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White Album Short Story #3
弁護士 観月マナ 1
殺意のシャンパングラス
俺とマナちゃんは、『エコーズ』のカウンター席に並んで腰掛けていた。
カラン
マナちゃんの前に置かれたオレンジジュースの中の氷が、溶けて微かな音を立てた。
俺達は、どちらからともなく、ため息をついた。
それから、マナちゃんが呟いた。
「思わぬ展開だったわねぇ」
「まったく」
俺も同意した。
あれから、もう1週間がたつ。
結論から言えば、由綺は逮捕された。朝一に、任意同行を求められ、そして警察署内で逮捕、そのまま拘留。
それから、捜査本部長とやらが、得意げにマスコミに向かって、森川由綺を殺人容疑で逮捕と発表。ワイドショーは一時騒然となり、俺はマナちゃんにしたたか蹴飛ばされる羽目になった。
だが、その数日後になって、事件は意外な展開を見せた。
由綺が逮捕される羽目になった決定的な証言。その証言をした居村五郎が、自殺したのだ。
それも、最初の被害者である中川巧と同じ毒物を飲んで。
そして、残された遺書には、彼が中川巧を殺害したこと、その罪を森川由綺になすり付けようとしたことが赤裸々につづられていたという。
しかも、その遺書がマスコミにすっぱ抜かれ、大々的に報じられたのだ。
それによると、実は居村と中川は恋人同士だったのだという(もちろん、耽美な関係というやつだ)。中川が女好きで知られていたのは、あくまでもそれに対するカモフラージュだったのだ。
だが、中川は心変わりし、女に走った。その相手が由綺だったというわけだ。
居村は、自分を裏切った中川に復讐し、彼から中川を奪った由綺にその罪をなすりつけたのだ。
遺書には、これらのことが、彼自身の手によってことこまかにつづられていた。その内容には、犯人以外知り得ないような内容(たとえば、ドンペリをすり替えたこと、とか)まで書かれており、警察といえどもそれを信用せざるを得ないものだった。
それがマスコミにすっぱ抜かれたことにより、世論は一気に由綺の味方に付き、警察を非難し始めた。その結果として、捜査に重大な齟齬があったとして、捜査の指揮を執った本部長(取調べのときに由綺を泣かせた、マナちゃん曰く「もっと偉い馬鹿」のことだ)が更迭された。
この「警察内部の処分」が発表されたのが今朝のことだった。
そして……。
カランカラン
カウベルが鳴り、俺達は振り返った。
「えへへ。ただいま」
そこに、由綺がいた。
1週間あまり警察署に拘置されていたせいか、心なしやせたように見えた。でも、照れたように笑いながら、由綺はそこにいた。
「ゆ……」
「お姉ちゃん!」
立ち上がりかけた俺を突き飛ばして、マナちゃんは由綺に駆け寄った。そのままむしゃぶりつくように抱きつく。
「ごめんね、お姉ちゃん。私……、何の役にも立てなかった……」
「そんなことないよ、マナちゃん」
由綺は、マナちゃんの肩を優しくぽんぽんと叩いた。
と、
「由綺、感動の再会はいいけど、いつまでもそこにいたらあたし達も入れないんだけどさぁ」
後ろから声がした。由綺は慌ててどこうとするが、マナちゃんが体重を預けてたもんだから、そのままひっくり返りかける。
「おっと」
由綺とマナちゃんの二人をまとめて抱き留めたのは、その後ろにいた英二さんだった。
「すっ、すみません」
「なぁに、これも仕事のうちってね」
英二さんは、慌てて謝る由綺に笑いかけると、二人を店内に押し込んだ。
「何が仕事だか」
その後ろからちょっと膨れながら、理奈ちゃんが、最後に弥生さんが入ってきて、静かにドアを閉めた。
俺とマナちゃんが『エコーズ』で待っていた人は、これで全員が集まったわけだ。
「それにしても、英二さんや理奈ちゃんまで警察に行くなんて。すごい騒ぎになってませんでした?」
俺達も移動して、奥のボックス席に5人(弥生さんはさりげなくカウンター席に座ったので)で納まり、とりあえずコーヒーで乾杯した後で、俺は英二さんに尋ねた。
英二さんは、にやっと笑った。
「まぁ、俺達はそれが狙いだったんだから、覚悟のうえさ。なぁ、理奈」
「まぁね」
理奈ちゃんも肩をすくめる。
それで、やっと俺にも判った。
由綺が釈放となると、マスコミが殺到するのは間違いない。この二人は、マスコミの目をそらす、言ってみれば囮の役目をしてくれたんだ。
「例には及ばないぞ、青年」
俺がお礼を言おうとすると、機先を制するように英二さんは言った。
「これが僕の仕事だからな」
「じゃあ、理奈ちゃんにだけお礼を言っておきますよ」
俺が答えると、英二さんはクスッと笑った。
「言うようになったな、青年」
「いいのよ、ほっといて。兄さんはこういうのを楽しみにしてるんだから」
理奈ちゃんは肩をすくめた。
そこで、由綺は初めて二人のしてくれたことに気が付いたらしい。いきなり涙ぐんでいる。
「緒方さん、理奈ちゃん、ありがとう。私のために……」
「何言ってるのよ。もともとが、由綺のせいじゃないでしょう?」
理奈ちゃんは優しく言った。
英二さんは腕組みした。
「しかし、これで例のユニットもしばらく延期ってことになりそうだなぁ」
「例のユニットって……、ああ、あの」
前に英二さんが言っていた、由綺と英二さんのユニットのことだ。
「でも、どうしてです? 由綺とは組めないってことなんですか?」
俺が訊ねると、当の由綺ではなく理奈ちゃんがぴくりと反応した。由綺の方はというと、一拍置いてから「自分のこと?」というようにきょろきょろしている。
首を振ると、英二さんは言った。
「個人的には、由綺くんには色々と興味があるんでね……」
ガシャン
不意にテーブルが揺れ、コーヒーにさざ波が立った。
「おっと、失礼。テーブルに足をぶつけてしまったよ」
微かに笑う英二さん。俺が何の気なしに右を見ると、そこに座っていたマナちゃんが、ずっこけている。
多分、英二さんが臑を蹴飛ばそうとしたマナちゃんの攻撃をかわしたんだろう。
何ごともなかったように英二さんは言葉を続けた。
「だが、物事にはタイミングってものがあるからな。そういう意味では、今は最悪のタイミングだ」
「失礼ですが、そうでしょうか?」
不意に弥生さんがカウンター席から口を挟んだ。どうやらこっちの会話にはしっかりと聞き耳を立てていたらしい。
「由綺さんは、例えば証拠不十分で釈放、とかいう、限りなく黒に近い灰色という状況なのならともかく、無実の罪に陥れられていただけです。しかも、事件のために、本来は見向きもしないような層の人も由綺さんの名前を知ることになりました。マーケティングからいえば、今が売りだすチャンスなのではないですか?」
「確かにね。でも、由綺くんはそういうチャンスがなくても、いずれは上がっていくと僕は考えている。そのためにも、あえて今は売り出すことはしたくない」
英二さんはそう言うと、コーヒーを口に運んだ。
「逆に、由綺にとってはこのチャンスを使う方がマイナスだってことね。今売り出せば、確かに売れるでしょう。でも、それは由綺に後々までこの事件のことが付いて回ることになる……」
理奈ちゃんが、考え深そうに言った。
英二さんは、まだきょとんとしている由綺に言った。
「そんなわけだから、由綺くん、半年くらいは休養していたまえ」
「えっ? えっ? で、でも、仕事が……」
「仕事のことは、御心配なく」
英二さんの説明で納得したらしい。弥生さんはいつもの通り静かに言った。
「由綺さんは、ゆっくりと休養を取って下さい」
「で、でも……」
「充電と思ってればいいのよ」
理奈ちゃんはそう言って微笑んだ。
俺はコーヒーを一口飲んでから、呟いた。
「それにしても、誰が居村の遺書をマスコミに流したんだろう?」
それがきっかけで、由綺無罪論が世論で一気に盛り上がったわけだから、由綺や俺達にとっては恩人と言ってもいい人物なのだが……。
そこまで考えて、俺ははっとした。
(まさか、長瀬刑事!?)
あり得そうな話ではある。最初から、捜査方針には批判的なことを口にしてたし。
まぁ、あのおっさんのことだから、確かめても「なんのことですかなぁ」なんてへらへらしてるんだろうけど。
でも、それだけだろうか?
あのリークは、複数の放送局に同時にされたって聞いた。ちなみに情報源は目の前ですましてコーヒーを飲んでいる理奈ちゃんだから間違いないだろう。
しかも、どの放送局も「森川由綺はえん罪で捕まった」「国家権力の暴走」「囚われのアイドル」なんてセンセーショナルな報道を流してきた。一つくらいは疑ってかかる放送局があってもよさそうなものだったのだが。
長瀬刑事が情報をリークしたとしても、全ての放送局がそれを鵜呑みにして報道するとは思えないよなぁ……。
「どうしたんだ、青年。ぼーっとして」
英二さんの声に、俺ははっと我に返った。
気が付いてみると、全員が俺をじっと見ている。
「え? あ、えっと、何でもないですよ、なんでも」
俺は照れ笑いをすると、コーヒーカップに手をつけた。
マナちゃんが呆れたように言う。
「本当に、藤井さんって鈍いのよねぇ」
うんうんと、頷く由綺と理奈ちゃん。……ちょっと待て、どういうことだそれは?
「自分の胸に手を当てて考えてみるんだな、青年」
英二さんが、ほんの一瞬だけ真面目な目で言った。それから、みんなで(弥生さんは除く)笑いだす。
な、何のことなんだ?
俺が狼狽えていると、不意に英二さんが呟いた。。
「しかし、厄介な相手に借りを作ってしまったなぁ……」
「厄介な相手? 借り?」
聞き返すと、英二さんは軽く手を振った。
「いや、忘れてくれ、青年」
「そりゃないわよねぇ、藤井くん。兄さんったら、思わせぶりな事ばっかり言うんだもの」
上品にコーヒーカップを口に運ぶ理奈ちゃん。いや、俺は別に英二さんが秘密にしておきたいことまで聞きだそうとは思ってないんだけどなぁ。
なんて俺が思ってると、理奈ちゃんは苦り切った表情の英二さんを見てくすくす笑った。どうやら、俺にかこつけて英二さんをいじめるのが楽しいらしい。
由綺が、そんな英二さん達と俺を交互にきょときょとと見比べている。
英二さんは、とうとう手を上げた。
「わかった、降参だ」
「なら、ちゃんと白状しなさい」
そう言って、もう一口コーヒーを飲んでから、俺にウィンクする理奈ちゃん。
と同時に、俺の右腕が思いきりつねられた。
「〜〜っ!!」
思わず右を見ると、そしらぬ顔でコーヒーを飲むマナちゃん。……やれやれ。
「聞く気がないなら、話すのはやめようか? 青年」
「え、……いえ、そうじゃなくて……」
俺は慌てて正面に向き直ると、頭を下げた。
「是非聞かせて下さい、英二さん」
「観月くんを信用してないわけじゃなかったんだけどな。実はもう一人、援軍を頼んでいたんだよ」
英二さんは、ソファの背もたれに体を沈めながら言った。
「援軍?」
「ああ。青年、君も逢っただろう?」
「俺が、ですか?」
聞き返す俺に、何故かニヤリと笑う英二さん。
あ、もしかして……。
「フリージャーナリストの星香香奈、ですか?」
「星香香奈? ……ああ、そう名乗ってたのか、彼女は」
英二さんは、今度は苦笑した。それから、テーブルに肘をついて、俺達の方に身を乗り出した。
「マスコミを森川由綺無罪の方向に誘導したのは、彼女なんだ」
「えっ!?」
俺とマナちゃん、そして由綺は同時に声を上げた。もっとも、由綺は突然自分の名前が出たので驚いただけなんだろうけど。
「リークしたのは、長瀬刑事じゃなかったの?」
マナちゃんが訊ねた。やっぱり、マナちゃんもそう思ってたのか。
英二さんは肩をすくめた。
「僕は、誰がリークしたかまでは聞いてない。警察関係者なのは間違いないだろうけどね。ただ、その情報を「森川由綺無罪」という方向に向けさせたのは、彼女だ」
「……」
俺は、言葉を失っていた。香奈って、マスコミを誘導できるくらいすごいヤツだったのか……。
不意に理奈ちゃんが英二さんに尋ねた。
「兄さん、もしかして、その彼女って……」
英二さんは、肩をすくめた。
「いや、最近充電中とやらで暇そうにしてたんでね。それに元々ジャーナリスト志望って言ってたし」
……?
英二さんの言葉よりも、理奈ちゃんの反応の方が、俺には気になっていた。
理奈ちゃんは、座りなおしてコーヒーカップを口に運んでいた。でも、さっきの優雅さがなくなっていたのは、手が小刻みに震えていたからだった。
俺は、マナちゃんに再び思いっ切りつねられるまで、理奈ちゃんを見つめていた。
すっかり日も暮れ、俺とマナちゃんは並んで道を歩いていた。
ちなみに、英二さんと理奈ちゃんは英二さんのミニクーパーで、由綺と弥生さんは弥生さんのBMWでそれぞれ帰っていった。
……俺も貯金しないとなぁ。外車とはいかなくても。
「でも、よかったなぁ、マナちゃん。由綺が釈放されて」
俺が話しかけると、マナちゃんは頭の後ろで手を組んで、空を見上げた。
「それについては、よかったわよ。でも……」
「何か気になることがあるの?」
「……うん」
マナちゃんは空を見上げたまま、うなずいた。
「本当は、誰が犯人だったんだろう?」
「え? 居村じゃないか。何を……」
言いかけた俺の臑に激痛が走った。
「いってぇぇ!!」
「馬鹿ねぇ……」
空を見上げたまま俺の臑を蹴飛ばすなんて、反則だぞマナちゃん!
俺が臑を抱えて呻いている間、マナちゃんはその脇で立ち止まっていた。
その口から、声が漏れた。
「居村も、タク……中川巧と同じよ。自殺ですって? 馬鹿馬鹿しい。誰かに殺されたのよ」
「誰かって?」
マナちゃんは空を仰いだままため息をついた。そして初めて、俺に視線を降ろした。
「少しはものを考えなさいよ」
……確かに、言われてみれば不自然かも知れない。いや、はっきり言って不自然極まりない。
なぜ、由綺が逮捕されたのに、居村は自殺したのか? 由綺を犯人にでっちあげたという良心の呵責に耐えかねたのか? でも、それなら何も自殺しなくても、警察に自首すれば済む話だ。恋人だという中川がいない空虚に耐えかねて? でも、それならどうして由綺が逮捕されるまで待ってたんだ?
だけど……。
「だけどさ、マナちゃん。それ以上追求しても……」
「判ってるわよっ! 由綺姉ぇが釈放された時点で、弁護士としての私の仕事は終わり。それくらい判ってるわよ!」
マナちゃんは腕を組んで歩き出した。
俺は、そこで初めてマナちゃんが不機嫌なワケがなんとなく判った気がした。
俺やマナちゃんにとって、この事件は「終わった」んだ。たとえ、何の解決になっていなくても……。
数日後。
俺は、『エコーズ』のドアを開けた。
カランカラン
カウベルが陽気な音を立てる。
「あ、藤井! こっちこっち!」
奥のボックス席で、あいかわらずサングラスをかけた香奈が手招きした。
「なんだよ、一体?」
そう訊ねながら俺が香奈の前に座ろうとすると、香奈は俺の手を引っ張った。
「ほら、藤井はこっちよ。あたしの隣」
「なんでだ?」
「もう一人来るからよ」
そう言って、香奈は強引に俺を自分の隣に座らせた。
俺は訊ねた。
「で、何の用だ?」
「何の用とはご挨拶ねぇ。真犯人を見つけてあげたってのに」
前半は大声で、後半は声を潜めて、香奈は言った。
「真犯人!?」
「しっ。声が大きいわよ」
香奈は唇に指を当てた。
俺は、誰もいない正面の席を見た。
「もしかして、もう一人って……」
「そう。その真犯人よ。中川巧と居村五郎を殺した、ね」
と、
カランカラン
その時、タイミングよく、『エコーズ』のドアが開き……。
the Final
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