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Pia☆キャロットへようこそ2014 
Sect.32-A

「そぉ〜〜れっ!」
「どうわぁぁぁぁっ!!」
 バッシャァァァン
 派手な水しぶきが上がって、全身が冷たい水に包まれる。
 俺は必死になって手足をもがき、ようやく首を水の上に出した。
「ぷはぁぁっ」
「どう、恭一?」
 プールサイドから、膝に手を置いて俺を見下ろしているのは、俺をプールに叩き込んだ張本人のかおるである。
「はぁ、はぁ、はぁ、な、なにが、どうだっ」
 荒い息を付きながら睨み上げる俺。
「いきなり背中から押しやがって。死ぬかと思ったぞっ!」
「あはは。でも、前に比べたら、水の中でもパニックになってないじゃない」
「そんなの、毎日毎日突き落とされてたら、嫌でも慣れるわっ!」
「うんうん、あたしの教育は間違って無かったってわけね」
 得意満面に頷くかおる。
 そう。俺は結局、今日もかおるにプールに連れてこられて、特訓を受けているのである。
「……ふっ、惚れた弱みってやつだ」
「なにわけのわかんないこと言ってんの、よっと!」
 バシャァッ
「うわっぷ!」
 いきなり俺の隣にかおるが飛び込んで来た。水しぶきをもろに顔で受けて、ひとしきりむせる俺。
「げほげほ。あのなぁっ!」
「なによ?」
 けろっとした顔で聞き返すかおる。
「……なんでもないよ」
 口げんかしたところで勝ち目がありそうにないので、俺はまず戦略的撤退をした。
「あ、そ。それじゃ、今日は25メートル完泳が目標よっ!」
「なんてこというんだこのすっとこどっこいしょっ!」
「誰がすっとこどっこいしょよっ、このすかぽらちんたんっ」
 その後数分間、放送禁止用語まで含めた罵詈雑言の応酬をしていた俺達は、ふと周囲の冷たい視線に気付いて、愛想笑いをしながらプールサイドに引き上げたのであった。

「あ〜っ、もうっ! 恭一のせいで恥かいたじゃないっ」
「誰のせいだ、誰のっ!」
「……」
「……」
 再び一触即発になりかけたところで、俺達は同時に深呼吸して気持ちを落ち着けた。
「……ええっと、ごめん、恭一」
「いや、こっちも悪かった。つい本音が……」
「喧嘩売ってるなら買うわよ」
 ぐいっと拳を握りしめるかおるに、俺は肩をすくめた。
 と。
「あら、かおるさん、恭一さん。おはようございます」
 涼やかな声が横合いから聞こえた。
 そちらを見ると、白いワンピース型の水着も麗しい更紗ちゃんが、笑顔で俺達に頭を下げていた。
「あ、更紗ちゃん。おはよっ」
「地獄へようこそ」
「は、はぁ……」
 ずがっ
「ぬぐわぁっ!」
「あはっ。こいつの言うことは、基本的に無視していいから」
 俺のつま先をかかとで踏みつけて、さらにぐりぐりとしながら笑顔で言うかおる。
「はぁ。あ、それより、お尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
 今の惨状を更紗ちゃんに「それより」で済まされてしまったのはもの悲しかったが、まぁそれはそれとしておく。
 俺はかおるのかかとの下から自分の足を強引に引っこ抜いてから聞き返した。
「どうかしたの?」
「はい。実は、今日も七海さんに水泳を教わる約束をしていたのですが、このプールの前で待ち合わせていたはずなのに、約束の時間を30分過ぎても、まだいらっしゃらないんです。それで、お二人に何か心当たりでもありましたら、と思いまして……」
「あら、そうなの? 寮に電話してみた?」
「はい。ですが、誰もお出にならないので」
 困ったように首を傾げる更紗ちゃん。
 俺はかおるに囁いた。
「七海の奴、まだ寝てるんじゃないのか? あいつ、どうせ飲んでたんだろ?」
「あながち無いとは言い切れないけど……。でも、あたし、七海ちゃんが飲まされてたとこは見てないし……」
「俺も見てないけどな」
 俺達は顔を見合わせて、肩をすくめた。
 それから、かおるが更紗ちゃんの方に向き直る。
「えっとね、話せば長いんだけど、とにかくあたしが起きたときには、まだ七海ちゃんは寝てたんだけど、その後はあたし恭一の部屋に……じゃなくってっ、とにかく知らないからっ」
 最後は慌てて手を振り回しながら説明するかおるに、更紗ちゃんは小首を傾げた。
「恭一さんのお部屋……ですか?」
「あ〜ん、だからそれは関係ないの」
「はぁ……」
「……かおる、それじゃ更紗ちゃんもわけが判らないって。とにかく、まずお前が落ち着け」
「う、うん、そうよね……」
 かおるは深呼吸して、それから一つ頷いた。
「うん、落ち着いた。あのね、昨日仕事が終わってから、寮であずささんの歓迎会やってたのよ」
「あずさ、さん?」
 さらに首を傾げる更紗ちゃん。
「あ、そっか。昨日更紗ちゃんはお休みだったもんね。ほら、みらいちゃんが辞めちゃったから、その代わりに来てくれた人なの」
「あら、そうなんですか。それではわたくしも、そのあずささんにお逢いしたら、ご挨拶しなければなりませんねぇ」
 おっとりと言う更紗ちゃん。
「うん。で、ちょっと色々とあって、その歓迎会が終わってから、あたしは七海ちゃんと同じ部屋で寝てたのよ」
「あ、なるほど。それで、七海さんがまだ寝ている間に起きてきたというわけなんですね。でも、それならどうしてお電話したときに、七海さんは出てくださらなかったのでしょう?」
 首を傾げる更紗ちゃん。
「あ〜、それはねぇ、あたし達が寝てたのって涼子さんの部屋だったのよ」
「あら、まぁ。それではいくらお電話しても、誰も出ないはずですねぇ」
 納得して頷くと、更紗ちゃんは俺達に丁寧に頭を下げた。
「わざわざご説明いただいて、ありがとうございました。でも、困りました。どうしましょう……」
 かおるは、一つ頷いた。
「よし、それじゃ今日は更紗ちゃんの面倒もあたしが見てあげるわ」
「えっ?」
「だって、せっかく水着に着替えてここまで来たんでしょ? このまま帰るなんてもったいないじゃない。ね?」
「ですが、かおるさんは恭一さんに教えられているのでしょう? わたくし、お邪魔ですから」
「いいのいいの。あんなのは」
 あんなの呼ばわりされる俺って一体……。
 がっくりと落ち込んでいる俺を見かねたのか、更紗ちゃんはふるふると首を振る。
「いえ、やはりご迷惑ですし……、わたくし、今日は帰ります」
「あ、いや、やっぱりそれはもったいないって。それに、これじゃ俺が追い返したみたいじゃないか」
 落ち込んでいる場合でもない、と気を取り直して俺が言うと、かおるもうんうんと笑顔で頷く。
「そういうこと。あたしに取っちゃ一人も二人も同じようなもんなんだし。ねっ? そうしよっ?」
「はぁ……」
 更紗ちゃんは俺とかおるを交互に見て、それからにっこりと笑った。
「判りました。それでは、ご厚意に甘えさせていただきますね」
「よっしゃ!」
 俺とかおるは、ぱしっとハイタッチをした。それから、はっと我に返る。
「あ、えっと、とりあえず更紗ちゃん、まずは準備体操よっ!」
 赤くなって早口にまくし立てるかおるに、更紗ちゃんは真面目な顔で頷いた。
「判りました」
「ほら、恭一もっ!」
「へ? 俺もやるのか?」
「当然でしょっ! ほら、腕を前から大きく上げて、背伸びの運動っ!」
 こうして、俺達はプールサイドで、ラジオ体操第1、ついでに第2までやって入念に身体をほぐすのであった。
 ちなみに、他のお客の視線を集めまくりであったことは言うまでもない。やれやれ。

 バシャバシャバシャ
「……はぁっ」
 ぱっと顔を上げて、大きく息を付く更紗ちゃん。
 その手を引いていたかおるが笑顔で誉める。
「上手い上手い。さすが更紗ちゃん」
「そ、そうでしょうか?」
 恥ずかしそうに訊ねる更紗ちゃんに、かおるは大きく頷いた。
「うん。この分だと、もうあたしが手を引っ張らなくても泳げるんじゃない?」
「でも、少しまだ自信がありません……」
「それじゃ、もうちょっとやってみよっか。……と・こ・ろ・で」
 かおるはじろっと俺の方に視線を向けた。慌ててばた足を再開する俺。
「……ったく。ちょっと目を離すとすぐにさぼるんだから」
 ぶつぶつ言いながらも、更紗ちゃんのコーチに戻るかおる。俺もほっと息をついて足を止めた。
 まったく、何が悲しくて陸上に上がったほ乳類の中でも意味もなく進化を遂げた人類が、今更水に戻らないといかんのだ? 何かが間違ってるよなぁ。
「くぉらぁっ!!」
「どうわぁっ! すみませんさぼってませんすぐにやりますっ!」
 いきなり後ろから怒鳴られて、慌てて足をばたばたさせる俺。
 と、背後から爆笑する声が聞こえてきた。
「あはははははっ、なに慌ててんだよ、恭一」
「へ?」
 ばた足を止めて振り返ると、そこにいたのは七海だった。ほっと肩から力を抜く俺。
「なんだ、七海か。びっくりさせないでくれよぉ」
「へへ、悪い。でも、そこまで恭一がびびるってことは、よっぽど尻に敷かれてるんだな?」
 にやにやしながら俺の肩を叩く七海。
「やかましい。それより、更紗ちゃんなら、今かおるがコーチしてるぜ」
「ありゃ。そりゃ悪いことしちまったなぁ」
 七海は頭をポリポリと掻いた。
「いやぁ、夕べは流石に飲み過ぎてさぁ。つい10分前だぜ、目が覚めたの」
「涼子さんの部屋で寝てたんだって?」
「なんで知ってんだよ、恭一。……まさかおまえ……?」
「違うって。かおるもその部屋にいたんだってよ。あいつは朝早く目が覚めて、そのまま出てきたって言ってたけど」
 その後、俺を捜し回ってひと騒動起こしたことは言わないでおこう。
「なるほどな」
 あっさりと七海は頷いて、それから肩をすくめた。
「いやぁ、なんかあつっ苦しいなぁって思ったら、縁の姉御に思いっきり抱きしめられてたんだぜ。まったく、もう少しで窒息するとこだった」
「そ、そうなのか?」
「ああ。姉御って割と胸があるんで……」
 言いかけて、七海はじろっと俺を睨んだ。
「おっと危ない。ったく、このスケベ」
「な、なんでだよっ」
 と。
「くぉらぁぁーーっ! そこっ、さぼってるんじゃないっ!!」
 大魔神もかくやという勢いで、プールの水をかき分けるようにして急速接近するかおると、そのかおるが引っ張るビート板に掴まってばしゃばしゃしている更紗ちゃん。
「かっ、かおるさんっ、少しゆっく……あぶっ」
 あ、波に飲まれてる。
 俺は慌ててバタ足を再開した。
「やってるって。それより、七海が来たぞっ」
「よう、諸君」
 ぴっと手を上げる七海。かおるはそれに気付いて手を振った。
「あ、やっほー。七海ちゃん、起きたんだ」
「まぁな。悪いな、更紗の面倒まで見てもらって」
「ううん。こういうときはお互い様よ」
 笑って、かおるはプールサイドに上がってきた。それから俺に視線を向ける。
「さぁて、それじゃ更紗ちゃんは七海ちゃんに任せるとして……。恭一、今からゆっくりと、個人レッスンしてあ・げ・る」
 にっこり笑って、何故か指をポキポキ鳴らしながら迫るかおる。
「ま、待てかおる、早まるなっ、話せば判るっ!」

 結局、その日のうちに、俺は25メートル泳げるようになったのである。

「でも、お仕事の前に疲れちゃったらダメですよ」
 美奈さんに優しく叱られて、俺は「はい」と頷いた。
 美奈さんは、今度はかおるに視線を向ける。
「かおるちゃんも、恭一さんが疲れ切るまでしごいちゃダメです」
「はぁい。済みません」
 ぺろっと舌を出すかおる。
 腕組みしてそんな俺達を見ていた涼子さんとあずささんは、顔を見合わせてくすっと笑った。
「なんか、ミーナがこうして叱ってるのって、やっぱりなんだか変」
「あ、お姉ちゃんっ! 美奈のこと莫迦にしてますねっ! こう見えても、美奈はフロア統括なんですよっ」
 あずささんの言葉を耳にとめた美奈さんは、ぷくっと膨れた。
「はいはい、ごめんねミーナ。それじゃ今日も張り切って行きましょうか」
「もうっ、お姉ちゃんったら調子いいんだからっ」
 そう言いながらも、美奈さんも微笑んだ。
「それじゃ、今日もがんばりましょう!」
「はいっ!」
 全員が声を揃えて返事をするのを、涼子さんは笑顔で見守っていた。

To be continued...

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あとがき

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