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それはそよ風のごとく 第2話
最強を目指す少女達

 放課後になって、オレは速攻で学校を飛びだし、いつもの神社にやってきていた。
 やや遅れて、葵ちゃんが姿を見せる。
「あ、先輩。早いんですね」
 そう言いながら、鞄をお堂に置く葵ちゃんに、オレは声を掛けた。
「その腕、本当に大丈夫なの?」
 ピクッ
 葵ちゃんの動きが一瞬止まる。だが、すぐに屈み込んでサンドバッグをお堂の下から引っ張りだそうとし始めた。
「大したことないんです、本当に」
「……」
 この強情っぱりがぁ。ま、そこが可愛いところでもあるんだけど。
 オレは、背を向けたままの葵ちゃんの肩に、ポンと手をおいた。
「葵ちゃん、オレは葵ちゃんの専属トレーナーを辞めたわけじゃないんだぜ。葵ちゃんの健康管理やメンタルケアもオレの役目だって思ってるんだけどな」
「…………先輩」
 不意に、葵ちゃんは振り返った。その顔がくしゃっと歪んだかと思うと、そのままオレの胸に飛び込んでくる。
「えっ?」
「うわぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん、せんぱぁ〜〜〜〜〜〜〜〜い」
 そのまま泣きだす葵ちゃん。
 オレは、取りあえずその背中をポンポンと叩いてあげる。
「大丈夫、オレがついてる」
 実際のところ、オレがついていたところでどれ程のものかは疑問であるが、そんな事を言っても始まらないよな、この場合は。

 暫くして、ようやく落ちついた葵ちゃんは、真っ赤になってオレにぺこぺこと頭をさげた。
「ごめんなさい、先輩。私……」
「いいっていいって。それより、何があったんだ? よかったら、話してくれないか?」
 オレが尋ねると、葵ちゃんはうつむいた。
 そうだなぁ。こんなところで立ったままで話すのも何だし、話しやすい環境を整えるとするか。
 オレは一つうなずいた。
「よし、今日は練習は休みだ」
「え? でも……」
「こんな精神状態で練習しても意味はないぞ。常に精神状態をベストに保つことも大事なことだからなっ」
 少し考えて、葵ちゃんはコクンと頷いた。オレは笑ってその頭をなでた。
「よし、それじゃヤクド……、じゃなくて、ヤックに行こう」
 うーん、委員長の言い方が移ってしまったぜ。
 オレと葵ちゃんは、窓際の小さな机に向かい合って座った。
 今日はまだ陽が高いので、明るい光が店の中に射し込んでいる。
 取りあえず、アイスコーヒーを一口飲んで、オレは尋ねた。
「で、何があったの? 昨日は水曜だから、葵ちゃんは道場に行ったんだろ?」
 葵ちゃんは、月曜と水曜は空手の道場に通っているので、クラブは休みなのだ。
「いえ……」
 小さく答えて、葵ちゃんはうつむいた。
「昨日は、その……、休みました」
「へ?」
 オレは口に運びかけていたポテトを取り落とした。
 努力と根性に美徳を感じる性格の葵ちゃんは、ズル休みなんてする娘じゃない。ということは、本当に空手なんて出来ない状況があったってことで……。
 おいおい、こりゃいよいよマジか?
 ……確かめてみるか。
「これは、あくまでも噂でちらっと聞いたんだけど……、葵ちゃんが幽霊に襲われたって本当なの?」
 単刀直入に、オレは聞いてみた。
 葵ちゃんは、じっと俯いていたが、不意にぽろっと涙をこぼした。
「……うっ」
 オレはとっさに辺りを伺った。珍しくすいていて、余り人影は、ない。
 よし。
 立ち上がると、オレは葵ちゃんの頭をそっと抱いた。
「よしよし。ごめんな」
「せっ、先輩……」
 ヒックヒックと嗚咽をこぼしながら、葵ちゃんはオレの胸に顔を埋めた。
 しかし、葵ちゃん、何があったんだ?
 ようやく落ちついた葵ちゃんは、昨日のことを話してくれた。
 昨日は、授業は終わるとほとんど同時に、土砂降りの大雨になった。
 葵ちゃんは、薄暗くなった校舎の中を、げた箱に向かって走っていた。
 すると、向かい側から、女生徒が歩いてきた。
 別に何とも思わずに、その脇を駆け抜けた葵ちゃん。
 と、不意にその葵ちゃんの手が引っ張られた。そして小さな声が、「校長室は、どっち?」
 と聞いたのだという。
 急いではいたが、そこは礼儀正しい葵ちゃん。立ち止まってちゃんと校長室への道順を教えたのだという。
 もっとも、(うちの生徒なのに変なの)とは思ったのだが。
 ところが、その女生徒は葵ちゃんの言葉に首を振った。
「違う。そこは校長室じゃない」
「え? でも、他に校長室はないですよ」
 葵ちゃんは律儀にそう答えた。
 その女生徒は、葵ちゃんを睨んだ。
「あなた、あいつをかばってるのね」
「え?」
 きょとんとする葵ちゃん。
 ちょうどそのとき、
 ピシャアァン
 雷が鳴り、その女生徒の顔がハッキリと一瞬の光に照らしだされた。
「ひぃっ」
 思わず息を飲む葵ちゃん。
 その女生徒の顔は、真っ赤な血に染まっていたのだ。
 彼女は、葵ちゃんの右腕を掴んだまま、くり返す。
「あいつをかばっているのね」
「ち、違います!」
 首を振り、逃れようと後ずさる葵ちゃん。だが、掴まれた右腕は解けない。
「あいつの仲間なのね!」
 その女生徒が、葵ちゃんにぐいっと顔を近づけた。
「うわわぁぁ〜〜!」
 思わず反射的に、葵ちゃんはその姿勢から思いきり身体をひねり、右脚を振った。
 相手を掴んだ体勢からの、左側頭部への上段回し蹴り。相手にしてみれば、死角から突然蹴っ飛ばされるという、葵ちゃんの得意技だ。
 しかし……。
 ふわり、と言う感じで、その女生徒はそのキックの範囲から離れていた。あたかも、蹴りの風圧で飛ばされる風船のように……。
 そして、葵ちゃんを睨む。
「許さない。絶対に……」
「あ……、!!」
 呪縛から逃れた葵ちゃんは、数歩後ずさった。そして、既に腕が掴まれていないことに気づいて、脱兎のごとく駆けだしていた。
 いかに余裕がなかったかということは、家まで一気に駆け戻ってから、初めて上履きのままだったことに気づいたという点でも明らかだ。
 そして、家についてから葵ちゃんが気づいたことが、もうひとつあった……。
「家についてから、腕を見たら……」
 また泣きだしそうな顔をしながら、葵ちゃんは右腕の包帯を解いた。
「!」
 オレは目を細めた。
 葵ちゃんの細い二の腕に、指の跡と思われる青い痣があった。
 でも、かなりの力で掴まないと、こんな痣は出来ないよなぁ。こないだの坂下戦でも葵ちゃんは坂下に掴まれてやられかけたんだが、そのときにもこんな痣はできなかった。
 ってことは、やっぱり……。
「やっぱり、幽霊なのかしらね」
 その声に、オレと葵ちゃんは同時に振り返った。
「あ、あ、綾香さん!」
 葵ちゃんが素っ頓狂な声を上げた。
 西音寺女子の制服を着た黒髪の女生徒が、そこに立っていた。ハンバーガーやらポテトやらが乗ったトレイを片手で持ち、もう片方の手には、学生鞄を提げている。
「おひさ。あの試合以来ね」
 そう言って、にこっと笑ってウィンクする。
 彼女の名は、来栖川綾香。葵ちゃんが目標にしている先輩であり、去年の第1回エクストリーム全国大会の高校部門女子の部のチャンピオンである。
 ちなみに、どっかで見覚えがあると思ってたら、実は来栖川芹香先輩の妹であると、最近知って驚いた。世間は狭いものだ。
 それはさておき。
「いつからそこにいたんだよ?」
 オレが尋ねると、綾香はくすっと笑った。
「そうねぇ。あなたが葵を抱きしめる辺りから、かな」
「えっ? そ、その、あの……」
 ぽっと真っ赤になる葵ちゃん。オレも自分が赤くなるのが判った。
「趣味悪いぞ。さっさと声かけろよ」
「いやぁ、邪魔しちゃ悪いと思ってね」
 綾香は笑った。オレはどうもこの人が苦手だ。
「それにしても、幽霊かぁ」
 ヤックシェークに突き刺したストローをツンツンとつつきながら、綾香はオレと葵ちゃんを見比べた。
 葵ちゃんは真っ赤になって俯いてもじもじしている。やっぱり、「憧れの先輩」の前ではあがってしまうらしい。
 しかし……。
 オレは改めて綾香を見た。
 芹香先輩の妹ってことは、来栖川財閥のお嬢さまなはずなんだが、それにしては庶民的っていうか、ちゃきちゃきの下町っ子みたいなところがあるんだよなぁ。
 それに、芹香先輩は絶対ヤックになんか来ねぇよなぁ。
「何?」
 不意に綾香が俺に尋ねた。
「え?」
「さっきから、あたしの顔をじぃーっと見てるから。あ、もしかしてあたしに惚れちゃった?」
 ば、バカなこと言ってんじゃ……。
 ……待てよ。
 俺は、真面目な顔になった。
「実は……そうかもしれない」
「え?」
「あの神社で初めて逢ったときから、君のことが忘れられないんだ」
「ちょ、ちょっと、冗談でしょ?」
 お? 綾香のやつ、心なしか慌ててるみたいだぞ。
「あ、あたしは、その、あなたの事なんてよく知らないし、その、そもそもあなたには葵がいるでしょう?」
「あ、綾香さん、私は、別に……」
 慌てて葵ちゃんが首を振る。
「先輩が綾香さんの事を好きなら……、私、お二人ともお似合いだと思うし、その……」
 こりゃまずい。綾香のやつをからかってやろうと思ってただけなんだが、葵ちゃんのことを失念してたぞ。
 オレは慌てて葵ちゃんに向きなおる。
「葵ちゃん、冗談だってば、冗談」
「いいんです、先輩。私は……」
 葵ちゃんはにこっと笑って言うと、不意に立ち上がった。
「それじゃ、今日はありがとうございました!」
 そう言ってぺこっと頭を下げると、そのまま鞄を抱いて駆けだした。
「あっ、葵ちゃん!」
「葵、ちょっと待ちなさいよ」
 オレと綾香が声を揃えて呼びかけたけれど、葵ちゃんは振り返らずにそのまま走って行ってしまった。
「葵ちゃん!」
 オレは自分の鞄を掴むと、葵ちゃんを追った。
「待ってくれ!」
 ようやく公園で、オレは葵ちゃんに追いついた。肩を掴んで引き留める。
「先輩……」
「悪かった! このとおり」
 オレは両手をあわせて頭を下げた。
「単に綾香をちょっとからかっただけなんだって。別にオレはあいつのことは何とも思ってないし、向こうだって同じだよ」
「でも……」
 葵ちゃんは俯いてしまった。
「……葵ちゃん……」
「先輩、一つ聞いてもいいですか?」
 不意に葵ちゃんは顔をあげた。
「あ? ああ……」
 反射的にうなずくオレを、葵ちゃんはまっすぐ見つめた。そして、尋ねる。
「先輩にとって、私って何なんですか?」
「!!」
 当然、オレはそのとき、ヤクドナルドに取り残してきた綾香の事まで、考えている余裕はなかった……。

《続く》

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