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それはそよ風のごとく 第19話
 天高く……

「ふんふん、ふ〜んふん」
 ご機嫌な鼻歌が隣から聞こえてきた。俺は肩をすくめる。
「そんなに嬉しいのかねぇ」
「だって、初めてだもん。席が浩之ちゃんの隣になるのって」
 にこにこしながら、あかりは教科書を鞄に詰めていた。
 唐突だが、うちのクラスは、今日席替えをすることになった。
 担任の木林が、「気分一新」のため、とか言って強引に席替えの実施を決めたうえに、「あとは任せたぞ、保科」と委員長に押しつけてとんずらこいたので、一時は大騒ぎになったが、委員長が例のクールボイスでさっさとまとめて、席順はくじ引きで決めることになった。
 で、その結果がこの有様だ。
「でも、僕たちがこんな近くでまとまった事って、今までなかったよね」
 後ろから、雅史が言った。そう、ご丁寧なことに雅史は俺の後ろの席だ。
「これで志保が同じクラスだったら……」
「勘弁してくれ」
 雅史の言葉に、俺は机に突っ伏した。
「それもそうだね」
 笑って言う雅史。……さりげなく、結構酷いことも爽やかに言ってしまうのは、雅史の得意技だ。
 俺はそのままの姿勢で壇上の委員長を眺めた。
「……というわけで、これで決定でいいでしょうか?」
 黒板に、全員の席の場所を書き終わった委員長が言う。何度も名前を消したあとがあるのは、生徒間のトレードの結果である。
「はぁ〜い」
 皆の(俺含む)気の抜けたような声。なにせ、普通10分で終わるホームルームがこのために1時間近くかかっている。その分、貴重な放課後の時間が削られているわけだ。決まることが決まれば、さっさと終わらせたいというのが皆の共通した意見だろう。
「ほなら、これで決まりにします。では、皆さんご苦労さんでした」
 パンパンと手を叩いてチョークの粉を落としながら、委員長は言った。
 委員長も変わったな。今までなら、最後の「ご苦労さん」は言わなかっただろう。いいことだ。
「起立、礼」
 委員長の声に合わせて、立ち上がっておざなりに礼をすると、それなりに保たれていた規律が一気に解放される
「じゃ!」
 そう一言言い残して、雅史は駆け出していった。雅史に限らず、部活のある連中が一斉に飛び出していく。
 帰宅部の俺は、その混雑が一段落するのを待って、立ち上がった。
 隣の席から、あかりが俺を見上げる。
「浩之ちゃん、帰るの? それなら、いっしょに……」
「悪い」
 あかりの言葉を途中で遮る俺。
「ちょっと用事があるんだ」
「……そう」
 ちょっとがっかりするあかり。だが、すぐに微笑む。
「それじゃ、しょうがないね。私、先に帰るから」
「ああ」
 そう言って、俺は鞄を肩で背負うようにして、2−Bの教室を出た。

「やぁっ!」
「えいっ!」
 勇ましいかけ声の響く武道場。
 うちの高校は、何故か武道関係の設備が充実している。柔道場、剣道場はもとより、弓道場、そして空手の道場まである。数年前までは相撲の土俵もあったらしい。
 俺は、そのうちの空手の道場にやって来た。ひょいと中をのぞき込む。
 空手着を着た男子や女子が整列し、型の練習なんだろう、かけ声に合わせて正拳突きをやっている。
 踏み出して、右回し蹴り。
 ……一糸乱れず、ってのは、どうも見ててもあまり気持ちよくないなぁ。
 人にはそれぞれ個人のリズムってもんがある。こういう型ってのは、そのリズムを殺してしまうから好きになれないんだ。
 ま、やったことない奴の勝手な見方だけどな。
 俺が、自分の結論に苦笑していると、不意に声をかけられた。
「珍しいわね。あなたがこんな所に来るなんて」
「おっ?」
 顔を上げると、坂下が腕組みして俺の前に立っていた。
「練習の邪魔か?」
「ま、部外者が見に来たくらいで集中が切れるのは、本人の方が問題ありだけどね。それより……」
 坂下は言葉を切って、少し声を細めた。
「葵はどうしたの?」
「葵ちゃん? どうしたって?」
 思わず聞き返す俺。
「どうしたって……、あんた、葵の事で話か何かがあるから来たんじゃないの?」
「へっ? いや、俺は葵ちゃんにちょっと話があってここに来たんだけどさ……」
「葵、来てないのよ」
 その坂下の言葉に、俺はひょいと背伸びして、坂下の肩越しに道場の中を見回した。
 ……確かに、葵ちゃんの姿はないようだ。
「来てないって、連絡か何かなかったのか?」
「あったら別に心配してないわよ」
 坂下は、壁にもたれて言った。
「あの通り真面目な娘だから、無断で休むなんて考えられないんだけどね……」
「……」
「ま、いいわ。そっちが知らないんなら仕方ないし」
「坂下〜、組み手始めるぞ〜っ」
 3年生に呼ばれ、坂下は「じゃ」と俺に言い残してそっちに走っていった。
 どうしたんだろ、葵ちゃんは……。
 ……なんて、とぼけても仕方ない。多分、俺のせいだな。
 やっぱり、かなりショックだったんだろうなぁ。
 どうしたもんか……。
 俺は考え込みながら、学校を出て、公園までやってきた。そして、ベンチに座り込んで考える。
 葵ちゃんはあの通り一直線な娘だ。それだけに、心理的に脆い一面がある。きっと、必要以上にショックを受けてしまったんだろうな。
 どうすればいい?
 ほっとく……のは論外だ。葵ちゃんは、まだ一人で立ち直れるほど強くない。誰かが助けてやらないといけないんだ。
 でも、誰? 俺は出来ない。あかり……逆効果だ。志保……論外。委員長……もちょっときつい所あるからなぁ。レミィ……も無茶だな。琴音ちゃん……どの面下げて頼む? 坂下……もダメだし。芹香先輩……。
 待てよ。
 あいつなら、なんとかしてくれるかもしれねぇな。
 ぽんと手を叩き、それから俺は肩をすくめた。
 ダメだ。あいつにこっちから連絡を取る手段がねぇんだ。
 ったく。
「……使えねぇ奴だな、綾香も」
 思わず呟いたとき。
「言ってくれるわねぇ、浩之」
「へ?」
 顔を上げると、西園寺女子高校の制服姿の綾香が、片手にアイスクリームを持って立っていた。
「誰が使えない奴ですって?」
 綾香は、そう言うと俺の隣に腰を下ろした。
「……」
 俺がぼーっとしていると、何を誤解したのかアイスクリームを持った手をぱっと引っ込める。
「ダメ。あげないからね」
「だ、誰が欲しがるか、お前の食いかけなんぞ」
「あ〜ら、言ってくれるわねぇ。行くところに行けば、プレミアものよん」
 そう言って、ぺろっとアイスを舐める綾香。確かにそうかもしれないけどな。
 ……とと、そうじゃない。
「綾香、あのさ……」
「何?」
 俺は頭を掻きながら、言った。
「葵ちゃんの事なんだけどさ」
「葵の? 葵がどうかしたの?」
「その、だな……」
 俺は事の顛末を綾香に話した。
 話の途中でアイスを全部食べ終わってしまった綾香は、途中から頬杖をついて俺の話を聞いていた。
「……というわけで、綾香、お前から葵ちゃんをなんとかしてくれねぇか?」
「……」
 綾香は、じっと俺を見つめた。
「な、なんだよ」
「……ううん。なんでも」
 首を振ると、綾香は苦笑した。
「それにしても、随分とまたムシの良いお願いねぇ。あたしから見れば、葵がコンディションを崩してくれるのは有利なはずでしょ? それをなんで、わざわざ調子良くするのに、手を貸してあげなくちゃいけないわけ?」
 ……そう言われてみれば、そうだった。そもそも、葵ちゃんが今空手をやってるのは、綾香と空手で戦うためだったんだよなぁ。
「やっぱ、ダメか?」
「当たり前でしょ」
 そう言ってから、綾香はふぅとため息をついた。
「……と言いたいところだけど、全力を出しきれてない葵に勝っても面白くないしね〜。いいわ、あたしからも話をしてみるわ」
「そっか。サンキュ、綾香」
 俺が礼を言うと、綾香は肩をすくめる。
「にしても、あんたも変な奴ねぇ、浩之」
「そうか?」
「そうよ。なんで振った娘のアフターケアまでやってるわけ?」
「……」
 俺は、ベンチの背もたれに寄りかかって、空を見上げた。
「多分、俺は偽善者なんだろ」
「……かもね」
 綾香も同じように空を見上げた。
「気が付かないうちに、秋ねぇ。空が高い……」
「……そうだな……」
「……ねぇ、浩之」
「ん?」
「ちょっと、付き合ってくれる?」
 そう言うと、綾香は立ち上がった。
 俺も立ち上がりながら訊ねた。
「何をさせる気だ?」
「ちょっと、散歩したいのよ」
 そう言うと、綾香は歩き出した。
「散歩したいんなら、勝手にすればいいだろうに……」
 口の中でぼやきながら、俺は綾香の後を追った。
 俺と綾香は、河川敷までやって来た。
 綾香は土手に座ると、そのままごろんと横になった。
「お、おい……」
「ふぅ〜〜っ、気持ちいいなぁ」
 横になって大きく伸びをすると、綾香は俺に言った。
「ね、浩之も寝転がってみない? なかなか気持ちいいわよぉ」
「あのな。仮にも天下のお嬢様のすることかよ」
「いいじゃない。気持ち良いものは気持ち良いのよ」
「ま、それもそっか」
 納得すると、俺も綾香の真似をして土手に寝転がった。
 ちょうどいい具合のそよ風が、雑草を揺らす。
「……姉さんがうらやましくなるときがあるわ」
 不意に、綾香が呟いた。
「あん? 芹香先輩がうらやましいって?」
 思わず身を起こして、聞き返す俺。
 綾香は片手を顔の上に載せて、呟いた。
「来栖川って、あたしには重すぎる……」
 それだけで、何となく言いたいことはわかった。
 アクティブな性格の綾香にとっては、来栖川っていう巨大なものが、重石になっているんだろう。
「でもよ……」
「そりゃ、確かにいろんな面でメリットを受けてるのは確かよ。でも、でもね……」
 そう呟くと、綾香は、パタンと両腕を地面に広げた。
「私だって、17歳の女の子なのよ……」
「……綾香」
 俺は、両手を後ろについて、空を見上げた。そのままの姿勢で言う。
「あたりめぇだろ」
「……え?」
 綾香の声。
 俺は続けた。
「俺はそう思ってる。綾香は綾香だろ。俺にとっちゃ、綾香は来栖川家のお嬢様や、エクストリーム高校女子チャンピオンである前に、来栖川綾香って一人の女の子だ」
「……浩之」
「なんてな。気障だろ?」
 俺は笑って綾香に視線を向けた。
「……とても気障よ」
 綾香も半身を起こすと、髪を掻き上げた。
「でも、ありがと」
「……へへっ」
 俺は鼻の下を掻きながら笑った。
 と。
「……綾香さま、こちらでしたか」
 後ろから声がして、俺達は振り返った。
 そこに立っていたのはセリオだった。
「あちゃ、見つかっちゃった」
 ぺろっと舌を出すと、綾香は立ち上がってスカートをパンパンとはたいた。
「さってと。セリオが迎えに来てくれたことだし、そろそろあたしは戻るわ」
「そっか……」
 相づちを打ちながら、俺も立ち上がった。
「葵ちゃんの件は頼むぜ」
「ええ。葵には、今夜にでも電話してみるわ。結果はまた知らせるから。じゃ、セリオ。行きましょ」
「はい、綾香さま」
 こくりとうなずくセリオ。
 そのまま歩いて行きかけて、不意に綾香は振り返った。
「ね、浩之……」
「なんだ?」
 聞き返す俺に、綾香は真面目な顔で訊ねた。
「また、弱音を吐いても、聞いてくれる?」
「おう、大歓迎さ」
 俺は軽く手を振った。それから、肩をすくめる。
「それにしても……」
「ん? 何?」
「お前って、変なお嬢様だな」
 俺がそう言うと、綾香は微笑んだ。
「うん。良く言われる
 それだけ言い残して、綾香は、今度は振り返らずに歩いていった。セリオが俺に一礼して、その後に続く。
 俺も、逆方向に歩き出した。
 あいつもああ見えて、苦労してんだなぁ……。
 そう思いながら、もう一度振り返ったが、もう綾香の姿は土手の上には見えなかった。
 ……来栖川、綾香か……。
「……ったく、変なお嬢様だぜ」
 呟いて、俺は再び土手の上を歩き出した。

《続く》

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