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ONE 〜into the Bright Season〜 Short Story #2
俺と七瀬のハプニング・ジャーニー その8

 とりあえず、先に俺が湯の中に入った。じゃぶじゃぶと奥に進んでから、身を沈めて振り返る。
「よし、いいぞ〜」
「そっ、それじゃっ、入るねっ」
 上擦った声で長森は言うと、俺の方を伺う。
「お、おう」
 俺は悠然と答えた。……つもりだったんだが、声が全然悠然じゃねぇじゃないか。
 チャプン
 長森が、つま先をお湯につけた。そのまま動きを止めて、俺の方に顔を向ける。
「ね、ねぇ、やっぱりよそっ」
「なんでだよ?」
「だって、変だよ、こんなのって。だって、わたしだよっ、わたしっ。浩平わたしなんかとお風呂入っていいのっ?」
 俺は苦笑した。
「蒸し返すなって。別に俺はおまえの意外と豊満な裸体をゆっくりと鑑賞しようと考えていないこともない」
「はう〜。やっぱり入るのやめるよ〜。……くしゅん」
 身を翻しかけて、またくしゃみをする長森。
「冗談だっつーの。さっさと入らないと風邪引くぞ」
「む〜〜〜っ」
 しばらく悩んでから、長森は俺に言った。
「こっち見ないでよ〜」
「そりゃ無理だ。俺の視線は俺自身にも制御出来ない」
「そんなの無茶だよ〜、くしゅん」
 またくしゃみをして、長森はあきらめたようにまたつま先を湯につけた。
 チャプン
「ほれ、一気、一気、一気!」
「はう〜」
 半泣きになりながら、長森はお湯につかった。

 チャプチャプ
「ふぅ。あったかいねぇ〜」
 今までの狼狽えようが嘘のように、長森は目を細くしてお湯につかっている。
 バスタオルはしっかり身体に巻いたままだ。ボディラインはそこそこ見えるが……つまらん。
「長森」
「ん? 何?」
「タオルをお湯につけたらいけないんだぞ」
 俺は、ずばりと指摘した。
「え〜。で、でもぉ〜」
 またうろたえる長森。
「取ったら見られちゃうんだもん。だからやだ」
 そう言うと、長森はぷいっとそっぽを向いた。
「なんだよ、今更。小さい頃は一緒に風呂に入ってた仲じゃないか」
「嘘だよ〜。わたし、そんな覚えないよ〜」
「いや、俺は覚えてるぞ。おまえさ、おもちゃを持ってでないとお風呂に入らなかったじゃないか」
「そんなことないもん」
「あった」
「ないもん」
「あったって言ってるだろ、ばかっ」
「そんなこと言ったって、覚えてないんだもん。浩平、絶対話作ってるよ〜」
 ムキになって言い返す長森。
 うーむ。確かに長森の方が、一般的な記憶力(たとえば試験の暗記とか)は一日の長があることは、認めざるを得ないのだが。だが、こういう意味のない記憶には俺は自信があるのだ。
「い〜や、俺は覚えているぞ。まだ長森の胸がなくて毛も生えてないような頃だ」
「ばか〜」
 長森は真っ赤になって、お湯の中に沈んだ。
「浩平のH〜」
「男はすべからくそういうものだ」
 きっぱりと言う俺。
「いばる事じゃないよ〜。第一、浩平にはもう七瀬さんがいるんだよ〜。わたしなんて構ってないで、七瀬さんにもっと構ってやりなよ〜」
 半分沈んだままで長森。
 俺は、遠い目で空を見上げた。
「七瀬か……。いい戦友(とも)だった。あいつのことは、俺はきっと忘れない……」
「なに、遠い目してるんだよ〜」
「というわけで、タオルは取れ」
「絶対に、取らないもん!」
 胸元を押さえる長森。
 こうなったら、実力行使しかないか。
 俺は、長森との距離を測った。……目測5メートル。しかも、俺は湯に浸かってる分、機敏な行動はとれない。不利だな……。
 考えてみれば、俺ももう高校を卒業した身だ。いつもいつも実力行使というのも情けないな。頭を使ってみるか。
 うーむ。

 搦め手でいくか?
「なぁ、長森。背中流してやろうか?」
「自分でできるもん」
 三助作戦、失敗。

 肉を切らせて骨を断つ。
「なぁ、俺も見せてやるから」
 ザバーッ
「きゃぁきゃぁきゃぁっ! 浩平のばかぁっ!」
 自爆。

 長森は母性本能が強いからなぁ。
「まま〜。おっぱい飲みたいの〜」
 ……って、そんなこと言えるかっ!!
 実行不可能。

 ことごとく作戦が失敗し、俺は敗北感にさいなまれながら、のんびりと湯につかっていた。
 早朝の爽やかな空気が頭を冷やしてくれるので、のぼせることもなく、温泉を堪能できる。
「でも、ほんとに久しぶりだな〜。こんなにのんびりしてるのって」
 長森も、俺が諦めたと悟ったらしく、安心して岩にもたれ掛かりながら、のぺーっとしている。
「ああ、そうだな……」
「……あのね、浩平」
「ああ」
 空を見上げながら、俺は生返事を返す。
「わたしね、良かったと思ってるんだよ」
「何が?」
「七瀬さんが、浩平と付き合ってくれて」
「……」
「七瀬さん、しっかりしてるし、一生懸命な人だから、浩平もこれで安心だなって」
「……ああ」
「でも……。なんだかそれで安心したら、気が抜けちゃったんだよ」
 パシャ
 微かな水音がした。
「なんていうのかな……。育ててた野良猫が、帰ってこなくなっちゃったときみたいな」
「ひでぇな。俺は野良猫か」
「恩知らずなところはそっくりだよ〜」
 少し笑ってから、長森は話を続けた。
「初めて逢ったときのこと、覚えてる?」
「ああ。お前が俺に石をぶつけたときのことか」

 みさおを失って、母さんも失って、全てを失った俺が、由起子さんに預けられてしばらくした頃だった。
 毎日泣いていた。このまま、永遠に泣いて暮らすんだ。そう信じていた。
 そんなある日。
 窓にコツンと、何かが当たる音がした。しばらくして、またコツンと。
 無視を続けていた。単なるイタズラだ。すぐに終わるだろう。
 でも、それはひたすら続いた。
 いい加減にうっとおしくなって、窓を開けたその瞬間だった。みけんに、石が激突した。

「あの時は死ぬかと思ったぞ」
「ごめんね。でも、ぶつけるつもりはなかったんだよ〜。遊ぼうと思っただけなんだよ〜」
「知るもんか」
 俺は、この際なので、積年の疑問をぶつけてみることにした。
「だいたい、長森、どうして俺なんかと遊ぼうと思ったんだ?」
「うん……。どうしてだったんだろ?」
「それに、だ。それから後も、俺は随分おまえのこといじめただろ? なのに、どうして俺にずっと……」
 長森は、少し黙った。
 ピチョン
 雫が、湯面に落ちて跳ねた。
「多分……。わたしね、浩平のことが好きだったんだよ」
「……なにぃっ?」
 俺は、驚いて長森の方を見た。
 長森は赤くなって俯いていた。それから、顔を上げて、照れたように笑った。
「あはっ。わたし、のぼせちゃったみたい。変なこと言っちゃったね。忘れて、浩平」
「長森、おまえ……」
「忘れてって」
 珍しく、強い調子の言葉。
「……ごめんなさい。言うつもり、なかったのに……」
「……わかった」
 俺は、うなずいた。
「忘れる。金輪際忘れる。だから、タオル取れ」
「それは、話が違うよ〜」
 長森は、困ったように笑った。
「もう、浩平ったら、むちゃくちゃだよ〜。そんなこと出来るわけないもんっ」
 どうやら、いつものだよもん星人に戻ったようだな。
 ……しかし、昨日のみさき先輩といい、今の長森といい……。つくづく、自分の鈍さには呆れ返るしかないなぁ。
 一歩違っていれば、俺は七瀬じゃなくて、こいつやみさき先輩と……。
 その時も、戻ってこられたかな?
 ……やめやめ。考えたってはじまらん。
 俺は、お湯をすくって、ばしゃばしゃと顔を洗った。それから、立ち上がる。
「そろそろ、上がるか。長森」
「うん……って、浩平っ、見えてるよっ!」
 つられて立ち上がりかけた長森が、慌てて顔を手で覆ってしゃがみ込んだ。
「しょうがねぇだろ? タオルなんてないんだから。長森、貸してくれるか?」
「やだもん。早く行ってよ〜」
「へいへい」
 俺は、お湯をざばざばとかき分けて、湯舟を出た。そこに置いてあったタオルを、とりあえず腰に巻く。
「よし、もう大丈夫だぞ、長森」
「ほんと?」
 長森は、手で顔を覆ったまま、こっちを見た。それから、安心したように手を外す。
「あっ、長森! おまえ、指の隙間からずっと見てただろっ!」
「そっ、そんなことしてないもん! 全然見てないもん!」
「慌てるところが怪しい」
「ばか〜っ」

 ささっと身体を拭いて、浴衣を羽織ると、俺は脱衣場から出た。壁に寄りかかって歌をくちずさむ。
「♪一緒に出ようねっていったのに〜
  いつもわたしがま〜た〜された〜」
 カラカラカラッ
「いつも待たせてなんてないもん」
 口をとがらせながら、長森が出てきた。
「単なる歌だ」
「待たせてないもん」
 じーっと俺を見る長森。
「わかった、わかった。いい加減戻らないと、七瀬がピンチだからな」
「えっ? でも、七瀬さん、髪をおさげにしてないから、繭もじゃれつかないよ?」
 俺は肩をすくめた。
「ま、行ってみればわかるさ」

 俺達の部屋の近くまで来たところで、思った通りの声が聞こえてきた。
「みゅーーーーっ、みゅーーーーーーーっ!!」
 思わず足を止める長森。
「繭!?」
「やっぱり」
 俺が呟くと同時に駆け出す長森。
 ドアを開けると同時に、より鮮明に、聞き慣れた椎名の声が聞こえてくる。
「みゅーーーーっ、みゅーーーーーーーっ!!」
 それに混じって、疲労困憊した七瀬の声。
「あうーーっ、もうどうすればいいのよぉ。あっ、瑞佳!」
「ごめん、七瀬さんっ! 繭っ、大丈夫だよっ!」
「みゅ〜……」
 どうやら、嵐は収まったようだ。
 俺は部屋に顔を出した。そこは、戦場だった。椎名が暴れたらしく、布団がグチャグチャになっている。窓やふすまが破られなかったのはもっけの幸いだな。
「ダニー、グレッグ、生きてるかぁ?」
「わたし、ダニーじゃないもん」
「誰がグレッグだぁっ! アホっ!」
 どうやら、二人とも自分の名前を認識しているらしい。
「浩平も瑞佳もどこに行ってたのよ〜っ。もう繭が泣きわめいて大変だったのよ〜」
 七瀬が憤然として俺達に言った。俺はちっちっと指を振った。
「七瀬」
「な、なによ」
「泣く子をあやすのは乙女の基本技だぞっ」
「なっ、なんですってぇ!!」
 思わず仰け反る七瀬。俺はぴっと長森を指した。
「見ろっ! 椎名はもう泣きやんでるぞ」
「みゅー♪」
 長森に抱かれてなんだかご機嫌な椎名を見て、七瀬はがっくりと肩を落とした。
「ひん……」
 そのまま、悄然と部屋を出ていく七瀬。ドアのところで、くるっと振り返ると、寂しげに微笑む。
「ごめん、浩平。あたし、乙女になれなかったよ」
「七瀬……」
「さよならっ!」
 そのまま、だだっと飛び出していく七瀬。
「……浩平、追いかけなくてもいいの?」
 長森が、ドアと俺を見較べながら言った。俺は、もう一度そそくさと布団にもぐり込みながら言った。
「すぐに戻って来るって」
 ガチャッ
 言い終わらないうちに、ドアが開いた。
「浩平っ! どうして追いかけて来てくれないのよっ!」
「お休み」
「寝るな〜っ!!」

 どうやら、今日も退屈はしない一日になりそうだ。
 七瀬に蹴り起こされながら、俺はそう思った。

To be continued...

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