喫茶店『Mute』へ  目次に戻る  前回に戻る  末尾へ  次回へ続く

White Album Short Story #3
弁護士 観月マナ 1

殺意のシャンパングラス

 結局、カウンター席は、美咲先輩を中央に挟んで俺とマナちゃんが座ることで決着した。マナちゃんはもの凄く何か言いたそうだったけど、俺がここに座らなかったら、彰が戻ってきたときに当然のごとくこのポジションに座ることを考えて我慢したようだ。
 美咲先輩は、俺とマナちゃんの前にマスターがブレンドとレモンスカッシュを並べて、元の位置に戻ってから、不意に言った。
「私、七瀬君から話を聞いて考えてたんだけど……」
「え?」
「あ、ほんの勘よ。証拠も何もないんだけどね」
 俺達の真剣な表情に気付いて、慌てて手を振ると、美咲先輩は言葉を続けた。
「でも、私、これはその中川って人を狙ったんじゃないと思う。なぜかって聞かれると、ちょっと困るんだけど……」
 そう言ってはにかむ美咲先輩。
「それじゃ、美咲先輩は、誰を狙ったと思ってるんですか?」
「うん。やっぱり、由綺ちゃんじゃないのかな……って」
 うんうんと大きくうなずくマナちゃんを先輩越しに見ながら、俺はあえて反論してみた。
「だけど、それにしては不確実じゃないですか? 由綺がタク……中川巧にシャンパンを勧めて、そのシャンパンに毒が入ってたから、タクは死んだ。仮に、由綺が勧めたのがシャンパンじゃなくて水割りだったら、そいつは死ななかったんじゃないですか?」
「……うん、そうよね。ごめんなさい。やっぱり素人考えよね……」
 美咲先輩はしゅんとしてしまった。あ、まずい。向こうでマナちゃんが目を三角にしてる。
 俺は慌てて、まだ口を付けてないコーヒーを美咲先輩の前に回した。
「あ、コーヒーどうぞ」
 美咲先輩の前にあるコーヒーカップはもう空になっていたからだ。
「藤井さん!」
 不意にマナちゃんが声を上げた。
「え? 何?」
「それよ、それ!」
 マナちゃんは俺が美咲先輩の前に置いたコーヒーカップを指した。
「それって、このコーヒー? マナちゃん、コーヒー飲みたいの?」
 きょとんとして聞き返す美咲先輩。
 マナちゃんは首を振った。
「そうじゃないよ。藤井さん、どうして美咲先輩にコーヒーを勧めたの?」
「え? だって、他に……。あ、そうか」
 俺も遅まきながら、マナちゃんの言いたいことに気付いた。
「テーブルの上には、ドンペリしかなかった?」
「そうそう。お姉ちゃんはドンペリを選んだんじゃなくて、選ばされたのよ!」
 興奮気味のマナちゃんを怒らせるのは判ってたけど、俺は言った。
「でも、不確実だよ。そもそも、タクが『喉が乾いた』って言わなかったら、由綺は飲ませなかっただろ? それに、他の人が飲んでしまう可能性もある……。あれ?」
 不意に俺は思いだした。
「そういえば、そもそもドンペリの瓶から毒は出なかったんだろ?」
「あ、そうか……」
 マナちゃんはかくっと肩を落として、カウンターに突っ伏した。
 美咲先輩はそんなマナちゃんの肩に優しく手をかけながら、俺に尋ねた。
「そうなの?」
「ええ。警察の鑑識結果じゃそうらしいですよ。担当の刑事からマナちゃんが聞きだしたんですけどね」
 と。
 カランカラン
「ただいまぁ。あ、冬弥にマナちゃんも来てたのか」
 スーパーの袋を抱えて、冬弥が『エコーズ』に入ってきた。

 美咲先輩の両脇が俺とマナちゃんに固められているのを見た彰が、余りに哀しげな目で俺を見るので、俺はみんなでボックス席に移ることを提案した。
 結局、美咲先輩の隣はマナちゃんに取られたが、彰は先輩の正面の席になったので、それなりに満足そうであった。
 それから、俺とマナちゃんは警察の鑑識結果の詳しい報告を彰と美咲先輩にした。
「変な話だね。それじゃ、確かに由綺しか毒を入れられないね」
 彰は呟いた。マナちゃんがムッとした顔で彰を見たかと思うと、俺の臑に激痛が走る。
「〜〜〜っ!!」
 どうやら、彰を蹴飛ばそうとしたが、斜め向かいに座ってるので足が届かず、その代わりに正面に座っている俺の臑を蹴っ飛ばしたらしい。
 俺が無言で痛みに耐えているのに気付いた美咲先輩が、気づかわしげに俺を見る。
「藤井くん、どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないです」
 俺は痛みに耐えながら笑顔を作って答えた。
 彰は、俺が尊い犠牲を払っているとは気付かない様子で、腕組みして言葉を続けた。
「例えば、シャンパンをグラスに注いだ後で、そのシャンパンの中に水溶性のカプセル入りの毒薬を入れる。カプセルはすぐに溶けて、グラスの中で毒入りシャンパンが出来上がる。あとはそれを飲ませてしまえば……」
「七瀬君……。由綺ちゃんはそんなことしないわ」
 哀しげな声で美咲先輩は呟いた。彰は慌てて手を振る。
「あ! ぼ、僕はただ可能性を言っただけで、由綺が犯人と言ってるわけじゃないですよ!」
「……思いきり決めつけてたわ」
「うん」
 マナちゃんと俺がうなずき合って、美咲先輩はますます哀しそうな顔で俯いてしまった。さらに慌てる彰。
「えっと、そうじゃなくて、その……。そ、そうだ! 冬弥、他に新しい情報はないの?」
 あんまり彰をいじめても、由綺が助かるわけじゃないし。
 俺はマナちゃんに尋ねた。
「他にはなにかある?」
「……」
 無言で肩をすくめるマナちゃん。
「……とすると……。由綺が狙われる理由って何かあるのかな?」
「そりゃ……」
 俺が言いかけると、彰は首を振った。
「いや。今この時期に狙う理由だよ。由綺はデビューの翌年の音楽祭で準優勝、その次の年に優勝してるんだよ。それからずっと、コンスタントに理奈ちゃんと並ぶビッグネームとして芸能界に君臨し続けてる。もし潰すんならもっと早く潰しにかかってるはずだと思うけどな」
 確かに、デビューしてから人気がグングン上がるまで、結構色々と由綺を潰そうとしたところがあるらしい。もっとも、由綺自身は知らないうちに、英二さんと弥生さんの鉄壁の防御のせいで、ことごとく返り討ちにあったって話らしい。
 美咲先輩が、考えながら口を挟む。
「もっと、人気が上がるかもしれない……ってことかも」
「人気が、上がる……。あ!」
 俺は不意に思い出した。朝、理奈ちゃんがここで口を滑らせかけた言葉を。

「それに、今度のユニットは……」
「理奈ちゃん、それは機密だよ」

 彰もそれを思いだしたらしく、呟いた。
「それなら、つじつまが合うよね。由綺にこれ以上の人気が出たら、理奈ちゃんやナガオカも越えるスーパーアイドルになりかねないもの」
「それを恐れた他のプロダクションによる、森川由綺潰しの陰謀ってことか」
「でも、それだけのために人を一人殺す、なんてするの?」
 美咲さんは呟いた。
「それじゃ、その中川さんって人が可哀想だわ……」
「……」
 俺達は、黙り込んだ。
 確かに、森川由綺を社会的に抹殺するために死んだのだとしたら、中川巧という人間の人生は、一体なんだったのだろう?
 不意にマナちゃんが立ち上がった。
「マナちゃん?」
「行くわよ、藤井さん。澤倉先輩、ありがとうございました」
 美咲先輩にペコリと頭を下げると(彰は無視して)マナちゃんはスタスタと歩きだした。
「マナちゃん! あ、先輩、彰、ごめん。コーヒー代置いておくから」
 俺は財布から千円札を抜いて置くと、マナちゃんの後を追いかけた。

 『エコーズ』を出たところで、俺はマナちゃんに追いついた。
「どうしたんだよ、マナちゃん」
「もう一度、中川巧を徹底的に洗うのよ」
「洗うって……。あ、ちょっと待ってよ! マナちゃん!!」
「観月先生よっ!」
 ガヅゥン
「痛ぇぇぇっ!!」
 夕方になって、俺とマナちゃんは事務所に戻ってきた。
 結局一日歩き回る羽目になって、俺はかなり疲れていた。マナちゃんも同じくらい(いや、朝からあちこち行ってたみたいだから、俺以上に)歩き回ってるはずだが、まだ元気そうだ。
 エレベータを出たところで、俺はそのマナちゃんの背中に衝突した。
 ボフッ
「うわっ」
「きゃっ! 藤井さん、何するのよっ!!」
 振り返りざまのマナちゃんの裏拳をかわして、そのまま尻餅をつく俺。
「何って、マナちゃんが急に立ち止まるから……」
「ドアが開いてる……」
「え?」
 言われて、俺は事務所の方を見た。
 雑居ビルの4階の奥に、観月法律相談所がある。そのドアが開いていた。
 マナちゃんは、じろぉっと俺を見た。
「藤井さん。鍵閉めるの忘れてたんでしょう?」
「え? あ……」
 そういえば、今朝英二さんに引っ張りだされた時、鍵をかけなかったような……。
「ふ〜じ〜い〜さ〜ん〜」
「わ、マナちゃん落ちつけ! とにかく事務所に入ろう。ね?」
 廊下で撲殺されるも、事務所で撲殺されるも、似たようなものだが、とりあえず俺はそう提案した。
 マナちゃんはうなずいて、事務所に駆け寄ると、ドアの中を覗き込み、硬直した。
「……どうしたの?」
 聞きながら、俺もドアの中を覗き込んで、息を飲んだ。
 事務所は、何者かによって荒らされていた。
 まるで、台風でも中で吹き荒れたような荒らされ方だった。ガラスというガラスが割られて、書類は破かれ、革張りの来客用ソファも無惨に切り裂かれてスプリングがはみ出していた。
 俺は資料室のドアを慎重に開けてみて、ため息をついた。資料室も同様の様子だったからだ。
「……」
 マナちゃんは、無言で床に落ちていたフォトスタンドを拾い上げた。
 その中に映っているのは、俺とマナちゃんと由綺の3人。
 その由綺の顔が、切り裂かれていた。
「マナちゃん……。ごめん。俺が鍵を掛けるのを忘れたから……」
 俺はマナちゃんの肩を抱いた。
「……」
 マナちゃんは、俺の胸に頬を押しつけて、静かに目を閉じた。
 その閉じた瞳から、涙が一筋、流れ落ちた。
「マナちゃん……」
 俺は、マナちゃんを抱きしめた。
 破れて斜めに傾いだブラインドの隙間から射してくる赤い夕陽に染まりながら、荒れ果てた事務所の中で、俺とマナちゃんはずっとそうしていた……。
 やっと平静を取り戻したマナちゃんが警察に連絡したのは、すっかり暗くなってからだった。
 それから、やって来た警察に事情を説明したり、警察の現場検証を見てたりしてたので、ようやくそれが終わって帰途についた時には、もう時計は10時を回っていた。
 俺とマナちゃんは、黙って歩道を歩いていた。マナちゃんが少し前を歩き、その後を俺が歩く。
 ゴウッ
 時折通り過ぎる車のヘッドライトが、一瞬だけ俺とマナちゃんの影を焼きつけ、そして消えていく。
 そのエンジンの音が聞こえなくなると、俺達の靴音だけが響く。
 やがて、交差点までやってきた。俺のアパートはここから右に曲がり、マナちゃんの家は真っ直ぐ行く。
 俺は立ち止まって片手を上げた。
「それじゃ、マナちゃん。また明日」
「うん……」
 返事を確認して、俺は歩きだそうとした。
「ふ、藤井さん!」
「え?」
 振り返ると、マナちゃんは俯いていた。
「どうしたの?」
「……あの、ね。……藤井さんの家に、行ってもいい?」
「マナちゃん……」
 あんなことがあったから、一人じゃ心細いのかな。
 俺は、微笑んだ。
「いいよ。今夜は泊まっていきなよ」
 家に帰ると、マナちゃんにシャワーを浴びさせて、その間に俺は冷蔵庫から牛乳を出した。ミルクパンに牛乳を入れて、砂糖を入れて火に掛ける。
 バスルームから聞こえていたシャワーの音が止まり、マナちゃんがドアから顔だけ出した。
「あの……」
「え? あ……」
 俺もはたと気付いた。マナちゃん、着替えなんて持ってきてるわけがない。
「ちょ、ちょっと待ってて」
 俺は慌ててファンシーボックスを開けて、中からまだ着ていないパジャマを出した。そしてそっぽを向きながら、マナちゃんに手渡す。
「これ、使っていいよ」
「うん……」
 マナちゃんは、パジャマを受け取ると、バスルームの中に引っ込んだ。俺は、キッチンに戻って、牛乳を暖める事に専念した。
「はい、ホットミルク。落ちつくよ」
「うん……」
 パジャマ姿でソファに座ったマナちゃんは、マグカップを受け取った。いつもは2つに分けて縛っている髪を解いているせいか、いつもの印象とは違って見える。
 ホットミルクを一口飲んで、マナちゃんは俺を見上げた。
「ごめんね。ぼーっとしちゃってて」
「いや、いいよ」
 普段、どれくらいしっかりしてても、弁護士って肩書きを外せば、マナちゃんは普通の女の子なんだ。
 俺が支えてやらなくて、どうするんだ?
 それを、俺は……。
「藤井さん……」
 マナちゃんは、心細げな顔で俺を見つめる。
「ん?」
「あのね、藤井さん……。お姉ちゃんのこと……」
「由綺の?」
「うん……。お姉ちゃんのこと、まだ……好きなの?」
「……ああ」
 俺は肯いた。
「……そう、だよね。……ごめんね、藤井さん」
「だけど、マナちゃんは大好きだ」
「……え?」
 一瞬、きょとんとするマナちゃんを、俺は抱きしめた。
「きゃっ!」
「大好きだよ、マナちゃん」
「や、やだっ、もう」
 赤くなると、マナちゃんはマグカップをテーブルに置いた。それから、俺の腕を掴む。
「ね……」
「え?」
「藤井さんがお姉ちゃんにしてあげたこと、して欲しい……」
「いいよ」
 俺は肯くと、マナちゃんを抱き上げた。そして、ベッドにそっと降ろす。
「藤井さん……」
 マナちゃんは目を閉じた。俺はその唇に優しくキスをした。

to be continued

 メニューに戻る  目次に戻る  前回に戻る  先頭へ  次回へ続く