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澪に鍋の湯をぶっかけられた俺は、とるものもとりあえず、一度部屋に戻って着替えてから、大広間に戻ってきた。
To be continued...
大広間では、演劇部員達が、仲良くしゃべりながら食事に興じている。その向こうでは……、
「寂しいよぉ〜」
……みさき先輩が一人で隔離されていた。
俺は、近くにいた深山先輩に言った。
「深山先輩、みさき先輩泣いてますよ」
「いいのよ。だって、みさきと同じテーブルにいたら、食べるもの無くなっちゃうもの」
みさき先輩とは幼なじみという深山先輩はにべもない。ま、そうかもしれない。
みさき先輩は、あの細い身体からは信じられないほど食べるのである。俺は以前学食で……。いや、この話はやめよう。
と、澪がとてとてっと駆け寄ってくると、すまなさそうにぺこぺこと頭を下げた。
さっき鍋の湯を俺にぶっかけたことを、まだ謝っているようだ。
「いいって、もう気にしてねぇから」
俺がそう言って頭を撫でると、やっと安心したように笑顔を見せる。
そういえば……。
俺は不意に思い出して、撫でている手を止めると、頭のリボンを引っ張ってみた。
澪は慌てて頭を振って俺の手をとめようとする。やっぱり、リボンを取られるのは嫌らしい。
なおも引っ張ってると、とうとう泣きそうになりながら俺の手をぱしぱしと叩き始めた。
「浩平、駄目だよ〜、女の子いじめたら」
どこからともなく、だよもん星人が湧いて出てきた。俺の手を掴んでどけると、澪に優しく言葉を掛けている。
「大丈夫だよ。浩平、意地悪だけど、面白がってるだけなんだから」
澪は、あう〜っという顔で俺を睨んでいる。長森は、俺が引っ張ったせいで歪んでしまったリボンをちょいちょいと引っ張って直すと、にこっと笑った。
「ほら、直ったよ」
相変わらずの世話好きな奴である。
澪は、長森にぺこっと頭を下げた。長森は苦笑した。
「いいのいいの。えっと……。ごめん、名前、なんていうの?」
こくんとうなずくと、澪はスケッチブックを広げた。例の一番最初のページだ。
『上月 澪』
「うえつきみお?」
あう〜、と肩を落とすと、澪は次のページをめくる。
『こうづき みお』
「ふぅん。でも、どうしてわざわざ書くの?」
あ、そうか。長森と澪は初対面なのか。
俺は長森に耳打ちした。
「ばかっ。澪はしゃべれねぇんだよ」
「えっ!? ええっ!? ほ、ほんとに?」
びっくりして俺と澪を見比べ、それから澪の手にしているスケッチブックの用途に気付いたようで、長森はがくっと肩を落として澪に頭を下げた。
「ごめんなさいっ! わたしっ、全然気が付かなくてっ」
きょとんとしている澪。ま、澪にしてみりゃ、いきなりだよもん星人に頭を下げられても、わけがわからないだろうな。
そんな澪に、何故かますます慌てている長森。
「あっ、ごめんっ。わたしは浩平の友達で、長森瑞佳っていうんだよ〜」
うんうんとうなずくと、澪はスケッチブックを開いた。サインペンで何か書くと、長森に広げてみせる。
『よろしくなの』
「うん、よろしくねっ」
やっと、ほっとした顔を見せて、長森は澪の頭を撫でた。澪は笑顔でうんうんとうなずいている。
あ、もしかして。
「長森、お前もしかして、みさき先輩のことも知らないんじゃないのか?」
「えっ?」
「ほら、あそこで泣きながら4舟目の刺身に手をつけてる先輩だ」
俺は指さして、それから訂正した。
「違うな。あれは5舟目だ」
「知らないよ。さっきから、なんで一人にされてるんだろうって思ってたけど……」
「俺達の上の学年に、まったく目が見えない先輩がいるっていってたろ? それがあのみさき先輩だ」
「ええっ!?」
またびっくりしている長森。
「全然気が付かなかったよ。だって、全然普通なんだもん」
「まぁな」
俺も苦笑した。みさき先輩は、よほど気を付けてみてないと、よくいるそそっかしいけど明るい人にしかみえないからな。
盲目というハンディを背負っているのに、そうにしか見えないみさき先輩って、やっぱりすごいよな。とてもかなわないと思う。
それは、澪もそうだ。言葉を失いながらも、明るさと一生懸命さを失わなかった澪。小さな身体で、精一杯生きることの大事さを、俺に教えてくれた……。
「ど、どうしよう?」
おろおろした長森の声で、俺は現実に戻った。
「普通にしてろよ。特別扱いされるのを一番嫌うからな、みさき先輩は」
そう。初めて逢ったとき、みさき先輩は、どう接していいのかわからずに戸惑う俺に向かって、ちょっと寂しそうに言ったんだ。「普通でいいと思うよ」って。
あれから、俺はみさき先輩にしろ、澪にしろ、普通に接しているつもりだ。
と、澪が俺の腕をくいくいと引っ張った。
「ん? なんだ、澪?」
澪は、あのねあのね、と、にこにこしながらスケッチブックを広げた。
『みさき先輩と食べるの』
「そっか。よし、行こうぜ。長森も来い」
「えっ? ええっ?」
俺は長森の腕を引っ張って、みさき先輩のところに向かった。後ろから澪が、スケッチブックを抱えて、ちょこちょこと着いてくる。
「み〜さき先輩っ!」
俺が声を掛けながら、隣に座ると、みさき先輩はうるうるしながらこっちを見た。
「浩平君?」
「ああ。お邪魔していいかな?」
「うんっ! 一人で食べてると寂しかったんだよ〜」
今までの泣きそうな顔はどこへやら、見るからに楽しそうな顔になると、先輩は机の方を指した。
「浩平君も食べていいよ〜」
「……ああ、ありがと」
俺は、空になった皿の並ぶ机を見回して、うなずいた。それまで先輩が平らげた皿の数を数えただけで、食欲はどこかに吹っ飛んでいってしまいそうだ。
おっと、紹介しなけりゃな。
俺は長森を座らせて、言った。
「紹介するぜ、先輩。俺の戦友のダニーだ」
「そっ、そんな名前じゃないもん!」
慌てて俺にくってかかるダニー長森。
みさき先輩は、小首を傾げた。
「浩平君の幼なじみって、外国人なの?」
「違うよ〜! もう、浩平むちゃくちゃだよ〜。あ、わたし、長森瑞佳ですっ。浩平がいつもお世話になってますっ」
俺に反論しかけて、途中で紹介しかけだったことを思い出した長森は、慌ててみさき先輩に頭を下げた。
みさき先輩は、にこにこしながら言った。
「私は川名みさきだよ。えっと、瑞佳ちゃん、でいい?」
「ええ、それでかまいませんっ」
なんだか、緊張している長森だった。
と、澪が俺の袖をくいくいっと引っ張った。
「ん? なんだ、澪?」
澪はスケッチブックを広げた。
『おはなしするの』
「なんだ、澪も言いたいことがあるのか?」
俺が訊ねると、澪はうんうんとうなずいた。それからページをめくって、サインペンで書く。
『あのね』
「ああ」
『あえてうれしいの』
「そっか。俺もだ」
そう言って、頭を撫でてやると、澪は嬉しそうにうんうんとうなずいた。
「……寂しいよ〜」
横で、みさき先輩が拗ねていた。
「おっと、悪い悪い。ほれ、だよもん星人、なんかフォローしろ」
「また言う〜。わたし、そんなにだよももんも言ってないもん。浩平こそばかばか言うからばかばか星人だもん!」
……そこで、なぜみさき先輩や澪までうなずく? しかも深々と。
「ばかっ! それじゃ俺が年がら年中ばかばか言ってるみたいじゃないか、このばか。なぁ、澪もそう思うだろ?」
「そんなことないもん。ね、澪ちゃん」
俺と長森に同時に聞かれて、澪はあう〜っと困った顔をして二人を見比べていた。
俺はみさき先輩の方に向き直った。
「みさき先輩はどう思う?」
「うん。とっても美味しいよ〜」
「は?」
「えっ? あれ? お刺身の話じゃないの?」
そう言いながら、空っぽになった7隻目の舟を脇に押しやるみさき先輩。……やっぱり勇者だ。
しばらく4人で、(ちょっと奇妙な)おしゃべりを楽しんでいたのだが、何故か話が俺の小さな頃の話になっていったので、俺はそこから抜け出して、元の席に戻っていった。
そこには七瀬の姿はなく、カニを前にしている椎名がいた。
「おっ、椎名、元気かっ?」
声を掛けると、椎名は振り向いた。
「うぐっ」
な、なんだっ? 椎名が泣きそうな顔をしてるぞっ。
俺は、また泣き叫ぶかと身構えたが、どうやらそれはこらえたようだ。うむ、成長のあとが見られるな。
改めて見てみると、机の上に解体されたカニが散らばっている。……しかし、手足を胴体からちぎっただけで、肝心の殻が全然割られていない。
「なんだ、椎名。カニの食い方知らないのか?」
俺が訊ねると、椎名はこくりとうなずいた。
「それじゃ、ほかのもんでも食べれば……」
「カニ……」
泣きそうな顔で、カニをじっと見つめる椎名。
やれやれ。ま、椎名にカニの食い方は難しいのかもしれん。
「しょうがねぇな。ちょっと待ってな」
俺は、机の上に転がっているカニの足を取り、椎名に見せた。
「いいか? ここと、ここをだな、押さえて、ぐっとひねる!」
パシッ
小気味いい音を立てて、殻にヒビが入る。そのまま左右に開くと、パキッと割れた。
わぁ♪ という顔で、椎名が喜んだ。それから、転がっている足を片っ端から割り始める。
「お、おい、割るのは食う分だけにしろ、食う分だけに」
「全部食べるもん」
「そんなに食えるかっ!」
「う〜っ」
結局、思った通り、椎名が食えたのは、割った数の1割にも充たなかった。ちなみに、残りのカニは、持って帰ると椎名が言いださなかったので、みさき先輩の胃の中に消えることになった。
こうして、楽しい夕食会が終わり、皆それぞれの部屋に引き上げることになった。
「美味しかったね、繭」
「♪」
椎名と長森が、楽しそうに話しながら歩く後ろを、俺はのてのてと歩いていた。
……おや?
「長森、椎名、先に部屋に戻っててくれ」
俺が言うと、長森が振り返る。
「どうしたの? 食べ残した分包んでもらうの?」
「ばかっ。誰がんなことするか。えっとだな、トイレだトイレ」
「そっか。それじゃ先に戻ってるよ。行こ、繭」
長森は、椎名の手を引いて階段を上がっていった。俺は向き直ると、廊下を走りだした。
七瀬は、渡り廊下の欄干に肘をついて、ぼーっと外の風景を眺めていた。
5月といっても、山あいの旅館。夜風は結構冷たい。
「なにやってんだ?」
「……うん」
足音で気付いていたのか、俺が声を掛けても、七瀬は特に驚く様子もなく、姿勢を変えなかった。
俺は隣に立って、七瀬の見ている方を見てみた。
暗闇の中、オレンジ色の光がいくつか見える。多分、露天風呂の灯りだろう。……いうまでもなく、風呂は直接見えないようになってる。ちぇ。
ザワザワッ
夜風が、山の樹を揺らす音が、意外と大きく聞こえる。
「……あのね」
不意に、七瀬が口を開いた。
「ん?」
「あたしって、浩平にとって、結局何なのかな……」
そう呟くと、七瀬は欄干にあごを乗せる。
「やっぱり、あたしはどう頑張っても、瑞佳にはなれないよ……」
「当たり前だろ」
俺は、後ろからそっと、七瀬を抱きしめた。
「こっ、浩平っ!?」
ピクリと身をすくませ、そしてもがく七瀬を、強く抱きしめていると、やがて七瀬が大人しくなる。
その耳に囁いた。
「ばかっ。言ってるだろ? 俺が好きなのは、長森じゃなくて、七瀬だよ」
「浩平……。うん」
七瀬は、目を閉じた。そして、心もち、顔を上げる。その頬が赤く染まっている。
俺は、そのほっぺたをつまんで、ぐに〜っと引っ張ってみた。
「ふぁぁぁ」
「お、結構伸びるな」
バキィッ
「ばかっ。殴るわよっ!」
「殴ってから言うなっ」
「くぅ〜っ」
「ふかーーっ」
少し離れて威嚇しあう、俺と七瀬。
「ぐぅーーー、ぷっ」
「ふぅーーー、くくっ」
そして、同時に笑いだした。
「あはははははっ」
「へへへっ」
山あいに、俺と七瀬の笑い声が流れていった。
七瀬は、サッパリした顔で俺に言った。
「そうだよね。結局、あたし達ってこんなもんよね」
「おう」
俺はうなずいた。
身体を起こして、七瀬は大きく伸びをした。
「さってと。スッキリしたところでお風呂に入るとするわ。せっかく温泉に来たんだもんね」
「そっか。露天風呂だな?」
「覗かないでよっ」
「なんだよ、もうお前の身体で俺が知らない場所はねぇだろ?」
俺が言うと、七瀬はかぁっと真っ赤になって怒鳴った。
「それでも嫌なもんは嫌よっ!」
「わかったわかった。好きなだけつかってこい。じゃあ、俺は部屋に戻るから、ここでお別れだな」
「同じ部屋よっ!」
俺と七瀬は、並んで部屋に向かって駆け出した。