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とりあえず鈴凛や白雪と別れた後、まだ昼過ぎでこのまま家に帰るのもなんだなぁ、と思った僕は、そのまま街をぶらつくことにした。
《続く》
なにか思いがけない出会いがあるかもしれないしね。
そう思いながら、曲がり角を曲がった僕の目の前に、犬がいた。それもでかい犬が。えっと、確かゴールデンリトリバー、とかいう種類だっけ?
あ……。
目が合ってしまった。
……。
「や、やぁ」
軽く手をあげてみる。
犬は、吠えだした。
ワンワンワンッ
「うわぁっ!」
慌てて僕は、くるりと踵を返して走り出した。
ワンワンワンッ
「うわぁーーーっ」
いや、確かに思いがけない出会いを求めてたかもしれないけど、こういうのは嫌だーっ!
僕は全力で走りながら、肩越しに振り返る。
まっ、まだ追いかけてくるっ! なんなんだいったいっ!?
だいたい、どうしてこんな大きな犬が放し飼いになってるんだっ? 保健所はなにしてるっ!?
なんて考えてる場合じゃないっ! どうわぁっ、目の前に垣根があっ!
勢いを付けすぎていた僕は、そのまま垣根に突っ込んでいた。
バキバキバキッ
小枝の折れる音と、何かが顔や腕を引っ掻く感覚。それを突き抜けたかと思うと、僕はそのまま倒れ込んでいた。
ドサッ
……ぜいぜいぜい
ど、どうやら犬の追撃は振り切ったか。
人心地ついて、俯せに倒れていた僕は、ごろりと体を反転させて、仰向けになった。
空が青い……。
で、ここはどこだ?
誰かの庭で、あまつさえその住人に見つかったら気まずいことこの上ないな。
そう思って見回した目に、白い大きな建物が映る。
学校?
一瞬そう思ったけど、なんか雰囲気が違う。
とすると……。
僕は体を起こして、もう一度その建物を見上げた。
学校にしては、窓がやたら多いような……。
そのとき、ようやく僕は、かすかに漂ってくる臭いに気づいて、ぽんと手を打った。
そうか、ここは病院だったんだ。
この街で病院といえば市民病院で、幸いにして僕自身は入院するような羽目になったことはないけど、骨折した友人の見舞いに何度か来た事がある。
とはいえ、こんな裏から眺めたことはなかったからなぁ。それで判らなかったんだ、きっと。
納得して立ち上がったとき、かすかに声が聞こえた。
「きゃん、やだもう……」
女の子の声だ。
でも、こんなところで、誰だろう?
不思議に思って、僕は辺りを見回した。
耳をすませてみたけど、それっきり声は聞こえてこない。
でも、向こうの方から聞こえてきたよな、確か……。
とりあえず、そちらの方に向かって、僕は歩き出した。
病院の建物を回り込むと、そこは小さな庭か公園のようになっていた。
生垣に囲まれて、小さな白いテーブルとイスがあり、そこに一人の少女が座っていた。
その隣に、さっきの犬が寝そべっている。
危ない、と大声を出しかけたが、よく見ると寝てるじゃないか。
……とすると、この犬の飼い主はあの女の子なのか?
そう思って、僕は生け垣越しに、その女の子を見つめた。
眼鏡をかけた、肌の白い女の子。そんなに寒くないのに、肩にストールを掛けているところを見ると、ここに入院してる娘なんだろうか?
真剣な表情で、テーブルに置いてあるレターペーパーに、ペンを走らせてる。誰かに手紙を書いてるのかな。
……おっと。これじゃまるで覗き見してるみたいじゃないか。
ふと我に返って、僕はその場を離れようとした。
ガサッ
「あっ」
そのまま静かに去ろうとしたんだけど、身を翻した弾みに、ジャケットが生垣に触れて音を立ててしまった。
「誰ですか?」
後ろから、静かな声がした。
僕は仕方なく振り返ると、とりあえず事情を説明することにした。
「や、やあ。怪しい者じゃないんだ。えっと、その、ちょっと声が聞こえたもんだから……」
「ま、まさか、そんな……」
女の子は僕の顔を見て、口を押さえながら立ち上がった。そして、呟く。
「あ、兄上……さま?」
「えっ?」
ま、まさか、この娘も、僕の妹だっていうのか? いくらなんでもそんな偶然、あり得るはずがない。
それに、今までの妹は、名前だけは顔を見たとたんに出てきたのに、この娘は全然そんなこともないし。
うん。この娘は違う。
僕はそう結論付けて、言った。
「悪いけど、誰かと間違ってないかな? 僕はキミの事は知らないし……」
と、今まで寝そべっていた犬が急に起きあがると、僕をじろりとねめつけた。そして吠え始める。
ワンワンワンッ
「うわぁっ!」
「あっ、こらっ、ミカエル、やめなさい! ……あっ」
そのまま僕に向かってこようという犬を、慌ててハーネスを引いて止めようとした女の子。だが、その弾みに、眼鏡が外れて、芝生の上に落ちた。
犬はというと、女の子に引っ張られて吠えるのをやめると、今度はぺろぺろと女の子の顔をなめ始める。
「やだっ、やめてミカエル。もう、甘えん坊なんだからぁ……」
「……まりえ、か」
呟いてから、僕はなるほど、と思った。どうやら、僕がほんのかすかに覚えている過去では、彼女は眼鏡をかけてなかったんだ。
女の子は、僕のつぶやきを聞いて、にこっと微笑んだ。
「はい、鞠絵です。ご無沙汰しておりました、兄上様ゥ」
「そうだったんですか」
僕がここまで犬……ミカエルという名前だそうだ……に追いかけられてきた顛末を聞いて、鞠絵はにっこりと笑った。そしてミカエルをなでる。
「ミカエルが、兄上様をつれてきてくれたのね」
ワンッ
一声吠えるミカエル。
「ところで、鞠絵はここに……?」
僕が病院を見上げながら訊ねると、鞠絵は表情を曇らせた。
「いえ、今週は検査でずっとここにいたんですけど、普段は郊外の療養所に……。あ、ごめんなさい、兄上様」
「ううん。僕の方こそ無神経な事聞いてごめん」
鞠絵は首を振った。
「いいんです。でも、私、もっと元気だったら、兄上様と一緒に遊べたのにな……」
いかん。ここは一つ話題を変えねば。
「そ、そういえばさ、さっき何か書いてたよね。手紙?」
「えっ? あっ、あれは、その……」
ぽっと赤くなる鞠絵。
「な、なんでもないです……」
うーん。あまり深入りすることでもないのかなぁ。
でも、他に話題っても、何があるのかなぁ……。
「……じ、実は……」
僕が他の話題を探して黙り込んでいると、鞠絵がおずおずと口を開いた。
「兄上様に、お手紙を書こうと……思って……」
「僕に?」
思わず聞き返すと、鞠絵は真っ赤になったまま、こくんと頷いた。
「はい……。咲耶ちゃんや可憐ちゃんに、兄上様にまたお逢いできたことを聞いて、私も逢いたくて……。でも、病院から出ることもできないので、せめてお手紙だけでも、と思ったんですけど……。なんて書いていいのかわからなくて……」
「そ、そうだったのか」
「……やっぱり、手紙なんかよりも、一目だけでもお逢いしたいって思ってたところに、兄上様が現れるんですもの。私、本当にびっくりして……。でも、とっても嬉しかったゥ」
鞠絵はにっこり笑うと、僕の手を取った。そして自分の頬に押し当てる。
「兄上様の手、あったかいですね……」
「鞠絵……」
僕は、そっと鞠絵の肩に、あいてる方の手を置いた。
「ごめんよ、今まで忘れてて……。正直に言って、今もまだ、鞠絵や、ほかのみんなのことはちゃんと思い出せてないんだ……」
「いいんです」
鞠絵は目を閉じて、言った。
「兄上様が今、ここにいてくれる。それだけで、私はいいんです。……他のみんなだって、きっとそうだと思います。だって……」
そこで言葉を切ると、鞠絵は僕を見つめた。
「今まで、兄上様に逢えるのは、思い出の中でだけでした。でも、これからは、新しい兄上様にお逢い出来ますもの」
そう言って、にっこり笑う鞠絵。
僕も、思わず微笑んでいた。
「ありがとう、鞠絵」
「いいえ」
鞠絵が首を振ったとき、不意に声が聞こえた。
「あら、鞠絵ちゃん。ここにいたのね。そろそろお部屋に戻る時間ですよ」
振り返ると、そこにいたのは看護婦さんだった。
看護婦さんも僕に視線を向けた。
「あなたは、鞠絵ちゃんのお友達ですか?」
「あ、僕は……」
「紹介しますね。私の兄上様ですゥ」
鞠絵が僕よりも早く言うと、看護婦さんは頷いた。
「あら、そうだったの。初めまして」
「あ、はい。鞠絵がいつもお世話になってます」
ぺこりと頭を下げると、僕はイスから立ち上がった。
「それじゃ鞠絵、そろそろ僕は帰るよ」
「あ、はい。兄上様、今日はありがとうございました。……あのっ」
何か言いかけて、言葉を切る鞠絵。
僕は微笑んだ。
「また、来るよ」
「はいっゥ」
鞠絵は嬉しそうに微笑んだ。
病院を出ると、僕は振り返った。
鞠絵の病気のこと……咲耶辺りなら知ってるだろうか?
「あら、お兄様。ここにいるってことは、もしかして鞠絵ちゃんのお見舞いかしら?」
「へっ?」
振り返ると、そこにいたのは咲耶本人だった。まさに噂をすればなんとやら、だ。
「ちょうどよかった。咲耶は今暇なの?」
「えっ? もちろんよ、お兄様」
にっこり笑う咲耶。
「お兄様に誘ってもらえるんですもの。他の予定なんて当然、すぐにキャンセルよゥ」
「あ、いや、他に予定があるのなら……」
「ないわよ、お兄様ゥ」
きっぱり言い切られてしまったので、僕はそれ以上突っ込むのはやめた。
「ちょっと鞠絵のことで聞きたいことがあるんだ……」
「鞠絵ちゃんのこと、ね」
にこにこしていた咲耶の表情が、僕の言葉を聞いて真面目なものになる。
「ここで立ち話するようなことでもないわね、お兄様」
「それもそうだね。それじゃ、喫茶店にでも行かない?」
「そうね」
頷く咲耶を連れて、僕は商店街の方に向かった。
喫茶店に入ると、僕はブレンド、咲耶はカプチーノを頼んだ。それから、僕から切り出す。
「今日初めて……いや、初めてじゃないんだろうけど、ともかく鞠絵に逢ったんだけど……。単刀直入に言って、鞠絵って何かの病気なの?」
「特定の病気ってわけじゃないんだけど……」
咲耶はそう言うと、窓の外に視線を向けた。それから僕に向き直る。
「鞠絵ちゃんって、昔から体が弱いのよ。私も詳しいことは知らないんだけど……。あ、でも今すぐどうこうっていうこともないみたいよ。確かに、1年の半分は病院とか療養所で暮らしてるような状態なんだけど……」
「そうだったのか……」
1年の半分は病院暮らし、か。
正直、病院に入院したこともない僕には、大変なんだろうな、くらいしか感想が出てこないけど……。
僕が考え込んでいると、咲耶が僕の顔をのぞき込んできた。
「お兄様……。鞠絵ちゃんのこと、心配?」
「そりゃ、兄としてはね」
そう答えると、咲耶はぱっと表情を明るくした。
「よかった」
「へ?」
「あっ、ええっと、そう、お兄様ってやっぱり優しいのねゥ ってことよ。うふふふっ」
何を慌ててるんだ、咲耶のやつ。
僕は、ちょうどウェイトレスが持ってきたブレンドに、砂糖を入れようと手をのばした。
「あっ、それなら私が入れてあげる。いくつかしら?」
「ええっと、2つ」
「はい」
咲耶が砂糖を入れて、スプーンでかき回してくれる。
なんていうか、こそばゆいなぁ。
それにしても、鞠絵……。今頃何をしてるんだろうなぁ。
今度また、お見舞いに行ってあげなくちゃ、ね。
僕はそう心に決めながら、ブレンドを口に運んだ。
「あちぃーーーっ!!」
「お兄様、大変っ! やけどはなめて治すのが一番ですわゥ」
「あ、いや、それはまずいだろ……」
「もう、お兄様ったら照れ屋さんゥ でも、そんなところもまた魅力的なのよねゥ」
あとがき
あ、あと1人……。がくっ。
とりあえず、夜が来る前にやれるところまではやりました。
あとは夜が明けてから、ということで(謎)
00/04/18 Up