話は通じないだろう。
『そんなわけですから、観月弁護士と今後の方針などについて、少々お話がありますので、電話に出していただけませんか?』
「あ、はい。わかりました」
 思わず答えてから、俺はマナちゃんが俺の家に泊まってることを自分で肯定してしまったことに気付いたが、今更言っても仕方ない。
「少々お待ち下さい」
 俺は電話を保留にすると、ベッドルームに戻った。
「マナちゃん……」
「聞こえてたから、判ってる」
 そう言うと、マナちゃんはパジャマの裾を引きずりながら、リビングに歩いていく。
 元々、俺用に買っておいたパジャマなので、マナちゃんには大きすぎるわけなんだけど、裾をずるずると引きずって歩いてるのが歌舞伎役者みたいで、俺は思わず微笑んだ。

「……あ、はい。それでは9時に『エコーズ』で」
 マナちゃんはメモを取りながらうなずいた。
「……ええ。すみません。……はい、今後は気を付けます。……わかりました。それでは」
 チン
 電話を切ると、マナちゃんはため息を一つついて、ソファに身体を投げだした。
「まずっちゃった」
「連絡が取れなかったこと?」
「うん……。携帯も鳴らなかったけど、スイッチ切ってたかな……? あ、やっぱり切れてる」
 鞄から携帯電話を出して、マナちゃんは苦笑した。スイッチを入れるとピーッと音が鳴る。
 俺は立ち上がった。
「9時に『エコーズ』だって?」
「うん」
 こくりとうなずいて、体を起こす。
「藤井さん、もう一度だけ聞くけど」
「何?」
「本当に、お姉ちゃんと……あんなこと?」
 俺はうなずいた。マナちゃんはじと目になって、ぼそっと言う。
「……変態」
「なんでだよう?」
「変態に決まってるでしょ変態。変態よ、絶対変態だわ」
「あああああああ」
 俺は頭を抱えて落ち込んだ。
「マナちゃんにまで変態呼ばわりされるとはぁぁ」
「さて、私、一度家に戻る。直接『エコーズ』で落ち合うの。いい?」
 マナちゃんは立ち上がった。
「戻る?」
「あのね。私、藤井さんじゃないんだから、昨日と同じ服で仕事なんて耐えられないのよっ」
 そう言いながら、マナちゃんはバスルームに消えた。
 カランカラン
 俺がドアを開けると、カウベルが陽気に鳴る。
「あ、冬弥くん、マナちゃん、こっちだよ〜」
 奥のボックス席で、由綺が陽気に手を振っていた。俺は思わず苦笑した。
 由綺の隣で、弥生さんが静かに頭を下げる。
 俺とマナちゃんは、二人に挨拶しながら、その向かい側に座った。
 マスターが俺達の前にレモンスカッシュとブレンドを運んでくると、カウンターに戻っていく。
 マナちゃんはくるっと店内を見回して、他に客が居ないことを確かめると、バッグから手帳を出した。
「さて、と」
「ねぇ、マナちゃん。私、警察の人にどう言えばいいの?」
 機先を制するように、由綺がマナちゃんに尋ねた。
「うん……」
 少し迷ってから、マナちゃんはじっと由綺の瞳を見て、言った。
「取り調べする刑事が、長瀬さんだったら、率直に答えていいよ」
「長瀬さん?」
「一昨日、お姉ちゃんの話を聞いた刑事が二人いたでしょ? その年取った方の……」
「ああ、うん。覚えてるよ。ちょっとよれっとした感じの人だよね?」
「そうそう。その刑事さんだったら、聞かれたことに素直に答えた方がいいと思うな」
「……」
 弥生さんは無言である。
「でも、しゃべったらいけないこととか、こう聞かれたらこう答えろとか、ないの? グラスの事を聞かれたら知らないって答えろ、とか……」
「ううん」
 マナちゃんは首を振った。そしてずばっという。
「だって、お姉ちゃん、演技下手だもん」
 うんうんと、俺と、弥生さんまでうなずく。由綺はちょっとむくれた。
「ひどいなぁ、みんなして……」
 でも、一応由綺も自覚はあるらしく、それ以上は言わなかった。
「一応、私も付いていくね」
「私も行きます」
 マナちゃんと弥生さんが、由綺を力づけるように言った。
「あ、俺も……」
「藤井さんは事務所の片づけよろしく」
「なんですと?」
 思わず聞き返す俺に、マナちゃんはにーっと笑った。
「何か文句ある?」
「……いえ、ないです」
「よろしい」
 一つうなずいてから、マナちゃんはちらっと弥生さんに視線を向けた。
「……なんでしょうか?」
「ごめんなさい。ちょっと席を外してもらえます?」
「私が居てはいけない話でしょうか?」
 じろっとマナちゃんを見おろす弥生さん。弥生さんの身長は俺と余り変わらないくらいだから、やっぱり身長差は20センチくらいはある。
 弥生さんお得意の、氷点下の視線。俺だったらすぐに白旗上げて撤退するところだが、さすがマナちゃんは違う。
「ごめんね。すぐに済むから」
「……手短にお願いします」
 そう言って、弥生さんは立ち上がった。そのままカウンター席に移動する。
 その姿を見送ってから、由綺はちょっと小さな声で訊ねた。
「マナちゃん、どうしたの?」
「お姉ちゃん、単刀直入に聞きたいんだけど……」
 こちらもヒソヒソ声でマナちゃんは聞き返す。
「なぁに?」
「あの晩のこと」
 マナちゃんの言葉に、コーヒーを口に運ぼうとした由綺の手が止まる。
「ね、お姉ちゃん。正直に答えて欲しいの」
「う、うん……」
 カチャ
 由綺はコーヒーカップをソーサーに戻した。
 マナちゃんは、訊ねた。
「本当に、藤井さんって、一晩添い寝してくれただけなの?」
「うん」
 由綺は、恥ずかしそうに赤くなって俯いた。
「ごめんね、マナちゃん。あの時は、私、何て言うか、すっかり動転しちゃってて、でも冬弥くんがいてくれると、それだけでなんだか安心できたって言うか……。あ、でも、好きとか恋してるとか、そういうのとはなんだかちょっと違うんだけど……ええっと、なんていえばいいのかな……」
「……もういいよ、お姉ちゃん。そうだよね、お姉ちゃんが藤井さんと……なんてあるわけないもんね」
「え?」
 きょとんとして、顔を上げる由綺。
「私と冬弥くんが、何?」
「何でもないわよっ」
 なんだか不自然なくらいにこにこしながら答えるマナちゃんと、?マークを頭の回りに飛ばしている由綺。
 俺はその二人を見て、思わず笑みをこぼしていた。
 その後、警察に行く3人と別れて、俺は事務所に戻った。
 警察の現場検証も終わって、事務所には誰もいない。荒涼とした、まるで産業廃棄物置き場のような事務所の、破かれた革張りのソファに、誰かが座っていた。
「誰だ!?」
 思わず身構える俺に、聞き慣れた声が聞こえた。
「災難だったようだな、青年」
「英二さん?」
「電話が通じないから、直接来てみればこの有様だ。どうやら、とばっちりを受けたようだな」
 英二さんは立ち上がった。そして、机の上に伏せて置かれたフォトスタンドをひっくり返す。
 昨日、マナちゃんが床から拾い上げたフォトスタンド。俺とマナちゃん、そして由綺が笑顔で映っていた写真。その由綺の顔が切り裂かれている。
 それを、英二さんは眼鏡の奥の瞳を鋭くして見つめていた。
 微かに、呟きが聞こえる。
「……そこまで追いつめられてた、か」
「え?」
「新ユニットの話をしてあげようと思ってね」
 いきなり話が飛ぶ。
 新ユニットって、昨日理奈ちゃんがもらしかけた、あのことか?
「緒形プロダクションから、近々新ユニットがデビューする。業界内では既に結構、噂になっててね」
 カタン
 フォトスタンドを机に置くと、英二さんは笑みを唇に浮かべて、言った。
「新ユニットの名前はまだ未定だが……。まぁ、仮に森川由綺 with E.OGATAとでもしておこうか」
 俺は、それだけで了解した。
 今でこそプロダクション経営をしてる英二さんだが、一流のミュージシャンとしての名声も高い。その緒形英二がカムバック、しかもコンビを組む相手は、スーパーアイドル森川由綺とくれば、ヒットチャート上位独占は最初から決まったようなものだ。それどころか、今年の音楽関係の賞も総なめにしかねない。
 他のプロダクションからしてみれば、阻止できるものなら阻止したいに違いない。
「それじゃ、その新ユニット潰しのために……?」
「あくまでも、可能性だが」
 英二さんは、窓に歩み寄ると、斜めに垂れ下がったブラインドごしに外を睨み付けた。
「中川巧は、既にアイドルとしての盛りを過ぎてる。人気は落ちてるし、かといって次のステップにあがれるほどの実力もない。放っておいても、半年もたたないうちに引退に追い込まれただろうな」
「……それって……」
 俺は絶句した。
「それじゃ、由綺を潰すために、道具として使われたっていうんですか?」
「……」
 不意に、英二さんは振り返った。その唇には、いつものシニカルな笑みが浮かんでいる。
「……なんて話は、面白いだろう?」
「え?」
 俺は一瞬キョトンとする。それから、おそるおそる聞き返した。
「もしかして、今のって冗談だったんですか?」
 英二さんは、それには答えずに時計を見た。
「おっと、こんな時間だ。そろそろテレビ局に行かないと、理奈がかんかんになって怒るからな。それじゃ、青年。後片づけ、頑張れよ」
 それだけ言い残して、俺にしゃべる隙も与えず、英二さんは事務所を出ていった。
「……って英二さんは言ってたんですけど、どう思います? 美咲先輩は」
 結局、お昼までかけて一通り事務室を片づけたあとで、俺は悠凪大学の図書館にやって来た。前にも言ったとおり、美咲先輩はこの図書館で司書として働いているからだ。
 運良く、ちょうどお昼ご飯を取ろうとして、図書館から出ようとしていた美咲先輩を捕まえる事が出来た俺は、こうして学食で一緒にランチしているわけだ。
「そうね……」
 少し考えてから、美咲先輩は呟いた。
「多分、本当だと思うけど……」
「やっぱり、そう思いますか?」
「ええ……。私は、緒形英二さんと直接お話したことはないけれど、藤井くんの話を聞いてると、あまり嘘を付く人じゃないと思うわ」
「そうかなぁ?」
 俺は首を傾げた。ま、俺の場合は、理奈ちゃんが何かあるたびに英二さんのことを「あの嘘つき」呼ばわりしてたのを聞いてるってせいもあるんだろうけど。
「だとすると、由綺ちゃんを罠に掛けた犯人は、自ずと絞られるわね」
「ええ……」
 俺はうなずいた。
「中川巧の所属していたプロダクション……ファイジング・プロ」
「でも、まずもっと確実な証拠を見つけないと」
 食事の終わった美咲先輩は、紙ナプキンで口を拭きながら言った。
「まだ状況証拠でしかないでしょう?」
「ええ……。でも、どういう証拠を捜せばいいんでしょう?」
「そうね……。まずは、どうやって中川さんに毒を飲ませたか。それを解明するのが早いんじゃないかしら?」
「そうか……。飲ませた手口が判れば、『誰が』も判るかもしれないですね」
 俺は一つうなずいて、立ち上がった。
「ありがとうございました。それじゃ」
「頑張ってね」
 美咲先輩はにこっと微笑むと、軽く手を振って俺を見送ってくれた。……彰が見てたら、殴られかねない構図ではある。
「ただいまぁ」
 マナちゃんが事務所に帰ってきたのは、午後7時を過ぎたところだった。
「あ、お帰り……」
 俺は資料室から顔を出して、慌ててひっこめた。
「ちょっと藤井さんっ! 何ゴソゴソしてるのよ!」
 マナちゃんは思いっ切り不機嫌そうだった。
 俺は覚悟を決めて、おそるおそる資料室から出た。
「ど、どうしたのかなぁ〜、マナちゃんは?」
「どうもこうもあるもんですか! あのぼんくら官僚機構の末端にぶら下がる官憲の犬ども〜」
 それからたっぷり5分ほど、マナちゃんはお巡りさんが聞いたらその場で逮捕したくなるような悪口雑言のバリエーションを並べ続けた。それがようやく途切れたのを見計らって、俺は訊ねた。
「一体なにがどうしたの?」
 マナちゃんの話によると、今日、由綺の取り調べに当たったのは、なぜか長瀬刑事ではなく、マナちゃん曰く「もっと偉い馬鹿」だったそうだ。その「能なし」は、由綺にあること無いこと容赦なく言いつづけ、とうとう由綺が泣きだしてしまう始末だったらしい。
(……その「偉いさん」とやらの命脈も、長くはないな)
 俺は、由綺を泣かせたというそいつに同情する気はさらさらなかったが、マナちゃんと弥生さんを敵に回して無傷で済むはずもない。それを思うと、何とも複雑な気分になるのだった。
「まぁ、最悪の事態になる前に、私達がお姉ちゃんを助けだしたからよかったようなものの……」
 そう言いながら、マナちゃんはソファにぼすっと腰を下ろした。そのまま、ずぼずぼっとはまり込む。
「きゃぁぁ!」
 一応見ばえだけでも、と思って、切り裂かれてスプリングが飛び出したソファには、上から布をかぶせておいたんだけど、それが災いしたようだ。
「マナちゃん、大丈夫!?」
 慌てて俺はマナちゃんを引っ張り起こした。
 ビリビリッ
「あ……」
 この世の終わりのような音がした。見ると、マナちゃんのスカートにスプリングが引っかかっていた。それを俺が引っ張り起こしたもんだから、スカートが裂けてしまって……。
「ふ・じ・い・さぁん」
 マナちゃんはにぃっと笑った。でも、こめかみに血管が浮いてる……。
「ばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかっ!!」
 ぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかっ
 拳で俺の至る所を殴り回した後、マナちゃんは高らかに宣言した。
「このスカート高かったんだからねっ! ちゃんと弁償してよねっ!」
 ……誰か教えてくれ。
 俺は、五体満足で事件が解決するところを拝むことが出来るんだろうか?

to be continued

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