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ONE 〜into the Bright Season〜 Short Story #2
俺と澪のハプニング・ジャーニー その11

「……ふぅ」
 俺は、安堵のため息をついた。
 慌てて崖に駆け寄り、最悪の事態を想像しつつ見下ろした俺にまず見えたのは、澪の小柄な身体だった。
 運良く、崖の途中にある棚にひっかかったようだ。俺は信じたことがない神に感謝した。
 しかし、小さな棚だ。澪が少し身動きすると、すぐに落ちてしまうだろう。どうやら気を失っているらしく、澪が動かないのが今のところは幸いしているが、意識を取り戻したら最後だ。澪の性格からいって、パニックを起こしてじたばた暴れたあげく、ジ・エンドだ。
 棚までの距離を目測する。……約3メートルってところか。
 俺は覚悟を決めた。崖の縁に手を掛けると、慎重に降りていく。
 崖と言っても、垂直じゃなく、ごくごく僅かにだが、傾斜がついている。それに、自然の崖は結構手がかり足がかりもある。慎重に降りれば降りられなくもない。
 ただ、問題なのは時折下から吹き上げる風だった。風が吹くたびに、俺はその場にしがみつかなければならず、そのためにさらに速度は落ちた。
 それでも、やっとこさ棚の脇まで降りると、俺は足場を確保して、澪の様子を窺った。
 見たところ、大きな外傷はない。膝小僧をちょっとすりむいているくらいのようだ。息もしっかりある。
 俺は、澪の頭をそっと叩いた。
「澪、しっかりしろ、澪!」
「……」
 ぱちっと目を開けると、澪はきょとんと俺を見た。それから、辺りを見回し、状況を確認すると……、
 予想通りパニクった。
 俺は慌ててその腕を掴んで、大声で叫んだ。
「リボン取るぞっ!!」
 ピタリと動かなくなると、澪はあう〜、と涙目で俺をじっと見た。
「落ちついたか?」
 こくり
「よし、それじゃゆっくりと俺の背中におぶされ。下は見るなよ」
 こくこく
 うなずくと、澪はゆっくりと俺の肩に手を掛けた。そして……
 棚が崩れた。

 ガラガラッ
 ザザーッ
 岩と砂が、谷底に向かって落ちていく。
 俺は、間一髪俺の背中にしがみついた澪に話しかけた。
「よーし。それじゃしっかり掴まってろよ」
 こくこく、と澪がうなずく気配がした。
 俺は、今度は登り始めた。
 澪が小柄で体重も軽かったのが幸いした。七瀬や長森だと、支え切れたかどうか怪しいもんだ。
 それでも、かなり時間がかかったが、俺は澪を背中に掴まらせたまま、崖の上に登り切った。
「ふぅ」
 その場に座り込み、額の汗を拭う俺に、澪が抱きついてきた。ぎゅっと抱きついたまま、目を固く閉じて震えている。
 俺は、その頭を撫でてやった。
「もう、大丈夫だ。安心しろって」
 澪は、こくこくとうなずきながら、ずっとそのまま、俺に抱きついていた。

 しばらくして、やっと落ちついたらしく、澪は俺から身体を起こした。それから、きょろきょろと辺りを見回し、あれ? という表情を浮かべる。
「どうした?」
 俺が訊ねると、何かあうあうと言った後で、崖に向かって駆け出す。俺は慌ててその手を掴んだ。
「こらっ、また落ちるぞ」
 でもでも、という顔で、俺と崖を見比べる澪。それから崖の方を指さして何か身ぶりを始める。
「崖に?」
 うんうん
「ない?」
 うんうん
「ブロック」
 ふるふる
「ああ、スケッチブックか」
 うんうん
 そう言われてみると、スケッチブックがない。そっか、さっき崖の下に落としたんだな。
 俺は、崖の縁に慎重に近づくと、腹這いになって見下ろした。
 あった! 澪が引っかかっていた棚よりは、随分下だが、崖の途中に生えている灌木に、見慣れた緑色のスケッチブックが引っかかっている。
 俺と同じ格好をして下を見ていた澪が、悲しそうに俺を見た。
 ……そう言えば、澪はいつもあのスケッチブックを持ち歩いてるよな。きっと、大切なもんなんだろうな。
 俺は、崖をながめた。……いけるか。
「よし、澪はここで待ってな。取ってきてやる」
 俺が言うと、澪は慌ててふるふると首を振った。俺はその澪の頭に手を置いた。
「心配するなって。んじゃ、行って来るぜ」
 あうあう、と何か言いかけ、澪は地面に指で字を書いた。
 『あぶないの』
「大丈夫だって。じゃ」
 そう言って、俺は崖の縁に手をかけ、再び身体を降ろした。
 ゆっくりと身体を降ろしていく。さっき一度やったから、要領は同じだ。
 そのままどんどん降りていくと、思ったよりも楽に灌木のところまで辿り着いた。
 それで、油断していたんだろう。
 俺は、灌木を右手で掴み、左手をスケッチブックに伸ばした。
 もう少しで、届く。あと、5センチ、3センチ、1センチ……。届いた!
 スケッチブックを掴んだ、その時、不意に灌木が折れた。足が崖から離れ、ふわりと浮遊感。
 そして……。

 えぐっ
 泣き声が聞こえる。
 七瀬か……?
 いや、違う。
 長森……?
 それとも違うな。
 静かだ。
 えいえんのせかい。
 ……冗談じゃねぇ! 俺はあそこにはもう行かねぇ。あの世界は、もう終わったんだ!

 パチッ
 俺は目を見開いていた。
 まず目に入ったのは、真っ青な空。そして、泣きながら俺を見ている、青いショートカットの少女。
「み……お」
 呟いた。
 澪は、ぱっと表情を明るくした。
「俺は……生きてるのか?」
 うんうん
 澪はうなずくと、目を袖でぐしぐしと拭った。
 俺は、身体を起こした。その途端に、体中が一斉に悲鳴をあげる。
「つつっ……」
 思わずうめき声を上げると、澪は慌てて俺の頭を掴んで、そのまま押し倒した。
 ガコンと地面にぶつけられた、と思いきや、俺の後頭部は柔らかいものの上に納まった。
 澪のひざまくらだ。そう理解して、俺はせっかくだからそのまま力を抜いた。
 そうして、改めてまわりを見回す。
 左右に切り立った崖、そして目の前を流れる川。それに挟まれた、猫の額ほどの川岸に、俺達はいた。
 どうやら、ここはえいえんのせかいじゃないようだ。そう思うと、身体中の痛みさえも愛おしく……なるかよ。
 痛いものはどうやっても痛いんだ。
 そういえば、スケッチブックはどうした?
 俺は、すこし離れたところに緑の表紙のスケッチブックが転がっているのを見て、ほっと一息ついた。
「よかったな、澪。スケッチブックは無事だぞ」
 そう言うと、澪はいきなり俺の頭をぽかぽか叩き始めた。
「痛っ、痛いって、み……」
 思わず、言葉が途切れる。
 澪は、俺をぽかぽかと叩きながら泣いていた。
 よく見ると、服は砂埃まみれになっているし、ところどころ破けているところもある。握りしめた手のひらからは、一筋血が流れている。
 俺を追って、崖を降りてきたんだな、こいつは……。
 それが、どれほど大変なことだったか。
 俺は、上体を起こした。体中がきしんだが、そんなことは構わず、そのまま澪を抱きしめる。
「ごめん、澪」
 それでも、俺をぽかぽか叩いていた澪の手が、ゆっくりになり、そして止まった。
 代わりに、澪はしゃくりあげた。瞳から、涙がこぼれ落ちる。
 そんな澪を、俺はそれ以上何も言わずに、ただ、抱きしめていた。

「さて、どうしよう?」
「……」
 ようやく身体を起こし、軽く体操して、骨が折れたりしてないことを確認した上で(どうやら打ち身だけで済んだらしい。俺も頑丈なもんだ)、俺は崖を見上げた。
 スケッチブックは回収したものの、サインペンはどこを探しても見つからなかったので、澪は地面に指で文字を書いた。
 『あがるの』
「澪がか? 無理はするなって」
 俺が言うと、澪はぷくーっと膨れた。
 もっとも、俺も、この崖をよじ上るには、体調が悪すぎる。
「こうなったら、川に沿って下るか」
 川下の方を見ながら俺は言った。石の上を飛び移りながらなら、なんとか行けそうだった。
 『みんなが心配するの』
「しょうがねぇよ。ここまで捜しに来るまで待ってると、日が暮れるかも知れねぇしな」
 俺は時計を見た。午後3時。集合時間はとっくに過ぎている。
「それとも、澪、一人でここに残るか?」
 俺が訊ねると、澪はぶんぶんと首を振り、俺にしがみついた。
「冗談だって。置いていくわけないだろ?」
 笑って言うと、澪はまたぷくーっと膨れた。
 おっと、澪をからかってても進展しないな。
 俺は、ゆっくりと歩き出した。
 後ろから、ちょこちょこと澪がついてくる。
 あ、そうだった。
 立ち止まると、俺は振り返った。
「澪、怪我してるだろ? 見せてみろ」
 澪はふるふると首を振った。大したことないって言いたいのか?
「駄目だ。見せろ」
 あう〜、という顔で俺を見るが、しばらくためらった後、おずおずと手を開く。
 俺はその手を掴むと、川岸まで引っ張っていき、洗う。
 染みるのか、ぎゅっと目を閉じる澪。
 砂や汚れを洗ってから、俺はポケットを探った。
 よし、ちゃんとハンカチが入ってる。長森のやつがいつも勝手に俺のポケットに押し込んでるんだが、今日は素直に感謝だ。
 俺はそのハンカチも川の水で洗ってから、固く絞って水をきって、澪の手に巻きつけた。
 うーん。どうもうまく縛れないなぁ。
「へへ、悪い。うまく結べなくて」
 俺が苦笑しながら謝ると、澪はぶんぶんと首を振って、ハンカチを巻いた手を胸に抱いた。
「んじゃ、行くか?」
 うんっ。
 俺達は、川沿いを歩き出した。

 午後6時。
 山の間にあるこの谷は、周りよりも早く暗くなってくる。
「……これ以上は、危ねぇな」
 俺は、段々薄暗くなりはじめた川面を見つめて呟いた。まだ見えなくなるほど暗くはないにしても、よく見えない岩で苔に足を滑らせて、なんてことになっちゃシャレにならん。
 振り返る。
「澪、大丈夫か?」
 うんうん、と建気にうなずいてはみせるが、すっかり息が上がっている。かなり疲れているようだった。
 俺は、川の左右を見た。……ちょうど、右の岸から上がれば、森の中に入れそうだな。
「よし、あそこに入るぞ」
 俺は、岩の上を歩きはじめた。

 森の中に入ると、川のせせらぎが聞こえる辺りで足を止める。
 ちょうど、大きな木があったので、その木の根元で座り込む。
 澪は、ちょこんと俺の隣に座ると、俺の右腕をぎゅっと抱え込んだ。
 きっと、怖いんだろうなぁ。元々澪は怖がりなところがあるうえに、ここは山の中。何が出るか判らない。
 俺だって正直怖かったが、澪にこうまで頼られちゃ、怖がってなんていられない。
「大丈夫。俺がいるから」
 こくこく、とうなずくと、澪は俺を見上げて、引きつった笑みを浮かべた。
 俺は、その震える肩を抱いた。澪の小柄な身体は、すっぽりと俺の腕の中に納まる。
 そのまま、澪は俺の胸に頭を当てた。
「とりあえず、今日はゆっくりと休めよ」
 こくん、とうなずくと、澪は俺を見上げた。指で地面に文字を書く。
 暗くなりかけていたが、なんとか読めた。
 『おはなししてほしいの』
「話か? それじゃ、そうだなぁ……。“悪の十字架”っていう話を……」
 ブルンブルン
 思いっ切り首を振る澪。
「それじゃ、“青い血”……」
 ブルンブルン
 さらに首を振ると、澪はうーっという顔で俺を睨んだ。俺は苦笑して澪の頭を撫でた。
「悪かった、悪かった。それじゃ……」
 ちょっと考えて、長森の猫の話をしてやることにした。これなら澪もオッケイだろう。

「……というわけで、そいつの名前を俺が付けることになって……」
 話している途中で、はたと気付いてみると、澪はいつしかすーすーと寝息を立てていた。
「……これじゃ、俺が馬鹿みたいじゃないか」
 俺は苦笑して、澪の頬を撫でた。そして、木の幹に背中を預けて、空を見上げた。
 いつしか、木々の梢の間から見える空には、星が光っていた。
「……七瀬、ごめんな。心配かけて。でも、すぐに帰るよ」
 その星に向かって話しかけてから、俺は目を閉じた。

To be continued...

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