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「うふ、うふふふっ」
《続く》
帰りの車の中で、隣の可憐はずっとご機嫌だった。
「可憐、そんなに嬉しかった?」
「うんっ」
大きく頷く可憐。
僕は苦笑した。
「それにしても、そこまで違うのかなぁ……」
「全然違うわよっ! お兄ちゃんおかしいよっ!」
いきなり可憐が、僕の方に向き直って力説した。
「ピアノの世界三大メーカーっていえば、ベヒシュタイン、スタインウェイ、そしてベーゼンドルファーってくらいなんだからっ! あ、クロイツェルもいいんだけど、とにかく、国産ピアノとはぜんっぜん音が違うんだからっ!」
「そ、そんなに?」」
そのいつにない迫力に思わず腰が引ける僕。
正直、音の違いまで判るほど詳しくないんだけど……。
「そうっ。ああ〜、思い出しただけで……」
可憐はぽっと頬を染めて、あらぬ方向を見つめた。
僕は、運転席でハンドルを握るじいやさんに訊ねた。
「あの、下世話な質問してもいいですか?」
「なんでしょうか?」
「その、僕、楽器の価値ってあんまりよく判らないんです。それで、出来ればあのピアノっていくらくらいするのかなって思って……。あ、いや、そもそもグランドピアノっていくらぐらいが相場なんでしょう?」
じいやさんはくすっと笑うと、答えてくれた。
「そうですね……。ピンからキリまでありますけど、新品なら100万円くらいはするでしょうか」
「ひゃく……?」
想像を絶した言葉に、僕は、音楽室のピアノはもっと大事にしないといけないと、心に誓うのだった。
「そ、それじゃ、あそこにあったピアノって……?」
「ベーゼンドルファーModel200ですから、……そうですね、日本だと800万円くらいでしょうか? もっとするかもしれませんけれど……」
「……」
はっぴゃくまんえんっていくら?
と、とりあえず、可憐の感動の一端は判った気がするな。確かにそんなピアノが弾けたら最高だろう。
「それじゃお兄ちゃん、またね」
「ああ、またな」
ぱたん
車のドアが閉まり、笑顔で手を振る可憐が後ろに流れていく。
僕はシートにもたれ直して、じいやさんに礼を言った。
「すみません、わざわざ可憐の家にまで寄ってもらって」
「いえ、車ですからそれほどのこともないですよ」
そう言ってから、じいやさんはしばらく黙って運転を続けた。
可憐の家から僕の家までは、車ならものの5分もかからない。
「……兄やさま」
不意にじいやさんが口を開いた。
「なんですか?」
「少し、お時間をいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、そりゃかまわないですけど……」
「ありがとうございます。では……」
じいやさんはハンドルを切った。
公園の近くの路上で、じいやさんは車を止めた。そしてエンジンを切ると、振り返った。
「……少し、歩きませんか?」
「あ、はい」
僕は頷いた。
「すみません、ご足労をおかけします」
じいやさんはそう言いながら車を降りると、僕の横のドアを開けた。
「あ、どうも……」
僕が車から降りると、じいやさんはドアを閉めた。
「それでは、参りましょうか」
「……私、日本には初めて参りましたが、いつも母に日本のことは聞かされていました」
池の手すりに掴まって、じいやさんは空を見上げた。
「そうなんですか……」
「でも、やはり実際に日本に来て、こうして空気に触れて、やっぱり自分は日本人の血が流れてるんだなって、初めて実感した気がしますね」
そう言って、じいやさんは僕の方を見た。
「兄やさま、亞里亞さまのことなんですが……」
「はい……」
まぁ、亞里亞のことくらいしか、じいやさんが僕に話すことなんてないだろうな、とは思っていたので、僕は素直に頷くことが出来た。
「兄やさまは、亞里亞さまのこと、どう思われてますか?」
「えっ? そりゃ妹だし……。あ、本当は違うけど、でも、妹のように思ってるわけだし……。うん、大切にしたいと思ってます」
「……ありがとうございます」
じいやさんは頭を下げると、また池の方に視線を向けた。
「……亞里亞さまの本当の母君様は、大旦那様の一人娘でした。当時の社交界でも人気が高く、結婚の申し込みも引く手あまただったと聞きます。ですが、母君様が選んだのは、貴族でもなんでもない、ただの学生、それも、日本からの留学生でした。当然、大旦那様はそのような仲をお許しになるはずもなく……」
「かけおち、ですか……?」
「はい」
じいやさんは頷いた。
「大奥様……つまり、大旦那様の奥様は、先ほど申し上げたとおり、日本の方でした。その大奥様がお二人を応援なさって、日本に逃がされたのです。いずれ、大旦那様のお怒りが解けたときに仲直りさせよう、と思っておられたのでしょうが、その直後、交通事故で亡くなられてしまったのです。もちろん、大旦那様は娘の行方を捜させはしたのですが、ようとして知れず……」
「そんなことが……」
「ここからは、推測になるのですが……」
じいやさんは前置きして、話を続けた。
「亞里亞さまのご両親が交通事故で亡くなられたのは、まだ亞里亞さまが1歳になるかならないかの頃でした。そして亞里亞さまは孤児院に引き取られることになった。というのも、亞里亞さまの父君様は天涯孤独、母君様の係累もそのような理由で探しようが無かったからです。……というよりも、真剣に探そうとしなかった、というのが正しいのかと」
「そして、僕と亞里亞は出会った、と?」
「はい。とはいえ、まだ幼かった亞里亞さまは、兄やさまのことをはっきりと覚えていたわけではありません。ただ、自分に優しくしてくれた人がいた。それだけははっきりと覚えていらっしゃいます」
「……」
僕は、じいやさんと並んで池を見つめた。
「亞里亞さまは、愛情を求めていらっしゃいます。そして、それは私には与えられないもの……」
「じいやさん……」
「ですから、兄やさまにお願いします」
じいやさんは、向き直って僕を見つめた。
「大旦那様も、後悔していらっしゃいました。そして、二度と同じ後悔はしたくないと。それで、亞里亞さまが日本へ、兄やさまのところに行きたい、とおっしゃったのを、認めたのです」
「僕のところへ……?」
「はい」
じいやさんは頷いた。
「亞里亞さまは、そうおっしゃいました。兄やが待ってるから、行くんだ、と」
「……ただいま」
「お帰りなさいませ、兄君さま」
「チェキチェキチェキッ!」
ドアを開けると、待ちかまえていたように玄関で三つ指をついて頭を下げる春歌と、部屋から飛び出してくる四葉。
春歌は顔を上げると、訊ねた。
「それで、亞里亞さんはご機嫌いかがでしたか?」
「ずるいデス兄チャマ! 四葉が顔洗ってる間にささっと出かけるなんて、あんまりデス! しかも可憐チャマだけ連れてくなんてっ! 兄チャマをチェキするのは四葉なのにっ! 四葉が、兄チャマをチェキチェキチェキするんですぅっ!」
「……四葉さん、今はわたくしが、兄君さまにお尋ねしているのですよ」
にっこり笑いながら四葉に言う春歌。
四葉はぴたりと黙る。
「あう……、春歌チャマも怖いデス……」
「まぁまぁ。亞里亞は元気そうだったよ」
「そうですか。それは良かったです」
微笑むと、春歌は呟いた。
「亞里亞さんは随分辛い思いをなさってきたわけですから……」
「春歌は、何か知ってるの?」
「そうですね……。こんなところで話をするのも何ですから……」
春歌は立ち上がった。
ずずーっ
「……ふぅ、お茶が美味しい」
「恐れ入ります」
「春歌チャマ、この最中もらってもいいデスか?」
そう言いながら皿に手を伸ばす四葉。
ぴしゃり
「四葉さん、まだ兄君さまが頂いておりません。家長たる兄君さまをさしおいて手を伸ばすのはいけませんよ」
「あ、あう……」
叩かれた手をさすりながら、恨めしそうに僕に視線を向ける四葉。
「兄チャマ〜」
「まぁまぁ、春歌もそんなに厳しくなくても……」
僕が苦笑しながら春歌に言うと、きっとにらみ返された。
「そうは参りません。四葉さんもイギリスでの生活が長かったわけですから、一日も早く日本の習慣にも慣れていただかなくては」
……今の日本にもそんな習慣はないぞ。
「そうそう、亞里亞さんのことでしたわね」
春歌は、急須からお茶を空になった僕の湯飲みに注ぎながら、言った。
「わたくし達3人は、異国の地にて、同じ兄君さまを想う、いわば血盟の同志の仲。それ故、毎年、逢ってお互いの兄君さまへの想いを確かめ合うという集まりをもっておりました」
「イエス! 1年に一度、3人で逢ってたデス!」
四葉がぴっと手を上げて言う。
「へぇ。でも、逢うって、それぞれの国に行ってたの?」
「いえ。亞里亞さんはフランス、四葉さんはイギリス、そしてわたくしはドイツにおりましたから、お互いにご相談しまして、その集まりはウィーンですることになったのですわ」
「ウィーンって、たしかオーストリアの?」
「はい。……正確に言えば、ウィーンで集まることを決めたのは、わたくし達ではなく、わたくし達のお世話になっていた家の皆様方ですが」
「なるほど……」
それにしても、スケールのでかい話ではある。
「ですが……」
不意に、春歌は表情を曇らせた。
「四葉さんは、毎年そう変わらないご様子だったのですが、亞里亞さんは年々、だんだん元気が無くなっていったように、わたくしには思われました」
「チェキ!」
四葉も頷いた。
「だんだん、なんだかおどおどするようになってったデス」
「ですから、わたくし達は、亞里亞さんがパリで辛い思いをなさっているのではないか、と心配しておりました」
「でも、本人が自白……じゃなかった。何も言わないデス。だから四葉たちも、何にも出来なかったデス」
「なるほど……」
じいやさんの話と合わせると、どうやら亞里亞は、パリではあまり楽しい生活を送ってこなかったようだ。
「……わたくしもそうでしたが……」
春歌が、言葉を選びながら、僕に言った。
「幼い亞里亞さんにとって、突然兄君さまと引き離さされ、しかも異国での生活。相当に心身に負担がかかったはずです。それが亞里亞さんにどのような影響を与えたか……。わたくしには、おばあさまがいてくださいました。四葉さんも……」
「イエス! 四葉には大好きなグランパがいたです」
笑顔で言う四葉。
春歌は頷いて、僕に視線を向けた。
「ですが、亞里亞さんには、本当の意味で心を許せる相手がいなかったのではないでしょうか?」
「……ふぅ」
僕はベッドに寝ころんで、ため息をついた。
僕が日本でのほほんと生活してた間に、亞里亞がそんなことになってたなんてなぁ……。
「……でも、それは、兄くんの……責任では……ないよ」
「そうかな。だけど、僕がいなかったら……」
「兄くんがいなかったら、……私も、亞里亞くんも、……今頃は……生きていなかったかも……しれない」
「怖いこと言うなって」
「……それにしても……驚かないんだね」
「いい加減慣れた」
僕は苦笑しながら身体を起こした。
千影は、微かに微笑んだ。
「悪くはない兆候だね」
「……そうかな?」
「私にとっては、……ね」
そう呟くと、千影は窓の外に視線を向けた。
「……かごの中の小鳥は、かごから出ても、生きていけるのかな、兄くん……」
「……千影は、どう思う?」
「……その翼に、飛べる力があれば」
千影は、僕に視線を向けて、言った。
「でも、小鳥は親に……飛び方を習うものだよ……」
「そう……だな」
「それじゃ、……また、来世」
そう言い残して、千影は部屋を出ていった。
ぱたん
静かに、ドアが閉まる。と、いきなりまた開いた。
「兄君さまっ、危急ゆえに失礼しますっ!」
飛び込んできたのは、春歌だった。
「どうしたんんだい、春歌?」
珍しく慌ててるな、と思って笑いながら訊ねた僕は、春歌の答えに同じように慌てることになった。
「兄君さまっ、今亞里亞さんのじいやさんから電話でっ、亞里亞さんが……」
「亞里亞が?」
「亞里亞さんが、お屋敷からいなくなったと!」
「……なんだってぇ!?」
僕は、ベッドから飛び起きた。
「そちらに行っていないか、という電話でしたので、来てないとはお答えしたのですが……」
「チェキ!」
不意に四葉が部屋に入ってきた。
「ふっふっふ、コレは名探偵四葉チャマの出番デス! さぁ、兄チャマ、亞里亞チャマのお屋敷に出撃ゴーデス!」
「そうだな、ここで心配してても始まらない。春歌はどうする?」
「もちろん、わたくしは、おそばで兄君さまをお守りいたします」
春歌は頷いた。
「よし、それじゃ行こう」
「チェキ!」
「はいっ!」
僕たちは、家を飛び出した。
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あとがき
なかなか亞里亞は難しいです、はい。
あと、最初に可憐が言ってるピアノメーカーが、前と違うんじゃないか、という方。
22話、こっそりと書き直してます(爆笑)
今日、お食事する咲耶を見かけました。
……いや、正しくは「給油するシスプリバス@京王バス(咲耶バージョン)」を見かけたんですが。
しかし、判ってる人がはたから見てる分には楽しめますが、一般客があれに乗るのはちょっと躊躇するかも。リボン付きだし(笑)
好評、ベランダ猫の消息ですが。
どうもお母さまに嫌われてしまったらしく、窓越しに様子を見ただけで威嚇されます(苦笑)
3匹の子供達は順調に育ってるようですが、おかげで近づくことも出来ません。はい。
なんか今回のあとがきはエッセイ風になってしまいました。まぁ、それもいいか(笑)
01/05/28 Up