喫茶店『Mute』へ 目次に戻る 前回に戻る 末尾へ 次回へ続く
「折原君、どうしたの?」
To be continued...
柚木の声に、俺は我に返った。
「え?」
「え、じゃないでしょ。何よ? 澪ちゃんのスケッチブックに、そんなにすごいことでも書いてあったの?」
柚木が、脇から覗き込んだ。そして、スケッチブックに青いクレヨンで書かれた文字を読み上げる。
「いっしゅうかん? 一週間ってことなのかな」
「ああ」
俺はうなずいて、幸せそうな顔でワッフルを頬ばっている澪の横顔に視線を走らせた。
「一週間ってことだよ」
そう言って、俺はページをめくった。
青いクレヨンで、びっしりと文字がつづられている。
あの時の澪が、俺に伝えかったことが。
でも、それを俺は受け取ることが出来なかった。
約束した、一週間後のその日、俺は黒い服を着た大人達の間に混じって、父さんに別れを告げていたから。
ずっと続くと思っていた、平穏な日の終わり……。
次に平穏な日々が始まったのは、瑞佳に出会ったときから。
そして、本当に平穏な日常が戻ってきたのは、あの公園で、七瀬に再会したときだったんだ。
「ねぇねぇ、澪ちゃん。これって、澪ちゃんが書いたの?」
うんっ
柚木の質問にうなずいてから、澪はワッフルを飲み込んだ。そして、いつも使ってる方のスケッチブックにサインペンで文字を書く。
『小さい頃なの』
「そっか〜」
柚木は目を細くして笑った。
「可愛いなぁ〜。今も可愛いけど、小さい頃ってもっと可愛かったんだろうね〜」
澪は照れてもじもじしていたが、またスケッチブックに文字を書く。
『返すって約束なの』
ズキッと、胸が痛んだ。
澪は、あの約束を覚えてるんだ。俺は、忘れていたっていうのに……。
「返すって、このスケッチブックって借り物なの?」
『そうなの』
「そっか〜。それでいつも持ち歩いてるんだ。偉い偉い」
澪の頭を撫でる柚木。また照れる澪。
と、そんな二人を見つめていた俺は、不意に視線に気付いて、顔を上げた。
茜が、じっと俺を見ていた。
「な、なんだ?」
「……いえ」
微かに首を振ると、茜は皿に残っていた最後のワッフルを、それが義務だと言わんばかりに手にとって、練乳をかける。
茜がそのワッフルを食べ終わるのを待って、俺は立ち上がった。
「じゃ、ワッフルも無くなったことだし、俺、部屋に戻るわ」
澪も立ち上がると、茜と柚木にぺこぺこと頭を下げた。
『おいしかったの』
それから、柚木から古いスケッチブックを回収すると、俺の袖にがしっとしがみついた。
柚木がくすっと笑う。
「なんだか、澪ちゃんってコアラみたい」
「俺はユーカリの木か?」
「そうそう。あははっ」
屈託無く笑い声を上げる柚木の横で、茜が澪に話しかけていた。
「また、ワッフルを食べましょう」
うんうんうん
3度うなずく澪。
俺は澪に声をかけた。
「ほら、行くぞっ」
うんっ
大きくうなずくと、澪はにこにこと笑った。
「じゃあな、茜、柚木。世話になったな」
二人に声を掛けて、部屋を出ようとすると、不意に茜が言った。
「浩平」
「ん?」
「……もし、出来るのなら……」
茜は、あとは口には出さなかった。でも、言いたいことはわかった。
もし、出来るのなら、背負ったものを外してあげてください。
「ああ、やってみるつもりだ」
俺が言うと、茜はこくりとうなずいた。
「何、何よ、茜も折原君も、視線で会話しちゃって〜」
取り残された柚木が、拗ねたように言った。俺は笑った。
「柚木。俺と茜の間には、深い深ぁい、切っても切れない絆が……」
「ありません」
間髪入れずに否定する茜。俺はかくっと肩を落とした。
「はいはい。んじゃ、そういうことで」
「うん。折原君も澪ちゃんも、まったね〜」
ぱたぱたと手を振る柚木を後に、俺達は二人の部屋を出た。
それから、俺は澪に言った。
「ちょっと、歩かないか?」
一瞬きょとんとしてから、澪は嬉しそうにうなずいた。
俺と澪は、並んで山道を歩いていた。
……並んで、じゃないな。
澪は、ぴったりと俺にしがみついていた。なんせ、例の滝に向かう道だ。澪にとっちゃ、まだ山の中で遭難しかけた怖い記憶が甦るところだろう。
「そう怖がるなって。♪俺がいるじゃないか〜」
妙な節を付けて歌ってみせるが、あんまり効果がない。しょうがない奴だなぁ。
「大丈夫だって。滝の所に行くだけだ。それ以上は行かないって」
う……ん
躊躇いがちにうなずく澪。まだ明るいから、こうして歩いているんだろうけど、暗くなったらきっと一歩も歩けなくなるな、こりゃ。
しばらく歩いて、滝のところに着いた。
ゴォーッ
大きな音を立てながら、流れ落ちる滝。ちょうど、木の間から差し込んできた陽の光が、飛び散る飛沫に七色の虹をかけていた。
今まで怖がっていたのは何処へやら、澪は滝壺の近くまで駆け寄ると、ほぇ〜っと滝を見上げていた。
俺は、ベンチに座って、そんな澪を見ていた。
そして、声を掛けた。
「なぁ、澪」
澪は振り返ると、俺のところまでぱたぱたと駆け寄ってきた。そしてスケッチブックを開いて、書き込む。
『すごいの』
「……ああ」
それから、澪はまた滝壺の方に駆け戻ると、滝を見上げた。
俺はベンチから立ち上がると、その澪の後ろまで歩み寄った。
そして、訊ねる。
「なぁ。……青いクレヨンは、もう無くなっちまったのか?」
えっ、という顔で振り返る澪。
俺は、澪の隣に立つと、手すりにもたれて滝を見上げた。
「ごめんな。スケッチブック、取りに行けなくなっちまって」
澪は、まさか、という顔で、俺を見上げていた。
「で、今更なんだけどさ」
澪に向き直る。
「返してくれるか? ブランコを回転させたのは謝るからさ」
まだ、半信半疑だった澪の目が、ブランコと聞いて丸く見開かれた。
そのスケッチブックを貸した少年と、澪自身しか知るはずのないこと。
「でも、白いクレヨンはいらないなんて、我が儘だったよなぁ、お前も」
……えぐっ
澪は、しゃくりあげながら、古いスケッチブックを、俺に差し出した。
「おう、サンキュな。……っと」
俺が受け取ると同時に、澪は俺にがばっと抱きついた。そのまま、俺の胸に顔を埋める。
その頭を撫でながら、俺は滝にかかった虹を見つめていた。
「青いクレヨンだけじゃ、虹は描けないんだ……」
えっ、と顔を上げる澪。
「ごめんな、澪。青いクレヨンだけしか、貸してやれなくてさ。だけど、もう大丈夫だよな。俺が貸してやらなくても、澪は自分で描けるよな。……いろんな色を使って、虹を描けるよな」
「……」
もう一度えぐっとしゃくり上げ、澪は服の袖で顔を拭いた。それから、俺をみて、涙を浮かべた目で、にこっと笑った。
『伝えたいこと、いっぱいあったの……』
カチャ
ドアを開けて部屋に戻ると、七瀬がびっくりしたように振り返った。俺の姿を見て、ほっと息を付く。
「なんだ、浩平じゃない。脅かさないでよ……。どうかしたの?」
「いや」
俺は肩をすくめると、自分の鞄を開けた。そして、スケッチブックをその中にしまい込む。
めざとくそれを見て、七瀬が訊ねた。
「あれ? それ澪ちゃんのスケッチブックじゃないの?」
「返してもらったのさ」
「?」
訳がわからない、という顔をしている七瀬。
いつか、ゆっくり話してやるか。
いつか、な……。
俺は、七瀬の肩をぽんと叩いた。
「それじゃ、いつものように一緒に風呂に入るか」
「うん……って、入るかっ!」
めきょ
いきなり殴られた。
「まったく、浩平ったら……。でも、なんだかサッパリした顔してるね。何かあったの?」
「ああ」
俺は、窓を開けた。冷たい空気が流れ込んでくる。
それを背に、俺は振り返った。
「七瀬……」
「何?」
「結局のところ、どうも俺は七瀬が一番好きらしいな」
「な、何よ、いきなり」
七瀬はかぁっと赤くなった。そのままもじもじしながら、上目づかいに俺を見る。
「何か企んでるんでしょ」
「別に……」
俺は、窓枠にもたれ掛かって、髪を掻き上げながら、冷たい風に身を委ねていた。
「……なぁ、七瀬」
「え?」
「明日には、帰らないといけないんだよな」
「そうよ。それなのに浩平ったらふらふらふらふらと……」
「それじゃ、今から帰るまでは、ずっと七瀬と一緒にいよう」
「な、なによ。変なものでも食べたの? それとも新しいたくらみ?」
七瀬は、じろーっと疑いの目で俺を見る。
「……七瀬、お前は俺が信じられないっていうのか?」
「浩平、今までやって来たことを、胸に手を当てて考えてみなさいよ」
「おう」
ぺた。
「ちょ、ちょっと、誰の胸に手を当ててるのよっ!」
「七瀬」
「違うわよ。自分の胸でしょっ!!」
「俺は自分の胸を揉むような趣味はないぞ」
そう言いながら、柔らかい脹らみの感触を楽しむ。
「ちょ、ちょっと、やだっ、服がしわになっちゃうっ」
「俺は気にしないぞ」
「あたしが気に、なるんだっ、てばぁ」
そう言いながらも、七瀬の息は段々荒くなっている。
ふっふっふ。こっちは、七瀬の感じるポイントは全て押さえてあるのだっ。
と。
俺達は、不意に視線を感じて、同時にドアの方に顔を向けた。
「あ、あのぉ〜、お邪魔しましたぁ〜」
引きつった顔のまま、長森が軽く手を振って、ドアをパタンと閉めた。
「……」
「……」
俺達は、顔を見合わせたまま、しばらく固まっていた。
かぁっと七瀬が真っ赤になると、耳元で喚いた。
「ちょ、ちょっと、どうするのよっ!!」
「どうするって、何を?」
「だって瑞佳が見てたのよっ」
「見られて困るもんでもないだろ? 俺達恋人同士なんだし、それにノックもしないで入ってくるあいつの方が悪い」
「そりゃそうかも知れないけどっ、でも、でも……」
おろおろとうろたえる七瀬。
「それに、別にベッドの上で生本番やってるときに見られたってわけじゃないだろ」
「当たり前よっ! あ〜ん、もぉ〜」
頭を抱えてしゃがみ込む七瀬。と、いきなり立ち上がった。
「瑞佳と話をしてくるっ!」
「何を話すつもりだ?」
「色々よっ!!」
それだけ言い残して、七瀬は部屋を出ていった。
独り取り残される俺。
「……で、俺はどうしろと?」
ひゅーっ
明けっ放しの窓から、冷たい風が吹き込んできた。