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殺意のシャンパングラス
結局、カウンター席は、美咲先輩を中央に挟んで俺とマナちゃんが座ることで決着した。マナちゃんはもの凄く何か言いたそうだったけど、俺がここに座らなかったら、彰が戻ってきたときに当然のごとくこのポジションに座ることを考えて我慢したようだ。
美咲先輩は、俺とマナちゃんの前にマスターがブレンドとレモンスカッシュを並べて、元の位置に戻ってから、不意に言った。
「私、七瀬君から話を聞いて考えてたんだけど……」
「え?」
「あ、ほんの勘よ。証拠も何もないんだけどね」
俺達の真剣な表情に気付いて、慌てて手を振ると、美咲先輩は言葉を続けた。
「でも、私、これはその中川って人を狙ったんじゃないと思う。なぜかって聞かれると、ちょっと困るんだけど……」
そう言ってはにかむ美咲先輩。
「それじゃ、美咲先輩は、誰を狙ったと思ってるんですか?」
「うん。やっぱり、由綺ちゃんじゃないのかな……って」
うんうんと大きくうなずくマナちゃんを先輩越しに見ながら、俺はあえて反論してみた。
「だけど、それにしては不確実じゃないですか? 由綺がタク……中川巧にシャンパンを勧めて、そのシャンパンに毒が入ってたから、タクは死んだ。仮に、由綺が勧めたのがシャンパンじゃなくて水割りだったら、そいつは死ななかったんじゃないですか?」
「……うん、そうよね。ごめんなさい。やっぱり素人考えよね……」
美咲先輩はしゅんとしてしまった。あ、まずい。向こうでマナちゃんが目を三角にしてる。
俺は慌てて、まだ口を付けてないコーヒーを美咲先輩の前に回した。
「あ、コーヒーどうぞ」
美咲先輩の前にあるコーヒーカップはもう空になっていたからだ。
「藤井さん!」
不意にマナちゃんが声を上げた。
「え? 何?」
「それよ、それ!」
マナちゃんは俺が美咲先輩の前に置いたコーヒーカップを指した。
「それって、このコーヒー? マナちゃん、コーヒー飲みたいの?」
きょとんとして聞き返す美咲先輩。
マナちゃんは首を振った。
「そうじゃないよ。藤井さん、どうして美咲先輩にコーヒーを勧めたの?」
「え? だって、他に……。あ、そうか」
俺も遅まきながら、マナちゃんの言いたいことに気付いた。
「テーブルの上には、ドンペリしかなかった?」
「そうそう。お姉ちゃんはドンペリを選んだんじゃなくて、選ばされたのよ!」
興奮気味のマナちゃんを怒らせるのは判ってたけど、俺は言った。
「でも、不確実だよ。そもそも、タクが『喉が乾いた』って言わなかったら、由綺は飲ませなかっただろ? それに、他の人が飲んでしまう可能性もある……。あれ?」
不意に俺は思いだした。
「そういえば、そもそもドンペリの瓶から毒は出なかったんだろ?」
「あ、そうか……」
マナちゃんはかくっと肩を落として、カウンターに突っ伏した。
美咲先輩はそんなマナちゃんの肩に優しく手をかけながら、俺に尋ねた。
「そうなの?」
「ええ。警察の鑑識結果じゃそうらしいですよ。担当の刑事からマナちゃんが聞きだしたんですけどね」
と。
カランカラン
「ただいまぁ。あ、冬弥にマナちゃんも来てたのか」
スーパーの袋を抱えて、冬弥が『エコーズ』に入ってきた。
美咲先輩の両脇が俺とマナちゃんに固められているのを見た彰が、余りに哀しげな目で俺を見るので、俺はみんなでボックス席に移ることを提案した。
結局、美咲先輩の隣はマナちゃんに取られたが、彰は先輩の正面の席になったので、それなりに満足そうであった。
それから、俺とマナちゃんは警察の鑑識結果の詳しい報告を彰と美咲先輩にした。
「変な話だね。それじゃ、確かに由綺しか毒を入れられないね」
彰は呟いた。マナちゃんがムッとした顔で彰を見たかと思うと、俺の臑に激痛が走る。
「〜〜〜っ!!」
どうやら、彰を蹴飛ばそうとしたが、斜め向かいに座ってるので足が届かず、その代わりに正面に座っている俺の臑を蹴っ飛ばしたらしい。
俺が無言で痛みに耐えているのに気付いた美咲先輩が、気づかわしげに俺を見る。
「藤井くん、どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないです」
俺は痛みに耐えながら笑顔を作って答えた。
彰は、俺が尊い犠牲を払っているとは気付かない様子で、腕組みして言葉を続けた。
「例えば、シャンパンをグラスに注いだ後で、そのシャンパンの中に水溶性のカプセル入りの毒薬を入れる。カプセルはすぐに溶けて、グラスの中で毒入りシャンパンが出来上がる。あとはそれを飲ませてしまえば……」
「七瀬君……。由綺ちゃんはそんなことしないわ」
哀しげな声で美咲先輩は呟いた。彰は慌てて手を振る。
「あ! ぼ、僕はただ可能性を言っただけで、由綺が犯人と言ってるわけじゃないですよ!」
「……思いきり決めつけてたわ」
「うん」
マナちゃんと俺がうなずき合って、美咲先輩はますます哀しそうな顔で俯いてしまった。さらに慌てる彰。
「えっと、そうじゃなくて、その……。そ、そうだ! 冬弥、他に新しい情報はないの?」
あんまり彰をいじめても、由綺が助かるわけじゃないし。
俺はマナちゃんに尋ねた。
「他にはなにかある?」
「……」
無言で肩をすくめるマナちゃん。
「……とすると……。由綺が狙われる理由って何かあるのかな?」
「そりゃ……」
俺が言いかけると、彰は首を振った。
「いや。今この時期に狙う理由だよ。由綺はデビューの翌年の音楽祭で準優勝、その次の年に優勝してるんだよ。それからずっと、コンスタントに理奈ちゃんと並ぶビッグネームとして芸能界に君臨し続けてる。もし潰すんならもっと早く潰しにかかってるはずだと思うけどな」
確かに、デビューしてから人気がグングン上がるまで、結構色々と由綺を潰そうとしたところがあるらしい。もっとも、由綺自身は知らないうちに、英二さんと弥生さんの鉄壁の防御のせいで、ことごとく返り討ちにあったって話らしい。
美咲先輩が、考えながら口を挟む。
「もっと、人気が上がるかもしれない……ってことかも」
「人気が、上がる……。あ!」
俺は不意に思い出した。朝、理奈ちゃんがここで口を滑らせかけた言葉を。
「それに、今度のユニットは……」
「理奈ちゃん、それは機密だよ」
彰もそれを思いだしたらしく、呟いた。
「それなら、つじつまが合うよね。由綺にこれ以上の人気が出たら、理奈ちゃんやナガオカも越えるスーパーアイドルになりかねないもの」
「それを恐れた他のプロダクションによる、森川由綺潰しの陰謀ってことか」
「でも、それだけのために人を一人殺す、なんてするの?」
美咲さんは呟いた。
「それじゃ、その中川さんって人が可哀想だわ……」
「……」
俺達は、黙り込んだ。
確かに、森川由綺を社会的に抹殺するために死んだのだとしたら、中川巧という人間の人生は、一体なんだったのだろう?
不意にマナちゃんが立ち上がった。
「マナちゃん?」
「行くわよ、藤井さん。澤倉先輩、ありがとうございました」
美咲先輩にペコリと頭を下げると(彰は無視して)マナちゃんはスタスタと歩きだした。
「マナちゃん! あ、先輩、彰、ごめん。コーヒー代置いておくから」
俺は財布から千円札を抜いて置くと、マナちゃんの後を追いかけた。
to be continued