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ONE 〜into the Bright Season〜 Short Story #2
俺と七瀬のハプニング・ジャーニー その16

「たで〜ま」
 そう言いながら、部屋のドアを開けると、仲居さんがきょとんとして俺を見た。
「は?」
「あ、あれ?」
 俺はもう一度部屋の外に出て、確かめる。……この部屋だよな?
 もう一度顔を出す。
「すみません、この部屋に泊まってた者なんですが」
「えっ? もう部屋を移られたって聞いてますけど」
「あれ? あ、そうなんですか?」
 そういえば、長森がそんな事言ってたような……。でも、何も俺が居ない間に移ること無いよなぁ。
「どの部屋に移ったか、知ってます?」
「ええ、そちらの……」

 仲居さんに教えてもらって(なんのことはない、元の部屋の向かい側だった)、俺はその部屋のドアを開けた。
「おーい、帰ったぞぉ」
「あ、お帰り、浩平。お茶飲む?」
 ちょっと狭くなった部屋で、相変わらず長森と七瀬、そして椎名がなにやらお喋りをしていた。
「なんだよ。せっかく部屋分けたのに、集まってんのか?」
「一人で居ても退屈なんだもん。大体浩平がさっさとどこかに行くからでしょ」
 七瀬がお茶をずずーっと飲みながら、口を尖らせた。
「まぁまぁ。浩平もおせんべい食べる?」
「おう」
 俺は机の前に座って、せんべいを囓った。
 こぽこぽこぽ
 長森がお茶を煎れると、俺の前に出す。
「はい、お茶煎れたよ。熱いからね」
「サンキュ」
 俺はお茶を一口飲むと、訊ねた。
「で、これからどうするんだ?」
「今日は一日のんびりとお喋りして過ごすつもりだよ〜」
 長森が、当然という顔で言う。
「せっかくのんびりしようと思って旅行に来たのに、誰かさんのせいで、まだのんびりしてないんだもん」
「あのな」
「それにね、今、浩平の小学校の頃の話、してたんだよ〜」
 にこにこしながら言う長森。さらに七瀬がにや〜っと笑う。
「浩平って、小学校の頃もずいぶん色々やってたみたいじゃない」
「おっ、おい、長森っ。お前、何の話をしたっ?」
「えへへ〜」
 それには答えようとせず、ただにこにこ笑う長森。
 むぅ。なんだか不利だ。
 仕方ない。ここは一時戦略的撤退をするか。
 俺は立ち上がった。
「あれ? 浩平、またどこか行くの?」
 七瀬が訊ねる。
「風呂だ、風呂。なんなら、また一緒に入るか?」
「うん……って、なんでよっ!」
 赤くなって怒鳴る七瀬。
「なんだよ、あの時はあんなに……」
 言いかけて、本気で殺気を感じたので、途中でやめた。
「じゃっ、また来週っ!!」

 チャプン
「ふぅ〜」
 俺は、大きく伸びをしてから、顔をざぶざぶっと洗った。
 昼間の露天風呂は、誰もいない。
 青空を見ながら、俺は湯の中で身体を伸ばした。
 ここんとこ、どうも風呂の中じゃゆっくりできないからなぁ。
 いつも、こういうタイミングで……。
 カラカラカラッ
 そうそう、こんな風にドアが開いて誰かが入ってくるんだ……って、おい!?
 俺は慌てて岩陰に身を潜めて、脱衣場の方を窺った。ちなみに、窺っているのは女性用脱衣場の方だ。何が悲しくて男性用脱衣場なんて窺わないといかんのだ?
「やっぱり、この時間だと誰もいないね〜」
 みっ、みさき先輩っ!?
 俺は、かくんとあごを外しそうになった。……その視線が先輩の肢体を鑑賞していたのは、男性の本能として仕方ないっていうことは、世間の男性諸氏は同意してくれるよな。
 と、みさき先輩は脱衣場の方に振り返った。
「大丈夫だよ〜。誰もいないってば〜」
 あ……。
 今度こそ、俺はその場から動けなくなった。
 ひょこっと、脱衣場のドアから顔を出したのは、澪だった。きょろきょろと露天風呂の中を見回すが、俺には気付かなかったらしい。おどおどと出てくる。ちなみに、身体にはタオルを巻いたままだ。
「澪ちゃん、お風呂どっちかな? あはは、よくわかんないよ〜」
 先輩の言葉に、澪は慌てて先輩に駆け寄った。そして、こっちに向かって引っ張ってくる。
「あ、ここだね〜。ありがとう。もう大丈夫だよ〜。あ、疑ってるんだ。ホントに大丈夫なんだってば〜。……あ」
 ドボォン
 風呂の縁に足を引っかけて、顔から落ちる先輩。……優雅さ、かけらも無し。
 はわぁ〜っ、と慌てて澪が風呂の縁に手を掛けて、風呂の中を覗き込む。
 ざっばぁ〜〜〜
「なんてね。びっくりした?」
「……」
 澪は、風呂の縁で腰を抜かしていた。俺は思わず苦笑した。
 澪のやつ、元々怖がりだからなぁ。
 ふえっ、と泣きそうになると、澪はみさき先輩をぽかぽか叩いた。
「痛い、痛いよ〜。ごめんね、澪ちゃん。もうしないよ〜」
 あう〜。
 まだむくれながらも、澪は風呂に入ると、みさき先輩の隣に座った。

 さわさわっ
 風が吹いていく。
「いい風だね〜」
 頭にタオルを乗せたみさき先輩は、目を細めた。澪もうんうんとうなずく。
「澪ちゃん。浩平君となにかあったの?」
 いきなり訊ねるみさき先輩。澪は、こっちから見ても判るくらい、身体を固くした。
 みさき先輩は、のんびりと言った。
「澪ちゃん、浩平君のこと、好きなんでしょ?」
 ぶんぶんぶんぶん
 飛沫が飛ぶくらい、思いきり首を振る澪。
「首振っても、だめだよ〜。見えなくたって、それくらいのことは、わかるよ」
 にこっと笑うみさき先輩。澪はあう〜、と赤くなって俯く。
「でも、浩平君には、七瀬さんがいる。だから、あきらめようとしてる。そうだよね?」
「……」
 澪は、悲しそうに先輩の背中に指をつけて、何か書いた。先輩はうなずいた。
「私、判るよ。だって、私も同じだもの」
 えっ、という風に目を丸くする澪。みさき先輩は、肩ごしに澪の方を振り向いた。
「私も、浩平君のこと、好きだったんだよ〜。でも、やっぱり七瀬さんの方がお似合いだと思うんだよ」
「……」
 また、先輩の背中に文字を書く澪。
「え? 漢字だとわかんないよ〜」
「……」
 慌てて澪が書き直すと、先輩は顔を伏せる。
「そうだよね。判ってるけど、やっぱり好きなんだもんね〜」
 しゅん、と顔を伏せる澪。
 みさき先輩は、くすっと笑った。
「それで、浩平君と顔を合わせないようにしてるんだ」
 さらにしゅんとすると、澪は先輩の背中に額をこつんとぶつけた。
 先輩は、優しく笑った。
「でもね、澪ちゃんがそうしてると、浩平君も辛いと思うんだ。浩平君って優しいから……。私は、そう思うから、前と同じようにしてるんだよ」
 でもぉ〜、と顔を上げる澪。
 先輩は、指を立てた。
「それとね、澪ちゃん。確かに私や澪ちゃんは、浩平君の恋人にはなれないけど、でも、友達にはなれるんだよ」
 えっ? という顔で、澪は目をぱちくりとさせた。
「浩平君みたいないい人って、そんなにはいないと思うんだ。そんな友達もなくしちゃうなんて、もったいないよ」
「……」
 少し考えて、澪は微かにうなずいた。
 先輩は、くるっと振り返ると、手を伸ばした。そして澪の位置を確かめてから、ぱふっと抱きしめた。
「澪ちゃん、私思ったんだよ。浩平君の恋人になれないんだから、それならお姉さんでもいいなって。澪ちゃんも、妹でいいじゃない。思いっ切り浩平君に甘えちゃえばいいんだよ」
 ……えぐっ
 澪は、みさき先輩の胸に顔を埋めて泣きだした。

 しばらくして、泣きやんだ澪は、お湯で顔を洗うと、照れたようにえへへ〜と笑った。それから、先輩の肩に手を掛けて後ろを向かせると、背中に文字を書いた。
「え? 背中流してくれるの? 嬉しいよ〜」
 うなずくと、みさき先輩はざばっと立ち上がった。
 俺は、岩に背中を向けてもたれ掛かり、空を見上げた。
 ……ごめんな、みさき先輩、澪。でも、俺は……。七瀬のことが好きなんだ。

 結局、二人の泡踊りを堪能してから(……なんてことを書くからオヤジ的だって七瀬に言われるんだよなぁ)、俺は風呂から出て、廊下を歩いていた。
「あ、いたいたぁ。折原く〜ん」
「んだ?」
 振り返ると、柚木がぱたぱたとスリッパの音をさせながら歩いてきた。俺の前まで来ると、訊ねる。
「ねぇねぇ、澪ちゃん知らない?」
「さっきまでっ……」
 風呂にいた、と言いかけて慌てて止める。そんな事言ったら、俺も風呂にいたのがばれてしまうじゃないか。
「さっきまで?」
 柚木は俺の顔を覗き込んだ。俺は、その柚木の髪に触った。
「シャンプー変えたんだな。似合ってるぜ」
「うんうん、そうでしょ。で?」
 むぅ、手強い奴。こうなったら、俺の巧みな話術で誤魔化すしかないか。
「さっきまで澪の居場所はまったくと言ってもいいほど知らないとしか言いようがない」
 身ぶり手ぶりを加えて熱く語ると、柚木はにこにこしながらうなずいた。
「そりゃ大変なんだね〜。で?」
 くそ、俺の話術が通用しないとは。
「さてはお前は北川だなっ!?」
「そうともいうかもね。で?」
 あっさりと受け流す柚木。……なんだか、こいつが我が人生最大のライバルのような気がしてきたぞ。
「むぅ〜」
 呻っていると、いきなり俺の背中に何かが飛びついてきた。
「ぐわぁっ。な、なんだ?」
 首をひねって後ろを見ると、大きなリボンが見えた。
「澪?」
 うん
 澪はうなずくと、俺の左腕をしっかりと抱え込んだ。
「あ、澪ちゃん。茜が呼んでたんだよ。一緒にワッフル食べようって」
 柚木が声をかけた。澪はうんうんとうなずくと、俺の腕をぎゅーっと引っ張った。
「なんだ? もしかして、俺もか?」
 うんうん、と二度大きくうなずく澪。
 妹、か。
「よし、行こうぜ」
 俺は澪の髪をくしゃっとかき回した。澪は大きくうんっとうなずいて、微笑んだ。ちょっとまだ強ばった、でもいつもの笑顔だった。

「あ、甘い〜」
「そんなことないわよ。ねぇ、澪ちゃん」
 うんうん
 はぐはぐとワッフルを頬ばって、澪が大きくうなずく。
 茜は、と見ると、皿の上のワッフルに、練乳を垂らしていた。……うーむ。
「……甘いお菓子は、乙女の特権なのです」
 そう言うと、静かに練乳のかかったワッフルを頬ばって、幸せそうににっこりと笑う茜。
「……美味しい」
 ……異次元だ。きっとここは魔境に違いない。
「さて、そろそろ俺帰るわ」
「もう帰るの?」
 柚木が、立ち上がった俺を見上げる。
「あたし達は明日帰るつもりだから、それじゃまた帰ってからね〜」
「だぁ〜。違うっ! 部屋に戻るだけだっ!」
「あ、な〜んだ」
 いかにも残念そうに言う柚木。こ、こいつはぁ〜。
 と、澪がぎゅっと俺の腕を掴んだ。
「なんだよ、まだいるのか?」
 うんうん
「でも、俺は……」
 うるうるうる
「そ、そんな目で見てもだな……」
 えぐっ
「……だーっ、判ったよ、いればいいんだろ、いればっ!」
 うんっ
 俺が根負けして腰を下ろすと、澪はまたワッフルを頬ばり始めた。……やれやれ、まだ食うのか。
 呆れながら、俺は何げなく、澪の傍らに置いてあったスケッチブックを手に取った。
 俺が崖から落ちる羽目になった原因のスケッチブック。その後俺達と共に丸々一昼夜、山の中をさまよい歩き、最後は雨の中を走り回ったおかげでぼろぼろになってる。
 ……いや、違うな。
 あの時は状況が状況だったから、大して気にも留めてなかったが、よく見てみると、けっこう年代物のスケッチブックだ。あちこち破れかかっては、セロテープで補修した跡がある。
 よっぽど、大事なスケッチブックなんだな。
 興味が湧いた。そんな大事なスケッチブックの中には、何が書いてあるんだろう?
「澪」
 ほえ? と、澪は俺の方を見た。俺はスケッチブックを掲げて見せた。
「ちょっと、中を見てもいいか?」
 ……ごくん。うん。
 ワッフルを飲み込んでからうなずくと、澪はテーブルに向き直り、次のワッフルにとりかかった。俺は苦笑して、スケッチブックを開いた。
 最初のページには、青いクレヨンで、漢字が書いてあった。

 

 ……え?
 微かに、記憶のどこかに、それが引っかかった。
 どこかで見たことがあるような……。でも、どうして……。
 青いクレヨン……。
 その瞬間だった。俺の脳裏に、フラッシュのように、いくつかの情景が交錯した。
 公園。
 ブランコ。
 赤いリボン。
 青いクレヨン。
 俺を見上げる、瞳。
 そして、果たされなかった約束……。
 俺は、震える手で、スケッチブックのページをめくった。もし、俺の記憶が本当なら……。

 いっしゅうかん

「……なんて、こった……」
 俺は、思わず、呻いていた。
 その時、初めて、澪がこのスケッチブックを手放そうとしないわけを、俺は悟ったのだった……。

To be continued...

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