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ONE 〜into the Bright Season〜 Short Story #10
野バラのエチュード その10

「……詩子」
 茜の呟きに、俺ははっと我に返った。
「き、きっとトイレにでも行ってるんじゃねぇのか? 待ってたら戻って来るって」
「……」
「そ、そうだよね。しばらく待たせてもらおうよ」
 長森が俺に合わせるように言うと、見舞いの果物を入れたかごを片手に、病室に入る。
 その後から、皆も病室に入っていった。
 俺は茜を促した。
「茜も……」
「私は、いいです」
 茜は首を振って、ドアの脇の壁にもたれ掛かった。
「ここで、待ちます」
「……そっか」
 俺は、ドアを閉めると、茜の隣りで同じように壁にもたれ掛かる。
 茜が微かに首を動かして、俺を見た。
「……浩平?」
「なんとなく、ここにいたくなったんだよ」
「……はい」
 頷くと、茜は視線を床に落とした。
 そして、呟く。
「覚えて……ますよね?」
「ああ」
 俺は頷いた。
「覚えてるよ。あいつの傍若無人ぶりは、そう簡単に忘れられるわけねぇ……」
 そこで、俺は言葉を切った。驚愕のあまりに。
 なぜって?
 それは、あいつの傍若無人ぶりの内容が、思い出せなかったのだ。
「……浩平、まさか……」
「じょ、冗談だって。あははは。びっくりしたか?」
 俺は茜の肩を叩いて笑って見せた。茜は、ほっとしたように大きく息を付くと、俺を睨んだ。
「そんな浩平は嫌いです」
「すまんすまん。帰りにワッフルおごるから」
「……はい」
 茜は頷いた。それから、また視線を床に落とす。
「大切な、友達ですから」
「俺よりも?」
「……浩平と同じくらい、です」
 また、しばらく沈黙が流れた。
 ガチャ
 不意にドアが開いて、長森が顔を出す。
「ね、浩平。ちょっと聞きたいんだけど……」
「どうした、長森?」
「うん……。変なこと聞くみたいなんだけど……、わたし達、何しに来たんだと思う?」
「へ? そりゃ見舞いに来たんだろ? 長森、とうとう痴呆症か?」
 俺が苦笑すると、長森は首を振った。
「違うよ。わたしだけじゃないもん。みんなわからないって言ってるもん」
 と、その後ろから七瀬が顔を出した。
「あんた、また何かたくらんでるんでしょっ!!」
「あのな、七瀬。俺がいつお前を陥れるようなことをたくらんだと言うんだ?」
「あのね。じっくりと思い出させてあげてもいいんだからねっ!」
 ぐいっと俺の襟首を掴んで引っ張る七瀬。
「ぐわっ、な、七瀬、いい絞めだ。や、やっぱり世界を狙えるぞ……」
「アホかぁっ!! 正直に言いなさいよっ! 今ならまだ半殺しくらいで我慢してあげるわよっ!」
 そのまま、ゆっさゆっさと俺を揺さぶる七瀬。慌てて長森が止めに入る。
「な、七瀬さん! それくらいにしないと浩平が死んじゃうよ〜」
「これくらいでこいつが死ぬわけないでしょっ! 世界が核の炎に包まれてもしぶとく生き残るわよっ!」
「そ、そんな、七瀬じゃ、あるまいし……」
「ぬわぁんですってぇっ!」
 さらにぐいぐいと締め上げられて、さすがにお花畑が見えはじめた。
「ぐがが……。ながもり〜、もうすぐそっちに行くぞぉ〜」
「浩平、わたしはまだ死んでないよ〜」
 困ったようにツッコミを入れる長森。……ツッコミ入れる余裕があれば、助けてくれればいいのに。
「いいから、教えなさいよっ!」
 七瀬は、病室の入り口にかかったプレートをびしっと指した。
「誰なのよ、この“ゆのきうたこ”ってっ!!」
「……っ!」
 不意に茜が踵を返して駆け出した。
「茜!?」
 俺は、何がなんだかわからないまま、とりあえず七瀬を振り解いて、その後を追いかけた。

 元々、茜は七瀬や長森ほど足が早い訳じゃないので、あっさりと追いつく。
「どうしたんだ、茜?」
「……浩平」
 荒い息をつきながら、茜は振り返った。
「詩子は……。詩子も……」
「そんなことあるかっ!」
 俺は思わず大声を上げていた。
「あいつが……、あの脳天気で何の悩みもなく世間を渡ってきたようなあいつが……」
「でも……」
 茜は、俺の瞳を見つめたまま、言った。
「私は、見てきました。あなたと、もう一人も……、こんな風に……」
「……でもっ、こんなにいきなりじゃなかっただろっ!」
 かつて消えたという茜の幼なじみのことは知らないが、俺の場合は1ヶ月くらいかかってゆっくりと薄れていったんだ。
 柚木は、いきなり急に消えはじめてる。俺の場合とは様子が違ってるじゃないか。
 ……消え始めてる?
 俺は、自分の考えに愕然とした。
 それじゃ、柚木は本当に……?
「でもっ」
 茜は、俺の胸にしがみついた。
「もう、嫌ですっ!」
「茜……」
「私が残されるのは、もう……」
 熱い涙が、俺のシャツを濡らす。
「詩子……」
「茜……」
 俺は、ただ茜の肩をそっと抱くことしか、出来なかった。

 不意に、茜が身を起こした。
 ……どうやら落ち着いたのか?
 そう思った瞬間、茜がまた駆け出した。慌てて追いかける俺。
「どうした、茜?」
 あっさり追いついて、並んで走りながら訊ねる。
「今、詩子が、そこの角を、曲がって……」
 もう息を切らしている茜。無理もない。元々運動が苦手な上に、ここのところあまり眠れない様子だったからな。
「よし、俺が見てくる」
 そう言って、俺は廊下を走った。
 通りかかった看護婦が、廊下をばたばたと走る俺達を見て注意しようとするが、それどころじゃない。
 走りながら、だが俺は思わず息をのんでいた。
 ……柚木って、どんな格好だったっけ?
 考えてみると、あのくるくる変わる表情があまりに印象深くて、柚木の体の他のパーツの印象を曖昧にしているんだろう。きっとそうだ。
 ……忘れたなんて、そんなことはない。
 ないはずだ。

 もどかしさを感じながら、俺は廊下を曲がった。
 角の向こうにも廊下は続き、そしてその先に、ブルーのパジャマ姿の女の子がこっちに背を向けて歩いていた。
「柚木っ!」
 もやもやを吹き飛ばすように、俺は叫んだ。そして、その後を追いかける。
 思っていたよりもたやすく、その女の子に追いつくと、俺は肩を掴んでこちらを向かせた。
「……柚木」
「……」
 その顔を見た瞬間に、まるでジグソーパズルの欠けていたピースがはまるように、俺の中の「柚木詩子」が元の通りに組み上がった。
 俺はほっとして、言った。
「なにしてんだ?」
「……誰?」
「あのな。世界を救う伝説の勇者、折原浩平の名前を忘れるなよ」
「……そう」
 ツッコミもいれずに、ただ相づちを打つように呟く柚木。
 パタパタパタ
 後ろから足音が近づいてきた。俺が振り返ると、やっと追いついてきた茜が、苦しそうに息を付きながら、柚木を見つめている。
「……詩子」
「……」
 無言の柚木。
 茜は、体を起こすと、そっと柚木の頬に手を触れた。
「本当に、忘れてしまったんですか?」
「……」
「覚えておいてもらえるほどの価値もなかったんですか?」
「……」
「どうして……」
 茜は、頬に涙を伝わらせながら、呟いた。
「どうして、みんな私を置いて行くんですか……」
「茜……」
 と。
 ずっと、ぼーっとしていた柚木が、不意に腕を上げた。そして、茜をそっと抱きしめた。
「……っ!」
 目を見開く茜。
「詩子?」
「…………」
 柚木の唇が、微かに動いた。
 俺には、聞き取れなかった。でも、茜には聞こえたんだろう。
 さらに大きく目を見開いた茜。その瞳から、さらに涙があふれ出した。
 そして、大きく首を振る。
「……嫌です。絶対に、嫌です」
「……」
 柚木は、俺に視線を向けて、微笑んだ。
 それは、俺達の見慣れてた、あの柚木の笑顔だった。
「ゆず……」
「茜を……お願いね」
 それが、あいつの、最後の声だった。

「浩平、それに里村さんも、こんな所にいたんだ。捜したよ」
 長森の声が聞こえて、俺は振り返った。
 駆け寄ってきた長森が、俺の顔を見て、立ち止まる。
「……どうしたの、浩平。何かあったの?」
「……」
 ドサッ
 茜が床に崩れ落ちた。長森が慌てて駆け寄る。
「わぁっ、里村さん。どうしたのっ? 浩平、ちょっと里村さんが大変だよっ!」
「……」
 俺は首を振って、何とか自分を取り戻すと、長森に言った。
「長森、看護婦さんを呼んできてくれ。茜は俺が見てるから」
「う、うん。待ってて。すぐ戻ってくるよ!」
 そう言って、長森は来た廊下を駆け戻っていく。
 俺は、茜を抱き起こすと、その頬を流れる涙を、そっと指でぬぐった。
 そして、呟いた。
「……馬鹿野郎」
 だけど、誰に向かってそう呟いたのか、俺にも判らなかった。
 そう。茜の親友だった少女のことが、思い出せなかった。
 ……茜に親友なんていたのか?
 忘れちゃいけないんだ。忘れたら、茜はまた一人で苦しむことになる。
 それが判っていて、でも、思い出せなかった。
 だから……。
「この、大馬鹿野郎……」
 俺は、自分に向かって呟くことしか出来なかった……。

To be continued...

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あとがき

 野バラのエチュード その10 99/8/30 Up