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「浩平、起きてよぉ。ねぇ、起きてってばぁ〜」
To be continued...
ゆさゆさゆさっ
「ん〜、もう3日くらい眠らせてくれぇ」
俺は、ごろっと寝返りを打った。
「もう、起きてって言ってるのに〜。瑞佳ぁ、どうしよう?」
「毛布を引っ張ってはがしちゃえばいいんだよ」
「えっと、こうかな?」
いきなり毛布が引きはがされた。でも、この程度で負けるわけにはいけない。
俺は丸くなったまま、枕にしがみつく。
「むにゃ……」
「あーん、まだ起きないよぉ」
「それじゃ、えっとね、……ぼそぼそぼそ」
なにやら、長森が七瀬に耳打ちをしている。と、七瀬がかぁっと赤くなった。
「ええ〜っ? そんなことするの?」
「ファイトよ、七瀬さん!」
「う、うん。それじゃ、えっと……。ふーっ」
いきなり耳にこそばゆい息を吹きかけられて、俺は飛び起きた。
「うわわぁっ! やめてくれぇっ!」
「ほら、起きた」
「ホントだぁ」
にこっと笑う長森と、感心する七瀬。
「でもね、あんまりいつもやってると慣れちゃうから、たまに、ここぞって時にやればいいんだよ」
「なるほどぉ」
「お前らなぁ〜」
俺は耳を押さえながら言った。
「朝から何をするんだ」
「何言ってるのよ。こんないい天気なのにグーグー寝てる浩平が悪いんじゃない」
窓の方を指しながら七瀬が言う。確かにいい天気だが。
「こういういい天気の日こそ、惰眠をむさぼる絶好の一日じゃないか」
「何が悲しくて、旅先で惰眠をむさぼらなくちゃいけないのよっ!」
「そうだよ〜、浩平」
だよもん星人まで七瀬の味方をしやがる。くそ。
俺は身体を起こすと、とりあえず寝間着代わりのシャツを脱いだ。
「おはようっす」
「おはようございま〜す」
俺達が挨拶をしながら大広間に入ってくると、澪が立ち上がるのが見えた。
「あっ、澪ちゃん……」
長森が声をかけようとしたが、澪はぺこりと頭を下げると、そのまま大広間を出て行ってしまった。
「……澪ちゃん、どうしたんだろ。浩平、何かしたの?」
「……べつに」
胸がちくりと痛んだが、ここで澪を追いかけても、どうなるもんでもない。逆に傷を広げるだけだよな。
そう思って、俺は席についた。それから、深山先輩に尋ねた。
「なぁ、深山先輩。すっかり聞くの忘れてたんだけどよ、いつまでここにいるんだ?」
「明日の朝までよ。私やみさきはともかく、みんな普通の高校生なんですからね、学校をサボらせるわけにはいかないでしょ?」
「今日の学校はいいのかよ?」
俺の記憶が正しければ、今日は土曜のはずだ。
深山先輩はあっさりと答えた。
「あら、去年から高校って週休2日制になったでしょ?」
「そうだっけ?」
なにしろ、俺が戻ったときには、既に大学受験が大体終わってて、授業がほとんどない時期だったからなぁ。
それから、なんとか深山先輩を誤魔化して、俺は飯を食った。それから納豆のパックを持って、みさき先輩のところに訊ねていく。
「よ、みさき先輩。また納豆を届けに来たぜ」
「あ、浩平君。待ってたんだよ」
みさき先輩は、俺の声に振り返った。
「ちょっと、話があるんだけど、いい?」
「ここでか?」
「うん」
真面目な顔で頷くみさき先輩。ただし、腕におひつを抱えたままだ。
「澪ちゃんのことだよ」
「……ああ」
俺は、腰を下ろした。
「澪ちゃんと浩平君、何かあったの?」
「どうしてだ?」
「澪ちゃんの様子が変だから」
そう言うと、みさき先輩はくすっと笑った。
「目が見えないと、かえって見えるものって多いんだよ」
「そういうものか」
「うん。そういうものだよ。それでね、今朝の澪ちゃんなんだけど、なんだかとっても沈んじゃっててね。いつもの澪ちゃんらしくなかったんだよ」
みさき先輩は、静かに言った。
「私、食べながら色々考えたんだけど、やっぱり浩平君と何かあったんだとしか思えなかったんだよ」
「……そっか」
俺がそう呟くと、みさき先輩は、俺の顔を覗き込んだ。
「浩平君も、辛そうだね」
「そ、そんなことは……」
「あるよ」
きっぱりと断定される。
「……ごめんな、先輩。俺、もう戻るよ。ここに納豆、置いておくからさ」
これ以上、先輩と一緒にいるのが、耐えられなかった。
「浩平君……」
「ごめん」
それだけ言い残して、俺は立ち上がった。
「浩平、なにかあったの?」
自分の席に戻ってくると、七瀬が心配そうに俺に尋ねた。
「……別に」
「……そう」
「それより、長森。今日の予定は?」
「別にないよ。のんびり温泉に浸かってようかなって」
「そっか」
ずずーっと味噌汁を飲み干すと、俺は立ち上がった。
「先に部屋に戻ってるぜ」
「えっ、あ、うん……」
気遣わしげに俺を見る七瀬。でも、その視線さえも、なんだかうっとおしく感じられた。
……最低だな。
俺はそのまま、大広間を出た。すたすたと廊下を歩き、角を曲がったところで、声をかけられる。
「浩平」
「……茜?」
茜は、俺に言った。
「少し、歩きませんか?」
「……ああ」
みさき先輩や、七瀬に心配してもらえるのは、ありがたかったけど、その反面うっとおしかったから、俺は茜の誘いを受けることにした。
「で、どこに行くんだ?」
「……滝です」
「昨日の?」
「はい」
茜は頷いた。
「オッケイ。それじゃ、ちょっと着替えてくるから、ロビーで落ち合おうぜ」
「……わかりました」
その返事を確認して、俺は部屋に戻った。
まだ、長森も七瀬も戻ってきていない。
俺はシャツを着替え、ジャケットを羽織った。それから、ちょっと考えて、書き置きを残しておくことにする。
『ちょっと出かけてくる 浩平』
いい天気だ。
木々の梢の間から、時折漏れてくる陽光と、樹の香り。どこからともなく聞こえてくる鳥の囀り。
俺は、茜と並んで、川沿いの小径を歩いていた。
もちろん、町中の遊歩道なんかと違って、舗装もされてない、曲がりくねった道だ。
「なぁ、茜」
はい? というように、茜は視線だけちらっとこっちに向けた。
「ここには、来たことあるのか?」
「……はい」
それだけ答え、また前に向き直る。
「何回か」
「柚木と、か?」
「詩子と……もう一人と」
「え?」
「……」
それっきり、黙り込む茜。俺も、かける言葉もなく、そのまま黙って歩く。
不意に、茜は独り言のように呟いた。
「何も……変わらないのに……」
「えっ?」
聞き返したが、それっきりだった。
俺と茜の足音だけが、俺達の立てる物音だった。
やがて、滝の音が聞こえ始める。
俺達は、休憩所に着いた。滝は、相変わらず豪快に流れ落ちている。
「昨日はろくに見てなかったけど、やっぱでけぇなぁ」
「……」
茜は、滝をじっと見上げていた。
「……なぁ、茜」
俺は、休憩所のベンチに腰かけると、訊ねた。
「柚木から聞いたんだけどよ、お前……」
「私、幼なじみがいたんです」
唐突に呟く茜。
「……茜?」
幼なじみ……? 柚木のことか?
「詩子と、もう一人……」
「もう一人? で、そいつは……?」
「もう、いません」
そう言って振り返った茜は、泣いているように見えた。
「いないんです……」
深い悲しみを湛えた淵。
あの時の目だ。あの雨の空き地で、じっと佇んでいた、あの時の目……。
そういえば、あの空き地、こないだ通りかかったら、なくなってたな。新しく家が建っていた……。
「私の待つ場所は、もうありません」
俺の考えていることを見通したように、茜は呟いた。
「……茜、あのさ」
「昨日、私たちがここに着いたとき、七瀬さんは泣いていました。長森さんや、深山さん、川名さん……。みんなが、心配していました。私は、悲しかった」
俺の頭に、柚木が昨日言った言葉が甦った。
「うん。普通なら、そんな話を聞くとまずビックリするでしょ? あたしもビックリしたんだけど、茜の顔って、ビックリというよりも、悲しそうだったの。上手く言えないんだけど……、そう、全て知ってて、でもどうすることもできなくて悲しいって顔」
「悲しかったって?」
「私の知っていた人は、私以外には誰も心配してくれる人はいなかった。誰も泣いてくれる人はいなかった」
静かに呟くと、茜は俺に背を向け、滝を見上げた。
「だって、みんな忘れてたから……」
そのとき、俺は理解した。
その幼なじみって奴は、俺と同じだったんだ。俺と同じように、えいえんのせかいに行ったんだ。
そして、俺と違って、帰ってこなかった……。
「……そういうこと、だったのか……」
雨の降る中、待ちつづけていた茜。それは……。
そして、その空き地は、無くなった。
茜は、不意に振り返った。
「昨日、夢を見ました」
「夢?」
「ずっと昔、私と、詩子と、彼の3人で、ここに来た事があったんです。その時の夢を……。ずっと、見ることもなかったのに、その夢を……。だから、私はここに来たんです」
「それに、今朝になったら、雨が降ってるのにいきなり出かけようとしてね。あたしがどこに行くの? って聞いたら、迎えに行ってきます、ってそれだけ言って出かけちゃうし……」
柚木の奴、肝心なところを間違ってたんじゃないか。
悲しかったのは、俺達のことじゃない。迎えに出たのは、俺達のことじゃない。
「……もう、忘れなくちゃいけないって、ことなんですね」
滝壺の手前に張られた手すりを掴んで、茜は静かに呟く。
俺は、訊ねた。
「……どうして、俺にそんな話を……?」
「……」
茜は、振り返った。
「わかりません」
「……」
「ただ……」
それから、滝壺に視線を落とす。
「……似てたんです。浩平は、彼に……」
「……もう、忘れろよ」
そう。俺は、茜に言わなくちゃいけない。
あっちの世界から戻ってきた者として。
「もう、いいよ。そこまで茜を待たせて、戻って来ねぇんだ。そんな薄情な奴のことは、忘れちまえ」
「……」
「茜、お前はふられたんだよ」
ゴォーーーッ
滝の音だけが、聞こえていた。
しばらくして、茜は小さく呟いた。
「……そうですよね」
「ああ」
俺は頷いた。
茜は、顔を上げた。そして、始めて、微かに微笑んだ。
「そうですね」
「というところで、俺なんてどうだ? わりといけると思うぞ」
「……絶対に嫌です」
茜は、なんとなく嬉しそうに、そう言った。