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いつまでも冷たい風に吹かれていても寂しいので、俺は窓を閉めた。ため息を一つ。
To be continued...
この旅行で、いろんなことがわかった。みさき先輩のこと、長森のこと、澪のこと、茜のこと。
でも、肝心の七瀬とのことについちゃ、何の進展もないんだよなぁ。
もっとも、何をして進展というのか、っていうのもよくわからんが。
実は七瀬とは小さな頃に出会っていた、なんて展開もないだろう。
既に恋人同士なので、実は俺のことが好きだったんだ、なんてことにもならないし……。
七瀬によると、俺とのことがあいつの初恋らしいので、昔好きだった人がいて……なんてこともないようだし。
……ちょっと待て。
結局、この旅行中、俺って、恋の後始末ばっかりしてたのか?
うーん。まさに恋の清算事業団ってか。
なんだかなぁ……。
……ま、いいか。
みんな、俺が言うのもなんだが、いい娘だし、あいつらがそれなりに、“今”と向き合えるようになったっていうんなら、それはそれで意味があるんじゃないかな。
独りで納得していると、ドアがいきなりガチャリと開いて、椎名が顔を出した。
「あれ? どうした、椎名?」
「浩平と遊んで来なさいって、瑞佳お姉ちゃんが言ったの」
とてとてっと駆け寄ってくると、椎名は俺を見上げた。
「そっか。よし、それじゃ遊ぶか」
「うんっ♪」
嬉しそうにこくこくとうなずく椎名。……って、おい?
「椎名、おまえ、ちゃんとしゃべれるんだな」
「みゅっ?」
……元に戻ったか?
「にしても、椎名。おまえ、みゅ〜以外に何かないのか?」
うーん、と考え込むと、椎名は言った。
「必要……ないから」
うーん。
察するに、椎名の周辺の連中が、椎名の「みゅ」だけでだいたいのコミュニケーションを成立させてしまうから、他の言葉を椎名がしゃべる必要がない。だから、必然的に椎名は「みゅ」以外の言葉をあまりしゃべらない、ということか。
よし。
「椎名、ちょっとした遊びをしようか」
「うんっ」
にこにこしてうなずく椎名。
俺は説明した。
「椎名はこれから、俺がいいって言うまで、みゅって言っちゃいけないんだ」
「?」
きょとんとする椎名。
「で、俺がいいって言うまで、椎名がみゅって言わなかったら椎名の勝ち。で、言ったら俺の勝ち。どうだ?」
「いい」
「オッケー。じゃ、今からな。スタート!」
俺は、パンと手を打った。それから、訊ねる。
「で、椎名はもう新しい学校に行ってるのか?」
「み……。う、うん」
「そっか。友達、出来たか?」
「み……。う、うん。みあちゃん」
「偉いな。そっかそっか」
俺は椎名の頭を撫でてやった。
小一時間ほどして、ドアをノックする音がした。そして長森が顔を出す。
「浩平、繭いる〜?」
「おう、いるぞ」
「あ、よかった。ごめんね〜、繭。七瀬さんとお話があったから〜」
その後ろから七瀬も顔を出す。
繭は、長森のところにとてとてと駆け寄った。
「お姉ちゃん、繭ね、浩平お兄ちゃんと遊んでたんだよ」
「そうなの〜。遊んでもらったんだ。よかったねぇ〜」
繭の頭を撫でる長森。その後ろで、七瀬がぽかんと口を開けていた。
「ちょ、ちょっと瑞佳ぁ……」
「え? どうしたの、七瀬さん?」
「どうしたのって……ぐえっ」
「み……」
七瀬のおさげを、椎名ががしっと掴んで引っ張っていた。
「ぐ、ぐぉぉぉぉ」
おおっ、七瀬が不屈の闘志で身体を起こすぞっ。
「ちょ、ちょっと離しなさいよっ!! あたしの髪の毛はみゅーじゃないっ!!」
「ちがう〜。尻尾なんだよ〜」
「違わないわよっ! ……って、ええっ?」
七瀬は目を丸くして、おさげにじゃれつく椎名を見た。
「……始めてみたわ。この娘がちゃんとしゃべってるところ」
「え?」
きょとんとする長森。それから、椎名に訊ねた。
「繭、ちゃんとしゃべってるの?」
「うん、そうだよ」
「……わぁ〜、すごいねぇ〜、偉いんだぁ〜」
長森はポンと手を打って喜んでいる。椎名はちょっと得意そうだ。
「えへへ〜」
「そりゃいいから、離せってばっ!」
「やだよう〜」
「やじゃないわよっ!」
俺が割って入った。
「まぁまぁ、ここはどうだろう。七瀬の髪を切って椎名にやるってことで手を打たないか?」
「アホかっ!!」
七瀬が一言の元に却下する。
「そうか? いい案だと思うんだけどな」
「ぐすっ。切っちゃうと死んじゃうからやだ〜、えぐっ」
いきなり椎名がそう言って泣きだしかけた。慌ててなだめる長森。
「大丈夫だよ〜。七瀬さんの髪を切っても、七瀬さんは死なないよ〜」
「そうだぞ、椎名。丸坊主にしても死ぬことはないんだぞ」
「……別の意味で死にたくなるわ……」
がっくりと肩を落として呟く七瀬。
と、長森がポンと手を打った。
「いけない、いけない。夕食の時間だから呼びに来たんだった」
「忘れるなっ!」
「み……。ごはんっ♪」
まずは、ここからだな。
俺は、長森の後をとてとてと駆けていく椎名の後ろ姿を見送りながら、心の中で呟いていた。
急いで変わる必要はないさ。少しずつでも、変わっていけばいいんだ。
「……浩平」
「ん?」
七瀬が、微笑んだ。
「なんだか、優しい顔してるよ」
「そっか?」
「うん。……えへへ、また一つ、浩平の事知っちゃった」
「なんじゃ、そりゃ?」
と、廊下の曲がり角から、椎名がひょこっと顔を出した。
「浩平〜〜〜っ!」
「おうっ、今行くぜっ」
俺は駆け出した。
「あっ、待ってよ、もうっ!」
七瀬が、俺の後から追いかけてくる。
大広間では、しゃぶしゃぶ食べ放題が俺達を待っていた。
「もう、最後の夜になるんだね〜。ちょっと寂しいよ〜」
と、みさき先輩はのたまった。……もっとも、嬉しそうにおひつを抱えて食べながらだったので、あまり説得力がなかったが。
そう、俺達は明日の朝には、この旅館を離れて帰らなければならないのだ。
「すみません。結局、最後まで一緒にさせてもらっちゃって」
長森が謝ると、深山先輩は笑って言った。
「いいのよ。賑やかな方が楽しいし」
「ふぉうふぉう」
と、もぐもぐと口を動かしながら柚木。
「それはそうと、なんでおめぇがそこにいるんだ、柚木詩子!」
俺が指さして糾弾すると、柚木はごくんとご飯を飲み込んでから、隣に救援を求めた。
「あら、いいじゃない。ねぇ、茜」
「……はい」
柚木の隣で、ちょこんと正座して、礼儀正しくご飯を口に運びながら、茜はうなずいた。
「あのなぁ……」
言いかけたところで、茜は箸を置いた。それから俺に訊ねる。
「浩平は、楽しくないですか?」
「いや、それは……」
「だったら、いいじゃないですか」
うんうん、と、茜の隣に座った澪がうなずく。
「はいはい」
「……はいは、一度です」
「……はぁい」
俺はあきらめて、長森に尋ねた。
「明日は何時に出るんだ?」
「えっとね、10時くらいには旅館を出るつもりだよ」
「はいっ、浩平」
七瀬が、ご飯をてんこもりにした茶碗を俺に渡す。
「おい、俺はそんなに食わないぞ」
「あっ、ごめん」
そう言って引っこめようとした手を掴んで止める。
「まぁ、いいや。食ってやるよ」
「でも……」
「任せろ。七瀬が入れてくれた飯だ。ぜったいにみさき先輩には渡さん」
「ひどいよ〜。私、人のご飯まで食べたことなんてないのに〜」
テーブルの向かい側に座っているみさき先輩が拗ねた。
今日のメニューはしゃぶしゃぶだ。さすがに危険なので、今日はみさき先輩は隔離席ではないのだ。
俺は、長森の横で必死になって鍋をつついている椎名を見た。
「長森、そろそろ取ってやれよ」
「そうだね」
「……えぐっ。み……、ひっく」
泣きそうになる椎名。それでも約束通り、「みゅー」とは言わない。偉いな。
ちなみに、椎名が箸でつついていたのは、湯豆腐である。当然、グチャグチャになってしまっている。
……椎名、湯豆腐を箸で取るなんて、俺でも難しいんだぞ。
「あ、ほら、取って上げるって」
長森は、椎名にしゃもじで湯豆腐をすくってやってる。本当に世話好きだな。
「はい。白菜も入れる?」
「うんっ♪」
一転してご機嫌な椎名。判りやすい奴だ。
「浩平、なんだか嬉しそうだね」
「そうか? ま、そうかもな」
七瀬に言われて、俺は肩をすくめた。それから、七瀬の前にある空揚げを奪い取る。
「ああっ、浩平、あたしの空揚げ取ったっ!」
「何の事かなぁ〜?」
「くくぅ〜〜〜っ」
口惜しさに拳を震わせる七瀬。ふっ、まだまだ修行が足りないな。
「あ、面白そう。それじゃ私ももらっちゃおう」
そう言って、七瀬の空揚げに箸を伸ばす柚木。
ガシッ
空中で、その箸は俺の箸に止められていた。
「柚木、七瀬のものは俺のもの、俺のものは俺のもの。断じてお前には渡せないな」
「こ、浩平……」
隣で、感動の余り涙ぐむ七瀬。……なら、盛り上がるのだが、肝心の七瀬は呆れたように見ているだけだ。
だが、俺も折原浩平。勝負を放棄することは出来ない。
柚木はにっと笑った、
「……ふっ、やるわね折原君。でも、私も引くわけにはいかないのよ」
バチッ
二人の視線が火花を散らした。そして、二人の箸がぶつかり合う。
「……見苦しいです」
茜に言われて、しぶしぶ箸を引く柚木。
「茜に免じて、ここは引いてあげるわ」
「こっちこそ。次はねぇぞ」
「ふっふっふっふ」
「へっへっへっへ」
互いに不敵な笑みを浮かべ、俺達は再戦を誓いつつ、この場は別れたのだった。
「よし、七瀬。せっかくだから俺の皿に入っているたれを入れてやろう」
「わぁ〜っ、それごまだれじゃないっ! こっちのはしょう油なのよっ!!」
「美味いかもしれんぞ。それ」
どばどばどばっ
「……ひんっ」
感動の余り涙する七瀬。
「もう、浩平相変わらずむちゃくちゃだよ〜。はい、私のと取り替えてあげるね」
長森のやつが、よこから俺の芸術的センスの結晶であるブレンドたれを自分のと取り替えてしまった。
「ちょっと、瑞佳、あなたそれ使う気?」
「うん。せっかくだし」
そう言って、肉をブレンドたれに付けて食べる長森。
「……」
「ほら、まずそうじゃない」
七瀬が、非難の目で俺を見る。慌ててフォローする長森。
「大丈夫だよ、食べられるもん」
「我慢しなくてもいいんだってば、瑞佳」
「あ、いらないなら私が食べるよ〜」
「みさきは十分食べてるでしょう?」
「……雪ちゃん、意地悪だよ〜」
こうして、和やかに最後の夕食の時間は過ぎていった。