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ONE 〜into the Bright Season〜 Short Story #10
野バラのエチュード その7

 トントン
 ノックの音がした。ベッド脇に座っていた長森が、顔を上げて、ドアの方を見る。
「どうぞ」
 カチャ
 ノブが回って、ドアが開いた。そして、茜が顔を見せる。
「里村さん……」
「詩子は……?」
 訊ねてから、ベッドに横になって眠っている柚木の姿を見つけ、茜は静かに歩み寄った。
「お医者さんは、疲労で眠っているだけだって」
 長森の言葉を聞いて、茜はかすかに頷いた。
 俺は、立ち上がると、自分が座っていた椅子を茜に譲った。
「すみません」
 そう言うと、茜は椅子に座り、柚木の額にかかっている髪をそっとかき上げた。それから、俺達の方に視線を移す。
 俺は肩をすくめた。
「だいたいの状況は電話で話した通りだ」
「……」
「それから、柚木さんのご両親もいらっしゃってたんだよ。今ちょうどいないけど」
「……そうですか」
 呟くと、茜は顔を上げた。
 俺は頷くと、長森に声をかける。
「すまん。ちょっと柚木を頼む」
「えっ?」
「茜と話があるんだ」
「……」
 無言で頷く茜。
 長森は、俺と茜を見て、頷いた。
「うん、いいよ」

 病室のドアを閉めると、俺は壁にもたれかかった。そして、片手で自分の顔を押さえて呟いた。
「まいったぜ……」
「浩平……」
 茜は、俺に尋ねた。
「詩子は、本当にそんなことを……?」
「ああ。……俺に向かって、「誰?」って……」
「……嫌です」
 茜は、俺の服の裾をぎゅっと握った。そして、繰り返す。
「もう、嫌です」
「ああ……」
 俺は、茜の肩を抱いた。
「俺だって、嫌だ。それに、今回は前回と違うような気がするんだ」
「……え?」
 柚木は、俺だけでなく、長森にも「誰?」と訊ねた。そして、その直後に倒れた。
 俺は長森も消えるのかと思ったが、客観的に見ると、それ以前に柚木の方がおかしい。
 俺がそう説明すると、茜は小首を傾げた。
「お医者様は、なんと?」
「疲労による、一時的な記憶の混乱じゃないか、だとさ。一応、意識が戻ったら、精密検査をするって言ってた」
「……そうですか」
 茜は頷いた。
 と、不意に病室のドアが開いて、長森が顔を出した。左右をキョロキョロ見てから、俺達に気付いて駆け寄ってくる。
「柚木さんが気が付いたよっ!」
「!?」
 俺達は顔を見合わせ、病室に駆け戻った。

 ドアを開けると、柚木はベッドの上で上半身を起こしていた。その顔がゆっくりと俺達の方を向く。
 茜が静かに歩み寄った。
「詩子……」
「……誰?」
 茜の足が止まった。
「冗談は、止めてください」
「……」
 柚木は、きょとんとして茜を見つめていた。
「……本当に、忘れてしまったんですか……?」
 茜の声が震えた。
「……冗談、ですよね?」
「……」
 病室に、沈黙が流れた。

 俺達3人が、病院を出ると、雨はまだ降り続いていた。
 長森は傘を広げると、雨の中に一歩踏み出して、振り返った。
「浩平も、里村さんも、元気出そうよ。とりあえず、お医者さんが検査してくれるんだから」
「……ああ、そうだな」
「……はい」
「そうだ。帰りにパタポ屋寄っていかない?」
「行きます」
 長森の提案に、茜は速攻で頷いた。
「いいかもな」
 俺もうなずき、傘を広げた。

 雨にも関わらず、パタポ屋は制服姿の女の子で大にぎわいだった。……ということは、ちょうど学校が終わった時間になるわけだ。
 俺達はそれぞれクレープを買って、商店街を歩き出した。
 長森は、黙りがちになる俺達を気遣ってか、やたら話しかけてくる。
 確かに、ありがたかった。俺と茜だけだと、どんどんやばい方向に沈み込んでいったかもしれなかったから。

「それでは、これで」
 商店街の出口で、茜はぺこりと頭を下げた。
「あれ? 茜もこっちの方だろ?」
「寄って行くところがありますから」
 そう言い残し、茜は人混みの中に紛れていった。
 ピンクの傘が見えなくなるまで、それを見送っていた俺に、長森が行った。
「それじゃ、わたし達も帰ろうよ」
「……そうだな」
 俺は頷いた。

「……それにしても、どうしたのかな、柚木さん」
 茜がいなくなったので、話しやすくなったんだろう。長森は俺と並んで歩きながら呟いた。
「……俺にも、わかんねぇよ」
「住井くんとうまくいってなかったのかな……」
 視線をアスファルトに落として、独り言のように呟く長森。
 そういえば、柚木は住井と付き合ってたはずだよな。それなのに、どうして来なかったんだ?
「ったく、住井の奴。恋人が倒れたってんなら、真っ先にすっ飛んで来ても良さそうなもんだろうに……」
「……はぁぁ」
 長森は、長々とため息をつくと、俺に訊ねた。
「住井くんに連絡した?」
「……俺が?」
「うん」
 こくりと頷く長森。
 胸に手を当てて考えてみた。
 まず病院から柚木の家に電話して、茜に電話して……。
 俺は、おもむろに、長森に指を突きつけた。
「どうしてお前が連絡しなかったんだ!?」
「俺が連絡つけてくるから、お前は柚木から離れるなっ、って言ったの浩平だよ」
「……」
 そう言えば、そんなことを言ったような気がしないでもない。
 それにしても気が利かない奴だ。
「浩平、今からでも連絡しようよ」
「俺がか?」
「うん」
「電話が……」
「はい」
 俺の目の前に、長森が携帯電話を突き出した。
「お前、こういうものを持ってるんなら、どうして自分で連絡しなかったんだよ?」
「病院の中では携帯電話を使っちゃいけないんだよ」
 そう言えば、そうだった。
「じゃあ、今かけろ」
「わたし、住井くんの電話番号知らないもん」
「俺だって覚えてねぇよ」
「それじゃ、仕方ないね」
 あっさりと、携帯電話を引っ込める長森。
「ところで、それお前のか?」
「うん、そうだよ」
「番号教えろ。イタ電するから」
「……はぁぁ」
 再び、特大のため息を付かれる。
「浩平、大学生になっても全然変わんないんだもん。里村さんに愛想を尽かされないか心配だよ」
 なんだか、話がどんどん逸れている気がする。
「それはともかく、柚木の話だろ?」
「あ、そうか」
 ぽんと手を打つと、長森は俺を見た。
「心当たりはないの?」
「……さぁなぁ。ここんとこ、逢ってなかったし……」
 俺は腕組みして考え込んだ。
 長森は、数歩進んでから呟いた。
「やっぱり、浩平かなぁ……」
「なんだ、そりゃ?」
「ほら、ずっと前だけど、柚木さんが浩平のこと好きだったって話があったじゃない」
「……ああ」
 俺は頷くと、肩をすくめた。
「でも、それはずっと前の話だろ? それに、柚木だって今は住井と付き合ってるんだ。俺のことは諦めたってことだろ?」
「……」
 長森は、すぐには答えなかった。ややあって、俺の方に向き直る。
「もし……、あきらめてなかったら……?」
「……おいおい、それじゃどうして住井と付き合ったりするんだ?」
「それはわかんないけど……」
 長森は俯いた。
「でも、それじゃどうして、柚木さんは浩平の所に来たの?」
「それこそ、こっちが知りたいことだ」
 そう俺が言うと、長森もこくりと頷いた。それから顔を上げて微笑んだ。
「そうだね」
「……」
 それっきり、俺達は黙って雨の歩道を並んで歩いていた。

 家に付くと、俺は靴を脱いで上がりながら呟いた。
「……とりあえず、住井に連絡しといたほうがいいか」
「うん、わたしもそう思うよ」
「やっぱりそうか」
 頷いてから、俺は振り返った。
「で、長森。お前は何しに来てるんだ?」
「……はぁぁぁ」
 今日最大のため息をつく長森。それから、じと目で俺を睨む。
「今日は由起子さんが夜勤でいないから、夕飯作ってくれって言ったの、浩平じゃない」
 俺は腕組みして考え込んだ。そういえば、そんなこと言ったような気もするが……。
「でも、材料がないぞ」
「えーーっ!?」
 慌てて台所に走っていく長森。しばらくして、台所から声が聞こえてきた。
「浩平ーーっ! お米とビールしかないよぉーーっ!」
「しょうがないな。何か買ってきてくれ」
「もーーっ。後でちゃんとお金払ってよね」
 ぶつぶつ言いながら、それでも買い物かご(戸棚の奧にしまい込まれていたらしい)を片腕に下げて出ていく長森。
 と、出がけに振り返った。
「ちゃんと住井くんに連絡しておくんだよ」
「わーったわーった。電話しとくから、さっさと食料を調達してきてくれ」
 俺が言うと、長森はぶつぶついいつつも、傘を広げて出かけていった。

 トルルル、トルルル、トルルル、プツッ
「……はい、住井です。ただいま留守にしております。ピーッという発信音の後に、メッセージをどうぞ」
 多分、住井のお袋さんの声だろう。おばさんの声が聞こえてきた。
 なんだよ、いねぇのか。
 ピーッと発信音が鳴った。俺はとりあえずメッセージを吹き込んでおくことにした。
「……お前を殺す」
「いきなり何を言うんだっ、折原っ!!」
 唐突に受話器の向こうから住井の声が聞こえた。
「いるならさっさと出ろ!」
 俺が言い返すと、ちょっと沈黙があり、それから住井の声がした。
「……何か用か?」
 おや? なんだかマジ入ってる声だぞ。
「あ、ああ。実は柚木のことなんだが……」
「……やっぱり、お前、そういうことか」
「……はい? 知ってたのか?」
「薄々とは感じてたよ。でも、俺はマジだったんだぜ」
「……は?」
「俺は、マジに好きだったんだ!」
 俺は受話器を置いた。そして時計を見上げる。
 5秒ほどで、電話が鳴りだした。
 トルルルル、トルルルッ
 受話器を取ると、向こうで住井が叫んだ。
「いきなり切るなっ!!」
「切りたくもなるわ! お前がそんな変態だったとはなっ!!」
「何処が変態だ!? 俺は純愛だっ!!」
「なお悪いっ!」
 言い返すと、俺は受話器をもう一度切った。それから電話のモジュラージャックを引っこ抜く。
 これで、よしと。
 タイミング良く、長森が部屋に顔を出した。
「ただいまぁ。ちゃんと電話した? ……ねぇ、何かあったの? 真っ青だよ?」
 俺はゆっくりと振り返って、言った。
「……住井に告白された」
「ええっ!? なんで、どうしてっ? 住井くんってそういう趣味だったの!?」
「俺が知るかぁっ!!」
 俺は頭を抱えて、そのままうずくまった。それから立ち上がる。
「長森、飯だっ! とりあえず食って忘れるぞっ!!」
「ええーーーっ? わたし今帰って来たところだよっ!」
「気の利かない奴だ」
「もうっ、浩平、無茶苦茶だよっ!」
 文句を言いながらも、長森は1階に降りていった。

To be continued...

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