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それはそよ風のごとく 第17話
告白
カチャ
ドアが開くと、肩からカーディガンを羽織ったあかりが顔を出した。
「よぉ」
俺は、ぎこちなく片手を上げた。
「調子はどうだ?」
「一日寝てたら、大分良くなったんだよ」
「そっか」
「あ、こんなところでお話しするのもなんだから、上がっていってよ」
そう言って、あかりはやや俯いた。
ははぁ。こいつ、暇を持て余してるな。
「おばさんはどうしたんだ?」
「うん、今日は教室の日だから」
「そっか」
あかりのおばさんは、料理教室の先生でもある。どうやら、今日はその教室の日らしい。
さて、どうするか。
「ね、上がって行ってよぉ」
あかりはすがるような目で俺をみている。どうやら、すごく退屈していたらしいな。
「しゃーねぇなぁ。ったく」
俺は肩をすくめた。
「わかったよ。上がっていくから、お前はさっさとベッドに入って寝てろ」
「でも……っくしゅん」
何か言いかけたところで、あかりはくしゃみをした。それから、照れたように上目遣いにえへへと笑う。
「ほら、言わんこっちゃない。ほら、さっさと部屋に行け」
「うん」
今度は素直にうなずいて、あかりはとてとてと自分の部屋に向かった。俺はその後から三和土に上がり込むと、靴を脱いだ。
あかりの家に上がり込むのは、久しぶりだったが、そこはそれ、昔取った何とかで、間取りなんかは覚えている。とりあえず洗面所を借りて手を洗ってから、俺はあかりの部屋の前に立った。
木のプレートが、ドアにさがっている。これは……、覚えてるぞ。確か中学校のとき、技術の工作であかりが作ったやつだ。
結局あかりの奴、上手く釘を打てなくて、俺の所に来たんだよな。
おっと。
とりとめもないことを考えてもしょうがない。俺はドアをノックした。
「あかり、入るぞ」
「うん……」
カチャ
俺はドアノブを回した。ドアがゆっくりと開いた。
あかりは、俺が言ったとおり大人しくベッドに横になっていた。顔だけ、俺の方に向ける。
「浩之ちゃん……」
「あ、ああ」
その声に促されるように、俺はあかりの机の椅子を引っぱり出すと、ベッド脇まで持っていって腰を下ろした。
「……」
「……」
そのまま数秒間、見つめ合ってから、俺はコホンと咳払いをして視線を逸らした。
「なぁ、あかり……」
「うん?」
「その、なんだ、さっさと風邪治せよ」
「……うん」
「お前がいないと、朝起こしてくれる奴がいないからなぁ」
「……うん」
ちらっとあかりを見ると、あかりはじっと俺を見つめていた。
昔っから、そうだった。あかりは、いつでも俺のことを見ていたような気がする。
「……なぁ、あかり」
「え?」
「その……」
言葉に詰まる俺。
あかりは、じっと俺を見つめている。
「えっと、なんだな、その……、何か食べたいものでもあるか?」
「……あのね、桃缶」
ちょっと赤くなるあかり。
「なんだよ、そりゃ。ま、いいや。台所にあるか?」
「うん、多分……」
あかりに、桃缶の在処を聞いて、俺はあかりの家の台所に入った。
えっと、流しの下の戸棚……っと。あったあった。
俺は桃缶をテーブルの上に置いて、はたと困った。
缶切りはどこだ?
えっとだな……、多分このあたりに……。お、あったあった!
キコキコキコキコ……パカッ
とりあえず、食器棚の中にあったガラス皿に中身を移す。缶詰ってのは空気に触れるとすぐに錆びるからな。開けたら中身はすぐに移さないといかん。……って、あかりの受け売りだけどな。
それから、二つばかりを別の皿に移して、フォークを添えて、これでよし。残ったのは、ラップをかけて冷蔵庫に入れて……と。
俺、何やってんだ?
思わず苦笑しながら、俺は皿を持って階段を上がった。
「ほれ、あかりから、桃だぞぉ〜」
「ありがとう」
あかりは上半身を起こすと、俺から皿を受け取った。そして苦笑気味に言う。
「二つも取ってくれたんだ」
「まぁな。食えなけりゃ残せよ。俺が食うから」
「うん」
あかりは、フォークで桃を割ろうとしたが、困ったように俺を見た。どうやら、片手で皿を持ってるもんだから、やりにくいらしい。
「しょうがねぇなぁ。貸してみろ」
俺はあかりから皿を取り上げると、桃を4つに割った。
「ありがと、浩之ちゃん。それなら食べられるから」
あかりが手を伸ばす。それを見て、俺はふと思いついた。フォークで桃の切れ端を突き刺すと、あかりの前に突き出す。
「ほら、あかり。あーん」
「えっ? 浩之ちゃん、一人で食べられるよぉ」
「やかましい。病人は黙って言うとおりにしろ」
「……」
「……」
あかりは、黙ってあーんと口を開けた。俺はその口に桃を運んでやった。
「はむ……。うん、冷たくて美味しい」
「そっか。もう一つ食うか?」
「うん……あーん」
恥ずかしそうに口を開けるあかり。俺はまたその口に桃を運ぶ。
「ほれ」
「はむ……」
そんな風にして、あかりは結局桃を全部食べてしまった。
「なんだよ、結局全部食っちまいやんの」
「だって、美味しかったんだもん」
ベッドに横になりながら言うあかり。
「きっと、浩之ちゃんが食べさせてくれたからだよ」
「よせよ。それより、俺がわざわざ桃を食わせてやったんだ。さっさと風邪治せよ」
「うん……」
頷くと、あかりは毛布を首の辺りまで引っ張り上げた。そして顔の上半分だけ出して、俺に尋ねた。
「あのね、浩之ちゃん」
「ん?」
「何か、悩んでるみたい……」
ドキッとした。
やっぱり、幼なじみだけあって、判っちまうもんなんだろうか?
「浩之ちゃん。私に話せることなら、話してみて」
「……」
俺が頭を掻いていると、あかりはほっとため息を付いた。
「言いにくいこと?」
「……ま、そうだな」
「……私なら、いいんだよ」
「え?」
思わず聞き返す俺に、あかりは微笑んだ。
「浩之ちゃん、私のことなんて気にしなくてもいいんだよ」
「……あかり?」
「……志保から聞いたの。浩之ちゃんが告白されたって」
「志保?」
「うん。浩之ちゃんが来る1時間くらい前かな、志保が来てね」
「……あのやろぉ……」
俺は思わず低く呟いていた。……ったく、どこから聞いたか知らねぇが。
と。
不意に制服の裾を引っ張られて、俺はあかりの方に視線を移した。
「……あかり……」
あかりは、毛布の裾から手を出して、俺の制服の裾を握っていた。その瞳が潤んでる。
あかりの唇が、微かに動いた。
「……やっぱり、やだ……」
「……」
「浩之ちゃん、私、わた……」
俺は、ゆっくりと身を屈めた。
「浩之ちゃん……ん」
しばらく、時が止まっていたたような気がした。
俺はゆっくりと顔を上げると、苦笑した。
「ファーストキスはレモンの味なんていうけど、嘘だな。桃の味しかしねぇぞ」
「……ばか」
あかりは、真っ赤になって毛布の中に顔を埋めた。
俺は、そんなあかりに背中を向けて、窓の外を眺めながら言った。
「その、なんだ。……どうやら、俺はあかりが好きらしい」
「浩之ちゃん……」
あかりの声が、後ろから聞こえた。
「私も、浩之ちゃんのこと、好きだよ。ずっと前から、大好きだよ」
俺は、胸が一杯になった。思わず振り返る。
「あかり!」
「浩之ちゃん……」
あかりは、微笑んで俺を見つめていた。そして、ゆっくりと目を閉じた。
俺はその唇に、もう一度唇を重ねた。
いつしか、窓の外が赤く染まり始めていた。
俺はあかりの椅子を前後逆にして座り、背もたれに顎を乗せてあかりを見つめていた。
あかりは、すぅすぅと寝息を立てて眠っていた。
……無防備な寝顔しやがって……。
俺は苦笑した。
まだ、なんだか信じられないな。
あまりに長かった、幼なじみという曖昧な関係。そこから、ついに一歩踏み出した、俺とあかり。
不安がない、と言えば嘘になる。これからどうなるか、なんて誰にもわかりゃしない。
でも、今、確かな安心を感じる。やっと、落ち着くところにおちついた、みたいな。
「浩之ちゃん」
不意に俺を呼ぶ声がして、俺はまた我に返った。
あかりが、じっと俺を見ていた。そして、毛布の下から、手を出した。
「ごめんね」
「何を言ってやがる」
俺は苦笑して、その手を毛布の下に戻そうとしかけて、やめた。代わりに握ってやると、あかりは満足そうに微笑んだ。
ふと、俺は訊ねてみた。
「なぁ、あかり」
「なぁに?」
「おめぇ、いつから俺のことが好きだった?」
「うん……」
いつもなら照れまくったあげくに誤魔化しそうな質問だったが、熱でぼーっとしているせいか、あかりは少し考えて答えた。
「はっきりと、浩之ちゃんのことが好きなんだなってわかったのは、あの時かな」
「あの時?」
「うん。浩之ちゃんが、矢島くんを紹介したとき」
「ああ、あれか」
俺は苦笑した。矢島ってのは、バスケ部所属の同級生で、こともあろうにあかりに告白するから紹介してくれと俺に頼んできたやつだ。
その時はまだ、俺自身、自分の気持ちがよく判らなかったもんで、そのままあかりに紹介しちまったんだよな。
矢島をきっぱりと振った後で、俺にくってかかった、あの時のあかりの目は忘れられない。
「あの時、はっきり判ったんだ。私が好きなのは浩之ちゃんだって。だって、他の男の子と付き合うなんて考えたこともなかったんだもん」
「わかった、わかった」
俺は、なぜかムキになって言うあかりを押し留めた。
「俺も同じだよ。あの時だったな、あかりのことを、好きなんだって意識したのは」
ついでだから、俺も告白してやる。
「そうなの?」
「春から髪型変えただろ? あの時、なんて言うかな、初めて意識した。いつもそばにいたやつってのが、実は女の子だったんだなって。で、混乱した。俺って、女の子の扱い方なんてわかんねぇからな」
「私は、私だよ」
あかりは静かに言った。俺はうなずいた。
「ああ、そうだよな。でも、あの時はそんなことも判らなかった。で、混乱してるところに矢島の奴が例の話を持ってきたってわけだ。俺自身も、どうしていいのかわかんなくてな」
「浩之ちゃんは、わかってくれてると思ってたのにな」
「すまね」
俺はあかりの手をぎゅっと握った。熱のせいか、ちょっと熱いくらいの小さな手だ。
「ううん」
あかりは首を振った。
「今は、判ってくれてるもの」
「……そうだな」
……やっぱり、話しておくか。
俺は決心した。
「あかり、実は、今日な……」
「……」
琴音ちゃんに告白された話をし終わると、あかりはまず微笑んだ。
「ありがと。話してくれて」
「お前には隠しごとをしたくねぇからな」
俺は肩をすくめると、空いている方の手で、あかりの髪を撫でた。
「……誰も傷つかない恋愛なんて、ないのかな?」
少し寂しそうに、あかりは呟いた。
「……さぁな」
そんなものがあるんなら、この世の争いごとは、半分はなくなってるだろうな。
「でも……。姫川さんを傷つけることになっても、私、浩之ちゃんだけは、渡したくないな……」
あかりは、潤んだ瞳を俺に向けた。
「そんな娘は、いや?」
「……そういうところも含めて、あかりはあかりだろ。俺が好きなのは、そういうところもあるあかりだよ」
「……」
あかりは目を閉じた。
俺は、上半身をベッドの上に屈めて、そっとあかりに、三度目のキスをした。
しかし、あかりが告白されたわけじゃねぇからな。バトンを持ってるのは結局俺なわけだ。
家に帰って、自分の部屋でベッドに寝転がって、俺は天井を見上げながら考え込んでいた。
結論は、出てる。
あかりがいる以上、琴音ちゃんと付き合うことは出来ない。
あとは、いかに傷つけずに断るか、なんだが……。
せっかく明るさを取り戻した琴音ちゃんを、また入学当時のように、暗い殻の中に閉じこもらせることだけは、やっちゃいけない。
どうすれば、いいんだろう?
俺は、しばらく考えてから、1階に降りた。台所から椅子を持って玄関に向かう。
というのも、うちの電話は玄関のところにあるからだ。長電話するには椅子が必要だ。
さて、と。
ピンポーン
ちょうど受話器を取って、電話番号を押そうとしたところというナイスなタイミングで、チャイムが鳴った。
仕方なく、俺は受話器を置くと、ドアを開けた。
「こんばんわ、浩之ちゃん」
そこにいたのは、どてらを着たあかりだった。
我に返って、俺はあかりを怒鳴った。
「何考えてるんだ! 病人は大人しく寝てろっ!」
「ひゃぁっ」
首をすくめると、あかりは上目づかいに俺を見た。
「でも、浩之ちゃんが心配だったんだもの……」
「おめぇの方がよっぽど心配だってぇの」
「でもぉ……コホコホコホッ」
何か言いかけて咳き込むあかり。
「ったく、しょうがねーなぁ。あがれよ」
「うん」
あかりはうなずいた。
リビングのソファに座って、ぼぉーっとしているあかり。
とりあえず、椅子を台所に戻して、ついでだからお茶を煎れることにした。
「あかり〜! 何か飲むかぁ?」
「あっ、私が……」
「病人は大人しくしとれ」
俺がリビングに顔だけ出して言うと、あかりは素直にうなずいた。
「うん。それじゃ、私……オレンジジュース」
「そっか」
俺はついでなのでグラスを二つだして、冷蔵庫から出したオレンジジュースを注いだ。盆に乗せて、リビングに持っていく。
「ありがと、浩之ちゃん」
あかりは、オレンジジュースを一口飲んで、にこっと笑う。
「美味しい」
「スーパーで買ってきた普通のジュースだろ?」
「でも、浩之ちゃんが入れてくれたんだもん」
「そんなもんかねぇ」
俺は肩をすくめて、自分のジュースを飲んだ。それから、グラスをテーブルに置く。
「で、どうしたってんだ? 病人がこんな時間に」
「迷惑だった、かな?」
上目づかいに俺を見るあかり。俺は肩をすくめた。
「俺はかまわねぇけどよ。うちで倒れられても、親父もお袋もいねぇんだぜ。おめぇの看病する奴はいねぇよ」
「浩之ちゃんはしてくれないの?」
「俺は、その……。しょうがねーなぁ。そうなったら、桃の缶詰くらい買ってきてやるさ」
あかりはくすっと笑った。
「浩之ちゃん、風邪引いたときは必ず桃の缶詰買ってもらってたもんね」
「げ、知ってたのか?」
桃の缶詰は、風邪を引いたときの俺の秘かな楽しみだったのだ。
とと。
「こら、話を逸らすな」
俺が軽く小突くと、あかりはぺろっと舌を出して笑った。
「あはは〜」
「あはは〜、じゃねぇ。どうしたってんだよ」
「……うん」
今度は俯いた。オレンジジュースの入ったグラスを、両手で包み込むように持って、ポツリと言う。
「寂しかったの。一人で寝てたら、浩之ちゃんがどこかに行っちゃうみたいで……。それで、我慢できなくなって……」
「お前、どんどん甘えん坊になってないか?」
「……ごめんね、浩之ちゃん。やっぱり、私帰るね」
そう言って、あかりは立ち上がりかけてよろめいた。
「おっと」
その身体を、とっさに俺も立ち上がって抱き留めた。……熱い。
「おめぇ、熱が上がってるんじゃねぇのか?」
「大丈夫、だよ」
「黙ってろ」
俺は、あかりの額に手をあてた。はっきり熱い。
「ばかっ! だから無理すんなって!」
「ごめん……なさ……い」
俺は、とりあえずあかりを俺の部屋まで抱えていくと、ベッドに寝かせた。親父達の部屋というのも考えたが、布団を敷かないといけないのが面倒だった。
「とりあえず、寝てろ。お前の家に電話してくるから」
「……うん」
こくりとうなずくあかりを残して、俺は部屋を出た。
とるるる、とるるる、とるるる
「はい、神岸です」
「あ、おばさん? 俺、浩之だけど」
「浩之ちゃん? もしかして……」
「多分、おばさんの思った通り」
俺が言うと、電話の向こうでおばさんはため息をついた。
「しょうがない娘ねぇ」
「それよりも、熱が上がってるんだ。とりあえず、寝かせてるけど……」
「まぁ。それじゃ、今からそちらにお伺いするわね」
「うちに?」
「しょうがないじゃない。連れ戻しても、またそっちにふらふら出かけちゃうでしょうし、それならそこに寝かせておいたほうがいいでしょ?」
そりゃそうかもしれないけど、でもいいのか?
俺が半分呆れ、半分うろたえてる間に、おばさんは「それじゃ」と言って電話を切ってしまった。
俺は慌てて、お袋の部屋の布団を敷くことにした。いくらなんでも俺の部屋のベッドで寝てるところを見られちゃ、なんて言われるか判ったもんじゃない。
「38度2分、と」
あかりのおばさんは体温計を振りながら、俺に言った。
「ごめんなさいね、あかりが迷惑かけちゃって。あかりもちゃんと謝ったの?」
「ごめんなさい」
と、毛布にもぐり込むように隠れながら、あかり。
「こっちこそ、すみません」
「浩之ちゃんが謝ることじゃないわよ。それより、明日も学校でしょ? 後は私が看てるから、浩之ちゃんはもうお休みなさい」
「でも……」
「私なら、大丈夫だよ」
あかりが顔を出して、言った。熱のせいで、顔は真っ赤だが、なんとか笑顔を浮かべる。
「ほんとに、ごめんね」
「ああ。それじゃ、おばさん、あと頼みます。お休み」
「お休みなさい」
「また、明日ね、浩之ちゃん」
あかりは、それだけ言うと、毛布のなかに顔を埋めた。
俺は、お袋の部屋から出ると、自分の部屋に戻った。ベッドに横になると、さっきまでそこにいたあかりの温もりが、まだ残っていた。
「早く、治せよ」
俺はそう呟いて、部屋の電気を消した。
翌朝。
なにやらいい匂いに目を覚まして、俺は部屋を出た。
「あっ、浩之ちゃん、おはよう!」
制服にエプロン姿のあかりが、台所からひょこっと顔を出した。
「もうすぐ出来るから、着替えて、顔洗ってきて」
「あ、ああ」
俺はうなずいて、制服を着ると、洗面所に向かった。
いつもは洋食派(というか、パンに牛乳だが)の俺だが、状況が許すのなら和食も悪くはない。ご飯にみそ汁ってのもいいよなぁ。
ジャブジャブジャブ
……ちょっと待て。
はっと我に返って、俺は洗面所を飛び出して、台所に駆け込んだ。
「あかりっ!」
あかりは振り返ると、困った顔をした。
「浩之ちゃん。顔拭いてからにした方がいいと思うよ」
「あ、そっか。すまんすまん」
「床もちゃんと拭いておいてね」
言われてみると、ポタポタと水が廊下に垂れていた。
自分の迂闊さを呪いながら洗面所に戻って、まず顔を拭き、それから雑巾を出して廊下を拭き始めたところで、再び我に返った。
「待てい!」
廊下に雑巾を叩きつけようとしたが、またあかりに怒られるのもしゃくなので、ちゃんと洗面所に戻してから、俺は台所に入った。
「あかりっ!」
あかりは振り返ってにこっと笑った。
「今度は大丈夫だね」
「……なにやってるんだ?」
「見てわかんない? 朝ご飯の支度。もうちょっとで出来るから、リビングで待ってて」
「おう」
リビングに戻ると、テーブルの上には今日の朝刊が置いてあった。とりあえず広げて、読みはじめる。
……じゃなくて!
「あかりっ!」
新聞を放り出して叫ぶと、あかりがお盆に朝食を乗せて、リビングに入ってきた。
「浩之ちゃん、お待たせぇ〜。朝ご飯出来たよ」
ぐーーっ
……とりあえず、追求は朝飯を食ってからだ。
「浩之ちゃん、今日のお味噌汁、どうかな? 出汁をちょっと変えてみたんだけど」
「どれどれ?」
ずずーーっ
「うん、美味いな」
「よかったぁ」
俺は、大げさなほど喜んでいるあかりに訊ねた。
「で、もう風邪はいいのか?」
「うん。ありがとね、浩之ちゃん」
「おばさんは?」
「今朝早く帰ったよ。お父さんの食事を作らないといけないからって」
「そっか。おかわり」
「うん」
あかりは、茶碗にご飯をよそって返した。うむ、さすがあかりだ。俺の好みの量だな。
「で、その服は?」
「昨日お母さんが持ってきてくれたの。鞄も持ってきてくれてたんだよ」
「このまま学校に行けってことか」
「うん」
何が嬉しいんだか、にこにこしてやがる。
俺は肩をすくめた。
「しゃぁねーなぁ。それじゃ、そろそろ行くか」
「え? でも、まだお茶碗洗ってないのに」
「今から洗ってたら遅刻するぜ」
俺は時計を指した。
「えっ? あっ。で、でも……」
時計と洗ってない茶碗を交互に見ながらあたふたするあかり。俺は苦笑した。
「水に浸けとけよ。帰ってきたら洗うからさ」
「そ、そうだね」
あかりはうなずいて、茶碗を台所に運んでいった。その間に、俺は部屋に鞄を取りに行く。
リビングに戻ると、ちょうどあかりも台所から戻ってきた。リビングに置いてあった鞄を持つと、にこっと笑う。
「それじゃ、行こ。浩之ちゃん」
「そうだな」
俺達は、並んで家を出た。
《続く》
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