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ONE 〜into the Bright Season〜 Short Story #10
野バラのエチュード その11


 どうすればよかったんだろう。
 あたしの大事な親友。
 その親友が、心の底から信じてる人。
 最初は、嫉妬してたのかもしれない。
 あたしの方が、ずっとよく知ってるんだから。
 でも、ある時気が付いた。
 あたしの知らないあの娘を、彼は知ってるんだって。
 それから、あたしは2人を応援することにした。
 悔しいけど、あたしには越えられなかったあの娘の心の中に、あいつは易々と入り込めたんだから。
 でも……。
 あいつを良く知るようになって、そしてあたしはもう一つ、気が付いた。
 あたしも、あいつのことを好きになってたことに。
 それは、許されないこと。
 あたしがあいつを好きになるってことは、あたしの大事な親友を悲しませることになる。
 それに、あいつだってあの娘がいる以上、あたしに振り向くことなんてあるはずない。
 それでも、あたし自身の想いは止められなかった。

 あたしが、いなくなれば、全ては丸く収まるんだ。

 いつからだったんだろう。そんな考えが、浮かんでは消えるようになってきたのは。
 そして、浮かんでいる時間の方が、消えてる時間よりも長くなってきたのは。

 あたしは存在していなかったんだ。
 だから、あたしもみんなの事なんて知らないんだ。
 そう、知らないんだ……。

 あたしは、全てを忘れた。

 でも、ダメだった。
 どうしても、あの娘のことは、忘れられなかった。記憶から全てを消しても、あの娘の悲しそうな顔だけは消えなかった。
 あたしは、だから、こうするしかなかった。
 こうするしかなかった……。

「えいえんは、あるよ」
「ここに、あるよ」

 茜の親友だったやつが、病院で消えて以来、茜はそいつの名前を口にしたことがなかった。
 だから、俺はそいつの名前を知らない。
 そいつが確かにいたのかどうかすら、知らない。
 全ては、茜の記憶の中にしか、存在していないのだから……。

「茜……」
 俺が声を掛けると、茜は振り返った。
「また、来てたのか」
「……はい」
 こくりと頷き、元のように俺に背を向けて、その巨大な建物――病院を見上げる茜。
 いつ頃から、茜はそうするようになったんだろう?
 俺にもよく判らないのは、茜が待っている人が誰なのか判らないからだ。
 だけど、そいつは確かに存在していて、そして……。
 そして、“えいえん”に旅立っていった。
 俺は、そっと茜の肩を抱き寄せた。
「いつまで、待てばいいんだ?」
「……」
 無言のまま、首を振る茜。
 俺が現れるまで、茜はあの空き地で、幼なじみの男を待ち続けていた。
「……私は、あきらめは悪いほうですから」
 微かに聞こえる声。
「そう、だったな」
 茜を抱く手に力を込めながら、俺は頷いた。
「……浩平」
「ん?」
「……ありがとう」
 何に対しての礼なのか、俺にはよく判らなかった。
 しばらくして、茜はすっと俺から体を放した。
「行きましょう」
「もう、いいのか?」
「……はい」
 頷いて、茜は歩き出した。

 静かに、緩やかに、だが確実に、季節は移っていく。
 夏。コンクリートに照り返す日射しは眩しく、暴力的ですらあった。
 秋。枯れ葉の赤や黄色と、コンクリートの白いコントラストが目に残った。
 冬。白い雪が街を覆い、そして茜の想いもその下に閉ざしていくように積もっていった。
 そして……。

「すっかり、雪もとけたな」
「……はい」
 俺は大きく伸びをして、目の前の病院を見上げた。
 茜が、振り返った。
「浩平」
「ん、どうした?」
「私は、あきらめは悪い方です」
「そりゃ知ってるよ」
「……でも」
 ところどころに雲を浮かべた青空。そして、暖かな光を投げかける太陽。
 もう、春と言っても差し支えない季節になろうとしていた。
 太陽が眩しいらしく、茜は手でその光を遮るようにして、空を見上げていた。
「もう、あきらめた方が、いいかもしれませんね」
 その表情は、穏やかだった。
 だけど……。
「茜は、それでいいのか?」
「……」
「茜にとっちゃ、大切な親友だったんだろ? そいつを忘れてしまっていいのか?」
「でもっ!」
 不意に、茜は俺に視線を向けた。
 その瞳から、涙が一筋、流れ落ちた。
「浩平、私は……どうしたらいいんですか?」
「なら、忘れてもいいって思ってるのか? 茜が忘れちまったら、この世界でそいつを覚えているのは誰もいなくなっちまうんだぞ」
「でも……。その方が、楽です」
「茜、お前……」
「それに、浩平も……」
 俺?
 茜は、視線を地面に落とした。
「浩平も、もう嫌になってきたんじゃないですか? こんな意味のないことにさんざん付き合わせられて……」
「……」
「私だったら、嫌です」
 そう言うと、茜は顔を上げた。
「自分の好きな人が、自分よりも他の人のことを優先させてるのは……」
「だから、茜は忘れるっていうのか?」
 俺は、茜の肩を掴んだ。
「俺のことは関係ないだろ!?」
「でもっ! それじゃいいんですか!? ずっとこのままで、浩平はいいんですかっ!?」
 茜が、珍しく大きな声を上げた。そして、自分でその声に驚いたように、俺から体を放して、後ずさった。
「茜……」
「……すみません」
 茜は、自分で自分を抱くようにして、その場にしゃがみ込んだ。
「でも、私、もうわからない……。どうしていいのか……」
「……なぁ、茜」
 俺は、茜の隣りに屈み込んだ。そして、訊ねた。
「もし、もしもだぞ。……俺が、そいつのことは一切忘れて、俺と楽しくやろうぜ、って言ったとして、茜はそうするか?」
「……」
 しばしの沈黙の後、茜は俺の方を向いて、微笑んだ。
「……絶対に、嫌です」

 でも、ダメだった……。
 あの娘は、優しすぎたから。
 忘れてくれなかった。
 最後まで、忘れようとしてくれなかった。

 それなら……。

 ここにいる意味なんてないじゃない。

「えいえんは、いらなかったんだ……」

「……そうだよな」
 茜の頭にぽんと手を置いて、俺は立ち上がった。
「あきらめが悪いのが茜の売りだからな」
「そんな売りは嫌です」
 そう言いながらも、茜は立ち上がった。そして、すっと頭を下げる。
「ごめんなさい、浩平」
「なぁに。茜の知られざる一面が見られたし」
 俺がわざとからかうような口調で言うと、茜は赤くなってそっぽを向いた。
「浩平はいじわるです。それに……」
「それに?」
「段々、あの人に似てきました」
「冗談はよせ。なんで俺が柚木に似てこないといかんのだ?」
 俺は肩をすくめた。それから、ぶらぶらと歩き出しながら、訊ねる。
「そういや、最近、柚木を見ないけど、食中毒にでもなったのか? ……茜?」
 隣りにいるはずの茜の姿がなかった。振り返ると、茜が大きく目を見開いて俺を見つめていた。
「どうした、茜?」
「浩平……、今、なんて……?」
「え?」
 質問の意味が分からず、俺は首を傾げた。
「なんだって、茜?」
 と。
 その向こうから走ってくる人影が目に映った。俺は舌打ちした。
「ったく。どうしてあいつは俺と茜がラブラブな時に邪魔しに来るんだ?」
「えっ!?」
 振り返った茜は、声を上げた。
「詩子っ!」
「やっほーっ! おひさ〜っ」
 柚木は笑顔で手を振った。
 茜は柚木に駆け寄って、そのまま抱きついた。
「きゃっ。ど、どうしたのよ、茜?」
 苦笑して訊ねる柚木に、茜は呟くように答えた。
「……戻って来たんですね、詩子」
「……うん」
 頷いて、柚木は目を閉じて、茜を抱きしめた。
「ありがと、茜」
「……はい」
「おっと、あんまり茜とラブラブしてると、折原くんに何されるか、わかんないからな〜」
 柚木は手をほどくと、茜を俺に押しやった。
「はい、茜は返したげるわね」
「当たり前だ。これは俺のだ」
 茜を抱き寄せながら、俺は笑って言った。
 俺の腕の中で、茜はきっぱりと言った。
「嫌です」
 柚木が笑う。
「ほら、やっぱり茜はあたしの〜」
「それも嫌です」
 またきっぱりと言う茜。
「そらみろ。茜は俺のだって」
「嫌です。私は私のものです」
 俺には茜の態度から推測することしか出来なかったけど、でも間違いない。
 “えいえん”の世界に行っていたのはこの柚木で、そして、たった今、戻ってきたんだ。
 俺は、茜にささやいた。茜は微笑んで頷くと、柚木に向き直った。
「詩子……」
「うん? どうしたの、茜?」
「……お帰りなさい」
 そう言った茜に、柚木はもう一度抱きついた。
「……うん、ただいま」
 ……とりあえず、あと15秒は見逃してやろう。
 そう思う俺だった。

「桜ももうすぐだね〜」
 俺と茜、そしてお邪魔虫1人の3人で、公園を歩く。
 柚木は、まだつぼみだが、かなりふくらみ始めている花を手にして、しみじみと呟いた。それから、くるっと俺達の方に向き直る。
「ね、今の絵になってたでしょ?」
「はいはい」
 俺が投げやりに相づちを打つと、柚木は不満そうにふくれた。
「なによ、投げやりね〜。もうちょっと愛想良くしても罰は当たらないわよ」
「お前に愛想良くしてどうなるんだよ。いいからもう帰れっ!」
「茜〜。折原くんがあんなこと言ってるよ〜」
「お前に言ったんだっ!」
 茜は、俺達のやりとりを微笑んで見ていた。
「それじゃ、桜が咲いたらお花見しようね!」
「あ、お前また俺と茜の邪魔をする気だな!?」
「そんなことしてないでしょ? あたしは2人を暖かく見守ってるだけよ」
 柚木は、あれから住井とは正式に別れてフリーになったそうで、俺と茜がデートをしていると、どこからともなく現れてはちょっかいをかけてくる。まったく困ったもんだ。
 でも、まぁいいか。
「なぁ、茜」
「何ですか?」
「手を繋がないか?」
「恥ずかしいから、嫌です」
 俺は苦笑した。
「相変わらずだな」
「はい、そうですね」
 茜もくすっと笑った。
 春は、すぐそこまで来てるようだった。

「ねぇねぇ、何、内緒話してるの?」
「君には教えてやらん」
「あーっ、けち! いいもん、茜に聞くから。茜は教えてくれるよね〜」
「嫌です」
「うぐぅ」
「詩子がやっても可愛くありません」
「それじゃ俺が見本を見せてやろう」
「絶対に、嫌です」

THE END

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あとがき

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