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翌朝。
俺とあかりが並んで学校の前の坂道を登っていると、後ろから声が聞こえてきた。
「ヒロ〜〜〜っ、あかりぃ〜〜〜っ」
「あ、志保」
そう言って振り向こうとするあかりの頭をがしっと掴む。
「振り向くな、あかり」
「えっ? だって、志保が」
「朝っぱらから顔を合わせたくねぇんだよ」
「でも……」
俺に頭を掴まれたまま、困った顔をするあかり。
「こらーーっ、ヒロ、こっち向きなさいよぉっ!!」
後ろの声はだんだん大きくなってくる。ということは、どんどん近づいてくるわけだ。
「浩之ちゃん!」
「へいへい」
どっちにしても、顔を合わせざるを得ないわけだ。
俺はため息をついて、あかりの頭を解放すると振り返った。
「なんだよ、せっかくの清々しい朝をぶち壊しやがって」
「何が清々しい朝よ、このすかぽらんちん」
志保は俺に向かってそう言うと、あかりには「やっほー」と手を振った。あかりはいつも通り「おはよう、志保」と返す。
「で、ヒロ」
不意に志保が俺の方を見る。
「なんだ?」
「あんた、変な噂が流れてるわよぉ」
「あん? 変な噂だぁ?」
思わず聞き返してから、しまったと思う俺。
志保はにぃっと笑うと、声を潜めた。
「しっかし、スキャンダラスな話題には事欠かない男ねぇ」
「誰がだ。スキャンダラスならおめえのほうじゃねぇか」
「あら、言ってくれるじゃない。この公明正大をモットーにしてる志保ちゃんのどこがスキャンダラスなのよ」
「存在自体がスキャンダラスだ」
志保は言い返してくるかと思いきや、いきなり胸を張った。
「ま、このあたしの美しさがそういう心ない噂を呼んでしまうってわけなのね。ああ、美しさは罪なのよねぇ〜」
「……勝手に言ってろ。あかり、行くぞ」
俺はそう言い捨てて歩き出した。
「あ、ちょっと、待ちなさいよ!」
慌てて追いかけてきた志保が、俺の前に回り込むと、腰に手を当てて俺を睨んだ。
「話くらい聞いて行きなさいよっ!」
「おめぇが訳の分からん事言って、本題に入らねぇからだろうが」
俺はとりあえず立ち止まって言った。
「話には前振りってもんがあるでしょうが」
「おめぇの場合は前振りが長すぎるんだよ。中身もねぇくせにし」
「あのね、ヒロ。志保ちゃん情報がでたらめばかりみたいな言い方しないでちょうだいよ」
「何言ってんだか。正しかった事の方が少ねぇじゃねぇか」
俺と志保が言い合っていると、あかりが困った顔をして割り込んできた。
「もう、二人とも……。言い合ってる場合じゃないよ」
「えっ?」
俺と志保は同時に腕時計を見た。むっ、確かに分針が危険ゾーンに入っているな。
「しゃぁねぇ、志保。ここは一時休戦だ」
「その方が良さそうね」
俺達は、ぴしゃっと手を打ち合って駆け出した。
「仲が良いのか悪いのかわかんないよ……」
後ろであかりがため息を付きながら駆け出す。ま、いつもの朝の風景だ。
「姫川さんですか?」
1−Bの教室の入り口で、通りがかった下級生に尋ねると、その女子生徒はくるっと教室を見回して答えた。
「いないみたいですけど。でも、佐藤先輩がどうしてですか?」
「いや、ちょっと」
雅史は頭を掻いた。その女子生徒は、ぽんと手を打った。
「あ、そっか。藤田先輩に頼まれたんですね。佐藤先輩、藤田先輩と仲いいから」
「ま、まぁそうだけど。いないなら、仕方ないよ。ありがとう」
雅史は礼を言って歩き出した。
(浩之に頼まれたっていうのは、当たらずと言えど遠からず、だけど……)
肩をすくめながら、雅史は、普段は行かない方向に足を向けた。
(浩之は、美術部にいるかも、って言ってたけど……。本当にいるかな……?)
階段を駆け上がると、昼休みはほとんど人気のない特別教室の並ぶ辺りに出る。
美術室は、その一番奥にある。
雅史は、そのドアが少し開いているのに気付いた。その隙間から中をのぞき込む。
(……いた)
イーゼルに掛けられたキャンバスを前に、琴音ちゃんが立っていた。
雅史が声を掛けようとしたとき、不意に琴音ちゃんは右手を振り上げた。
その手には、銀色に鈍く光るペンディングナイフ。
「えっ?」
琴音ちゃんは、その手を振り下ろした。
バリバリッ
嫌な音を立てて、キャンバスに斜めに傷が入った。
さらにもう一度、手を振り上げる琴音ちゃん。
「姫川さん!」
雅史は思わず声を上げながら、美術室に飛び込んでいた。
「えっ?」
驚いて顔を上げる琴音ちゃん。
「……佐藤、先輩?」
「何をしてるんだよっ」
駆け寄ると、あっけに取られている琴音ちゃんの右手からペンディングナイフを取り上げる雅史。
「……」
琴音ちゃんは俯いた。
雅史は、キャンバスに視線を向けて、目を見開いた。
そこに描かれていたのは……。
「……浩之?」
「……」
琴音ちゃんは、はいともいいえとも言わなかったが、そこに描かれていたのは、間違いなく笑顔の浩之の姿だった。その姿が、斜めに切り裂かれている。
「……姫川さん……」
「……ごめんなさい」
それだけ言うと、琴音ちゃんは身を翻して、駆け出す。
「あっ、待って!」
声をかけたが、琴音ちゃんはそれを無視して美術室を飛び出した。
雅史も、それを追いかけた。
廊下を走り、右に曲がると階段の踊り場に出る。
雅史は立ち止まり、耳を澄ました。
タッタッタッ
軽い足音が、上から聞こえてきた。
「上か」
一つ頷くと、雅史は階段を駆け上がっていった。
バタン
屋上の扉を開くと、太陽のまぶしい光が射し込んできた。
雅史は、額に手をかざしてそれを遮りながら、屋上を見回した。
琴音ちゃんは、フェンスに手を着いて、荒い息をついていた。
雅史はそこにゆっくりと近づいていった。
「姫川さん」
雅史の声に、琴音ちゃんはびくっと顔を上げた。そして、フェンスを背にして向き直る。
その赤い瞳に、怯えの色が出ているのに気付いた雅史は、歩みを止めた。そして、空を見上げる。
「いい天気だね」
「……」
琴音ちゃんは、自分で自分を抱くようにしていた。
雅史は、琴音ちゃんから少し距離を置いて、並んでフェンスにもたれかかった。
「僕、思うんだけど……」
「……ごめんなさい。私……」
雅史の言葉を遮るように、琴音ちゃんは言った。
「一人になりたいんです」
「姫川さん……」
「一人でいれば、こんなに苦しいこと、ないですから」
絞り出すような、言葉。
雅史は、空を見上げた。
「……そうだね。でも……、楽しいことも、ないよ」
「……」
「姫川さんは、浩之が悪い奴だと思ってるの?」
琴音ちゃんは、思わず目を見開き、雅史の方を見た。それから、ゆっくりと首を振る。
「いいえ……」
「うん。僕もそう思ってる」
雅史は微笑んだ。それから、言った。
「立ったままだと疲れちゃうから、そこのベンチに座ろうよ」
「……」
琴音ちゃんは、かすかに頷いた。
「私……、自分が判らなくなったんです」
琴音ちゃんは、ぽつりと呟いた。
「藤田先輩は神岸先輩と付き合うのが良いんだって判ってて、自分でそうなるように行動して……。でも、それがいざうまくいったら、今度は苦しくて、辛くて……」
そう言って、自嘲的に微笑む。
「やっぱり、私って中途半端なんですね」
雅史は、ベンチの背もたれに背中を預けた。プラスチック製のベンチは、かすかにきしむ。
「……姫川さん、本当に浩之のこと、好きだったんだね」
「えっ?」
「でなけりゃ、そんな気持ちにはならないんじゃないかな」
「……そうですね」
琴音ちゃんは、俯いた。
雅史は頬杖をついて、言葉を続けた。
「辛かったり、苦しかったりする……。でも、嬉しかったり、楽しかったりもする。それが、生きてるってことじゃないかな。それが感じられないとしたら、僕は嫌だな」
「……佐藤先輩は、幸せなんですね」
俯いたまま、琴音ちゃんはぽつりと呟いた。
雅史は苦笑した。
「うん、そうかもしれない」
「そんな人に、そんなこと言われても……、私は……」
「……そうだね。ごめん」
雅史は、立ち上がった。
「でも、これだけは聞いて欲しいんだ。浩之は、姫川さんのことをものすごく心配してた」
「……私の、事を?」
「うん。浩之は言ってたよ。俺のせいで、琴音ちゃんが昔の琴音ちゃんに戻っちまったら、俺は自分を許せない……って」
「……藤田先輩が、そんなことを……」
琴音ちゃんは、呟いた。そして、顔を上げた。
「私……」
雅史は、微笑んでいた。その微笑みを見て、琴音ちゃんは、自分も、ぎこちなくだが、微笑んだ。
「もっと、大人にならないと、ダメですね……。佐藤先輩みたいに……」
「僕みたいに? 僕じゃ手本にはならないと思うけど」
雅史は、頭の後ろに手を当てて苦笑した。
琴音ちゃんは首を振った。それから、立ち上がってぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました。私、少し楽になった気がします」
「うん。一人で苦しむよりも、誰かに話した方が、こういうことは楽になるからね。僕でよければ、いつでも話してよ」
そう言って、雅史は照れ笑いした。
「随分、偉そうだけどね」
「……はい」
琴音ちゃんは、頷いた。
「でも、私、強引な人も嫌いじゃないですよ」
「浩之なんて、強引さの固まりだしね」
雅史の言葉に、琴音ちゃんはくすっと笑った。
「そうですね」
《続く》