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ONE 〜into the Bright Season〜 Short Story #10
野バラのエチュード その6

「……」
 目が覚めると、部屋は薄暗かった。
 枕元の時計を見ると、午前6時半。
 大体、俺が早く目を覚ますと、雨が降ってる事が多い。きっと、気圧が低いと目が覚めるんだろう。
 そう思いながらカーテンを引くと、案の定、雨が降っていた。
「……やれやれ」
 俺は苦笑して、身体を起こした。経験上、こんな日に限って、一度目がさめるともう眠れないことを知ってるからだ。
 窓ガラスごしに雨を見ていると、あの空き地でピンクの傘を差していた茜の姿を思い出す。
「……」
 もう一度、苦笑した。
 そうだよな。
 もう、茜がピンクの傘をさして、空き地に立ち尽くしてる必要はないんだ。
 俺は、戻ってきたんだから。『えいえんのせかい』から……。
 ピンポーン
 チャイムの音がして、俺は我に返った。
 誰だ? こんな時間に。
 長森だったらチャイムなんて鳴らさないで入ってくるだろうし、茜がこんなに朝早く起きてくるわけがない。
 窓から、玄関の方を見ると、そこには人影があった。雨が降ってるっていうのに、傘もささずに立っている。酔狂な奴だ。
 ……!
 俺は、窓から身を翻すと、廊下に飛び出した。階段を3段飛ばしで飛び降り、玄関を開ける。
 ガチャッ
 立ち去ろうとしていたのか、背中を向けていたあいつが、ドアの音に振り返った。そして、笑った。
「遅い。帰ろうと思ったじゃない……」
「お前、なにやってるんだ?」
 俺は、訊ねた。
 どれくらい、雨の中に立っていたのだろうか。ずぶぬれになって、髪の毛から雨水を滴らせながら、柚木は笑顔だった。
 脆い、すぐに砕けてしまいそうなガラスの笑顔……。
「見て判らない?」
「判るかっ!」
「あはっ、それもそっか」
「とにかく、来い! いくらお前が馬鹿でも風邪引くぞ」
「そうだね……」
 そう言いながら、だが柚木はその場を動こうとしなかった。
 俺は、仕方なく傘立てから傘を出すと、広げて柚木に駆け寄った。
「おい、こっちに来いっ!」
 柚木の腕を掴む。……冷たい。
「強引、だね」
「そんなこと言ってる場合か」
 俺はそのまま、柚木を引っ張り込んだ。土間に立たせたままで、風呂場に走ってバスタオルを掴んで引き返す。
 柚木は、俺が引っ張り込んだ姿勢のまま、ぼーっと立ち尽くしている。
 いつも、いやになるくらい発散されている元気が、全く感じられない。
 仕方なく、俺は柚木にバスタオルをかけてから、電話に飛びついた。
 と、ちょうどいいタイミングでドアが開くと、長森が顔をだす。
「おはようございま〜す……あ、あれっ? 柚木さん? ここ、浩平の家だよねっ?」
「当たり前だ、バカっ」
「あっ、浩平? でも柚木さん?」
 混乱している長森。だが柚木はぼーっとしたままだ。
 俺はとりあえず長森を落ち着かせて、事情を説明した。
「……というわけだ」
 説明し終わってみると、長森も柚木もいなかった。
「……あれ?」
「浩平っ、お風呂借りるねっ!」
 後ろから長森に言われて、俺は振り返った。
 いつの間に移動したのか、長森が柚木の背中を押しながら風呂場に消えるところだった。
「お、おい、長森?」
「あっ、浩平。のぞいちゃダメだよっ」
「だ、だれがっ!」
 言い返す俺の鼻先で、ばたんと風呂場のドアが閉まった。

 パタン
 長森は、俺の部屋のドアを閉めた。
「どうなってるんだ?」
 廊下で待っていた俺が訊ねると、長森はしぃっと唇に指を当てた。それから、身振りで“下に行こう”として見せると、そのまま階段を降りていった。
 仕方なく、俺もその後に続いて降りると、リビングのソファに腰を下ろした。
 長森も、俺の前のソファに座ると、一つ息をついた。
「ふぅーー」
「で、どうなってるんだ?」
「とりあえず、今は寝てるけど……。どうなってるのか聞きたいのは私だよっ。柚木さん、いつもの柚木さんらしくないよ。一体どうしちゃったの?」
「玄関で説明しただろうが?」
「聞いてなかったもん」
「なんだとぉ?」
「だって、あんなところで浩平の説明聞いてたら、柚木さん風邪引いて死んじゃうよ」
 長森は呆れたように言った。
 俺は肩をすくめた。それから時計を見た。
「長森、今日はいいのか?」
「えっ? あ、うん。今日は授業ないし……。浩平こそ、いいの?」
「雨が降ってるから今日は休みだ」
 俺が言うと、長森はまたため息をついた。
「はぁ……。ホントに心配だよ。単位取らないと、ちゃんと進めないんだよ」
「心配するなって。ちゃんと4年間で卒業するための単位取得計画は出来ているんだ」
「最初からぎりぎりを目標にしてたらダメだよっ。……コホン」
 話がずれたことに気が付いたらしく、長森は咳払いすると、話を戻した。
「それじゃ……」
「長森、腹減ったな」
「もう。トーストとコーヒーでいいよねっ?」
「ああ、適当でいいぞ」

 トーストとコーヒー、と言いながら、さらに卵焼きとサラダまで作ってしまう辺りが、こいつの世話好きな性格をあらわしているな、などと思いながら、俺はベーコンエッグをむしゃむしゃと食べた。
「うん、なかなか美味いじゃないか」
「でしょ?」
 誉められると嬉しいのか、にこにこすると、長森は自分用のホットミルクをマグカップから飲んだ。
「ふぅ、美味しい で、柚木さん、どうしたの?」
「ふぉうふぃふぁもっ」
「ああっ、もう! 口の中にものを入れたまましゃべらないでよっ」
 慌てて布巾を持ってばたばたする長森。
 俺はごくりとベーコンエッグを飲み込むと、呆れて言った。
「せわしないやつだなぁ。ちょっとは落ち着けよ」
「もうっ、浩平のせいなんだよっ。ああっ、黄身がたれてるっ!」
 そう言いながら、布巾で俺の襟元をごしごしとこする長森。
「悪いな」
「もう、気を付けないとだめだよ。はい、とれた。で、どうしたの?」
「えっ? ああ、柚木か? 俺にもなんだかさっぱりだ」
 俺は再度、肩をすくめた。
「長森が来るちょっと前かな? チャイムが鳴って、ドアを開けてみたらあいつが傘もささずに立ってた。放って置くわけにもいかないから、玄関を開けて中に引っ張り込んだところにお前が来たってわけだ」
「そうだったんだ。でも、本当にどうしたんだろう? あっ、里村さんなら何か知ってるかもしれないね。電話してみようか?」
 俺は時計を見てから肩をすくめた。
「無理だな。茜は8時より前には起きてこないぞ」
「そうなの?」
「ああ」
 俺が自信たっぷりにうなずくと、長森は「しょうがないな」という顔でうなずいた。
 と、リビングのドアが開いた。
 カチャ
 長森がそっちを見て、目を丸くした。
「あれ? 柚木さん、もういいの?」
「……」
 そこに立っているのは、確かに柚木だった。例によって借りた由起子さんのパジャマを着ている。ちなみに柚木が着ていた服は洗濯して、今は乾燥機の中をぐるぐる回っているところだ。
 柚木はぐるっとリビングを見回して、俺、長森、と視線を移した。それから俺に戻すと、口を開いた。
「……あなた、誰?」
「……っ!!」
 俺は思わず立ち上がった。
 またか? またなのかっ!?
 前に俺が消えたとき。あのときも、一番最初に俺を忘れたのは柚木だったんだ。
 それじゃ、また俺は消えるのか!?
「ど、どうしたの、浩平? 怖い顔して……」
 長森に声をかけられて、俺ははっと我に返った。
 考えてみると、前のときは、それまでにいろいろと予兆があったのに、今回は何にもなかった。
 きっと、何かの間違いだ。そうに決まってる!
 俺は、ぐっと拳を握ると、笑った。
「何言ってるんだ、柚木? この俺を忘れたようったって、そうはいかないぞ」
「……」
 柚木は、俺の言葉には何も応えず、じっと俺を見つめていた。それから、ゆっくりと長森に視線を移す。
「ど、どうしたの、柚木さん?」
「……あなたは、誰?」
 俺にしたのと同じ質問を、長森にもする。……ということは、長森も消えるのか?
 長森は、びっくりして柚木に言った。
「どうしたの、柚木さん? わたし、長森瑞佳だよっ」
「……ながもりみずか……。どこかで……いたっ」
 頭を押さえる柚木。長森はそんな柚木に駆け寄ると、声をかけた。
「どうしたの、柚木さん? 大丈夫!?」
「……痛い……」
 もう一度うめくと、そのままぐったりとする柚木。
 しかし、……どういうことなんだ? 俺と長森が消えるっていうのか?
「ちょ、ちょっと浩平っ! 助けてっ!」
 長森の声に我に返ると、俺は柚木の身体を抱き上げた。
「どうする?」
「とりあえず、ベッドに寝かせておいた方がいいと思う。わたし、救急車呼ぶからっ!」
「それはやりすぎじゃ……」
「いいから、お願いねっ!」
 そういうと、長森はパタパタと電話の方に走っていった。俺はため息をついて、柚木の身体を抱き上げた。

To be continued...

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