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それはそよ風のごとく 第12話
とりあえずの解決

 白いクルーザーは、沖縄のマリンブルーの海を疾走していた。
 潮風に乱れる長い黒髪を片手で押さえながら、芹香先輩は俺に尋ねた。
「え? よろしいのですかって? ああ、ここまで来たらちゃんと最後まで付き合うって」
 先輩は、でも……、と呟きながら、視線を海に落とした。
「神岸さん達には黙って来たんでしょ?」
 後ろから綾香が言う。俺は肩をすくめた。
「そうでもしないと、多分みんな着いてきただろうからな」

 俺と芹香先輩、綾香、そしてセバスチャンの4人は、幽霊の恋人が戦死した場所に向かってクルーザーを走らせていた。
 来栖川家の訓練とやらでずいぶん回り道を食ってしまったが、そもそも俺達は、うちの高校に出没していた幽霊を、この沖縄で戦死した恋人に会わせて成仏させるためにここにきたわけだ。
 どうやらやっと、それがかないそうだというわけである。
 ちなみに、あかり達は置いてきた。まさかとは思うが、また危険な目に遭わせる羽目にならないとも限らないからな。
「……優しいんだね、藤田君は」
「やめろって。身体がかゆくなるぜ」
 俺は苦笑した。
 セバスチャンが、ハンドルを握りながら芹香先輩に方向を尋ねる。
「こちらの方向でよろしいのでしょうか?」
 先輩は、こくんとうなずくと、前方を見つめた。ちなみに、今の先輩の服装は、白い清楚なワンピースの上に、例の儀式用正装……黒いマントととんがり帽子を身に付けている。はっきり言って暑そうだが、どういう仕組みになってるのか先輩は汗一つかいていない。うーん、さすがだ。
 こちらは、カジュアルなタンクトップにホットパンツ姿の綾香は、うっとおしそうに髪を掻き上げた。
「あつー。流石に沖縄ね〜」
「そりゃそうだ」
 俺は空を見上げた。まったく、雲一つない状況だ。
 一応キャビンの中は冷房がかかっているらしいが、それでもかなり温度が高い。
 と、先輩が不意に何かをセバスチャンに告げた。セバスチャンはうなずくと、クルーザーを止めた。
「ここなのか、先輩?」
 俺が訊ねると、先輩はこくんとうなずき、ここで待ちます、と言った。
「待つ? いつまで?」
「暗くなるまで、でしょ、姉さん」
 綾香の言葉に、先輩はうなずいた。……って、ちょっと待て。
 俺は時計を見た。午後2時……。
「あと5時間以上あるじゃないか」
「ええ。それじゃ、あたしはそれまでちょっと暇つぶしに潜ってるわね」
 そう言うと、綾香はスタスタとキャビンを出ていった。
 芹香先輩は、懐から本を出して読みはじめる。
「お、おい、ちょっと待てよ」
 俺は綾香を追いかけた。

 狭い廊下で追いつくと、俺は綾香に訊ねた。
「潜るって?」
「スキューバダイビング。藤田君もやる?」
「おう……、って、最初からそのつもりだったのかよ?」
「こんな事になると思ってたからね。あ、藤田君はやったことないんだっけ?」
「あ? あ、ああ」
「大丈夫。こう見えてもあたし、インストラクターのライセンス持ってるから、ちゃんと教えてあげるわよ」
 そう言いながら、綾香は部屋に入ると、ウェットスーツを抱えて出てきた。
「はい、これ着て」

「なかなか筋がいいじゃない。初めてなんて思えなかったわよ」
「そりゃどうも」
 俺は、先にクルーザーに上がって、綾香を引っ張り上げながら、短く答えた。
 結局午後一杯は、綾香についてダイビングの練習をやる羽目になったが、その甲斐あって、なんとか海中散歩としゃれこめるくらいにはなっていた。
「お帰りなさいませ、綾香様」
 セバスチャンが恭しく綾香にタオルを手渡した。
「ありがと、長瀬さん」
「セバスチャンでございます」
 有無を言わさぬ口調で言うセバスチャンに、綾香は苦笑した。
「あ、そっか。ありがと、セバスチャン」
「いえ、当然の務め、でございます」
 頭を下げるセバスチャンに、俺は訊ねた。
「なぁ、俺のタオルは?」
「そちらにございますので、御自由にお使いください」
 セバスチャンは、船室のほうを指して言うと、綾香にもう一度頭を下げた。
「では、私は芹香様の所におりますので、御用の際はお呼び付けください」
「ええ」
 髪を拭きながら頷く綾香。って、随分と扱いに差があるんじゃないのか?
 ま、甲斐甲斐しく俺にタオルを取ってくれるセバスチャンっていうのも、ちょっと気持ち悪いかもな。
 そう思って納得しながら、俺は船室に入った。
 壁についているロッカーを開けて、勝手にバスタオルを出して、体を拭き始めた俺に、後ろから声が聞こえた。
「藤田君、ちょっと、いい?」
 俺は、振り返った。
「なんだよ、綾香……」
 途中で、言葉が途切れた。
 綾香は、スエットスーツを脱いで、赤いビキニの水着姿だった。そのビキニってのがまた、結構、いやかなり際どい。もちろん、それなりのプロポーションが無いと、たとえばあかりが着ても悲しいモノになる代物だが、来栖川のお嬢さまはプロポーションも申し分が無い。
 特に胸の谷間が……っと、いかんいかん。
 俺は頭を振って煩悩を鎮めると、聞き返した。
「なんだよ、いったい?」
「うん……」
 綾香は、部屋に入ってくると、後ろ手でドアを閉めた。……おいおい。
 クルーザーの船内とはいえ、綾香と同じ部屋に二人きり。しかも、二人とも最小限の布しか体につけていない。
 ドクン、ドクン、ドクン
 俺の心臓が大きくなり始めて、俺はあわてて綾香に背中を向けた。
「な、なんの真似だよ?」
 やべ、声が上擦っちまってる。情けねぇ。
「藤田くん……。あたし、もう我慢できないの」
「……へ?」
 ただならぬ綾香の声の調子に、思わず振り返ってしまった俺の目の前に、潤んだ瞳の綾香の顔のドアップが迫ってきた。
「葵があなたの事を好きなのは知ってる。それに、あなたには他に好きな人がいるんだろうってことも……。でも、もうあたし、自分の気持ちを押さえておけないの」
「……」
 トン
 俺の背中が壁に当たって、俺は初めて後ずさりしてたことに気付いた。綾香の顔が全然俺から離れないってことは、同じ速度で綾香の方も前に出ていたってことなんだな。
 俺が一瞬、そんなことを考えた時だった。
 俺の唇に、柔らかいものが押し当てられたのは。
「ん……んんっ」
 どれくらいそうしてたのか。俺には、時間の感覚が消え失せていた。ただ、硬直したまま、綾香の唇の柔らかさだけを感じていた。
 不意に、綾香は唇を離した。それから、俺に言った。
「今日はこれくらいにしておくわね。でないと、他のみんなに不公平だもんね」
「あ、綾香、おまえ……」
「でもね」
 綾香はにっと笑った。葵ちゃんが坂下と戦う前に見せた、挑戦的な笑みだ。
「あたしは、今まで欲しいと思ったものはすべて手に入れてきたわ。だから、藤田くん。あなたも、きっと手に入れて見せるわ」
「……」
 俺が返す言葉も無く黙っていると、綾香は俺をギュッと抱きしめた。それから、身を翻してドアを開け、出ていった。
 俺は、暫くぼう然としていた。

 そろそろ始めます、と芹香先輩が言ったのは、そろそろ真夜中になろうかという頃だった。
 いわゆる、草木も眠る丑三つ時ってやつだな。
 こんなに遅くなるとは思ってなかった。あかりのやつ、心配してるだろうな。
 そう思って、本島のあるほうを見ていると、綾香が声をかけてきた。
「神岸さんたちが心配なの?」
「ま、まぁな。あいつら、無茶してるんじゃねぇかと思ってな」
 何とか、普通の声が出せて、俺は内心ほっとしながら答えた。セバスチャンは多分承知してるんだろうが(あいつに隠しごとができると思うほど、俺は無謀じゃない)、芹香先輩にはできれば知られたくなかった。
「大丈夫よ。ちゃんと、それとなく見張っててくれるように、セキュリティの人たちには頼んであるから」
 綾香のほうはというと、何事も無かったかのようにしゃべりかけてきている。演技ならたいしたもんだ。
 芹香先輩は、例の儀式用正装で、片手に人形を2つ持っている。俺も前に先輩といっしょになって作ったことがある、とうもろこしの皮で作る魔術用の人形だ。
「具体的には、どうするんだい、先輩?」
 俺が尋ねると、先輩はこくんと頷いて答えてくれた。
 その説明によると、その人形に死んでしまった二人の魂を宿らせるんだそうだ。
 先輩は、そう言ってから人形のひとつを俺に差しだした。
「え? 俺が持つの?」
 こくん
 頷くと、先輩はジッと俺を見つめた。……この、じっと見つめる瞳ってのには弱いんだよなぁ。特に先輩は、目でものを言うタイプだから、余計に。
「わかったよ。で、どうすればいいんだい?」
 人形を受け取りながら聞き返すと、先輩は、私がやるとおりにしてください、と言った。
「がんばりなさいよ、藤田くん」
 横から綾香が言った。俺は頷いた。
「やるだけやってみるさ。乗りかかった船だしな」
 先輩は、人形を両手で捧げ持つようにして、何か唱え始めた。俺も慌てて先輩のやっている通りに人形を捧げ持った。
「……」
 おおっ?
 なんだ、これ?
 俺が持っている人形が、なんだか熱くなってきたような……。
「……」
 先輩が、小さな声で何か言った。俺は思わず聞き返した。
「ん? 何だって?」
 来ます、と先輩は告げた。その瞬間、人形が光った。

 翌日の朝。
 ホテルの中庭にあるベンチに、俺とあかりは並んで座っていた。
「それで、どうなったの?」
 あかりが聞き返した。あかりにしては珍しく、声が尖っている。
 まぁ、無理もないか。
 俺は、一晩中起きていたらしく、目の下に“くま”まで作っているあかりの顔を見て苦笑した。
 あかりはぷんと膨れる。
「浩之ちゃん!」
「はいはい、わかったって。正直なところ、俺もよく覚えてねぇんだ」
 肩をすくめると、俺は答えた。
「覚えてないの?」
「ああ。なにせ、何かがぱぁっと光ったところまでしか覚えてねぇんだ。気が付いたら、もう辺りは真っ暗で元通りになっちまってたし」
 本当である。……なんだか気持ちよかったような気がするが、芹香先輩も綾香も(もちろんセバスチャンも)、何も教えてくれなかったしなぁ。
 しかし、あの時の二人の顔が何故か妙に対照的だったのが、なんだか気になると言えば気になる。先輩はぽっと赤くなってもじもじしてたし、綾香はなんだか怒ってたみたいだし……。

 おっと、来栖川のお嬢さまがたはとりあえずおいておいて、今は目の前のあかりをなだめないと。下手に怒らせたままだと、困るからなぁ。
 情けない話ではあるが、最近の俺の食糧事情を握っているのはあかりなのだ。……以前はカップラーメンやコンビニ弁当や自炊でしのいでいたが、最近はあかりが毎日のように料理を作りに来てくれている。何と言っても、安く付くのが嬉しいところだ。……それだけだぞ、それだけ。
「ともかく、だ」
 俺は咳払いすると、あかりの肩をポンと叩いた。
「これからは、あかりに黙ってどこかに行ったりはしねぇよ。約束する」
「ホント?」
 俺の顔を覗き込むようにして、あかりは訊ねた。俺はうなずいた。
「ああ」
「よかった。……あふぅ」
 あかりは微笑してから、口に手を当てて欠伸をした。
「安心したら、なんだか眠くなって来ちゃった……」
「一睡もしてねぇんだろ? 大人しく寝てろよ」
「うん……」
 あかりは、俺によりかかった。……俺としては、部屋に帰って寝れば、と言ったつもりだったんだが……。
 まぁ、いいか。
 俺は、すぐにすぅすぅと寝息をたてはじめたあかりの髪をそっと撫でると、苦笑した。

《続く》

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