トップページに戻る  目次に戻る  前回に戻る  末尾へ  次回へ続く

Kanon Short Story #16
プールに行こう6 Episode 37

 茂みをかき分けるようにして進んでいくと、唐突にぽっかりと空いた空間に出る。
 そこには、巨大な樹の切り株があった。
「うぐぅ……、いっぱい引っかかれたぁ」
「あゆさん、しっかり〜」
 後ろから情けない声を上げながらあゆ、続いて栞が這い出してきた。
「う〜ん、春になってるのは重々承知してたが、植物が春になると育つというのを忘れていたのは迂闊だったな」
 俺は肩をすくめた。
 そう、冬の間は息を潜めていた木や草が、春になると一斉に緑の葉をつけ、枝を伸ばしていた。となると、冬には見通せたところも、全然見通しが利かなくなっているというわけだ。
 あゆは涙目で立ち上がると、腕を俺に見せる。
「ほら、ここも引っかかれたんだよっ」
「どれどれ?」
 見てみると、言うとおり枝に引っかかれたらしく、長くうっすらとひっかき傷が出来ている。所々、血が赤く滲んでいた。
「これくらいなら舐めてれば治るだろ。なんなら、舐めてやろうか?」
「うぐっ!?」
 かぁっと真っ赤になって、あゆにしては素早くとびすさる。……のは良いが、そのまま仰向けになって転ぶのが実にあゆらしい。
「うぐ〜っ」
「ほら、あゆさん、しっかり」
 栞が助け起こすと、切り株に座らせる。
「すぐに消毒しますから、袖をまくっててくださいね」
 そう言いながら、ポケットからいくつかの薬瓶を出す栞。
「……相変わらずの四次元だな。ところで、栞は怪我してないのか?」
「はい、あゆさんの後ろにいましたから。……少ししみますよ〜」
 栞がしゅっと消毒薬を吹き付けると、あゆは一瞬顔を歪めながらも耐えた。
「うぐ……、しみるよぉ……」
 俺は、とりあえずそこから目を離すと、空を見上げた。
 木々の間にぽっかりと、そこだけ丸く切り取られたように青い空が見える。
 そう。ここが、あの7年前、俺とあゆの学校だった場所だ。

 7年前。母親を亡くして、独り商店街をさまよっていたあゆと出逢った俺は、なんとなく一緒に遊ぶようになった。
 いや、なんとなく、じゃないな。
 あゆをこれ以上、悲しませたくなかったんだ。
 俺もまだガキだったから、大人の詳しいことは判らなかったけど、それでもあゆが笑うと自分も嬉しかったのを憶えてる。
 今にして思えば、あれが俺の初恋……だったんだな。

「うぐぅ、恥ずかしいよぉ……」
「だから、俺の回想まで読むなっ!」
 真っ赤になってうぐうぐと恥ずかしがっているあゆの頭をぽかりと叩いてから、俺は切り株に腰を下ろした。
「あの日だな」
「うん、そうだね……」
「もうっ、2人で意味不明な会話をしないでくださいっ」
 あゆの腕に絆創膏を貼りながら、口を尖らせる栞。
「私はその時はいなかったんですからっ」
「えっとね、一番最後の日のことなんだよ」
 慌ててあゆが、何故か弁解するような口調で答えた。
 首を傾げる栞。
「一番最後の日? それって、あゆさんがここにあった樹から間抜けに落ちた日のことですか?」
「ああ、間抜けに落ちた日のことだ」
「うぐぅ……。どうせボクが間抜けだったんだもん……」
 拗ねて地面をつつき始めるあゆ。
 まぁ、こうして冗談に紛らわせることができるようになったのは、いいことなんだよな。
 それはおいといて、だ。
「祐一さん、もしかして、あゆさんが事故に遭ってから後の記憶がないんですか?」
「なにっ? 栞もまさか、俺の考えが読めるのか?」
「まさか、そんな人外な真似は出来ませんよっ」
「うぐぅ……。どうせボク人外だもん……。ありさんありさん」
 あゆがますます落ち込んで、地面を歩く蟻に話しかけはじめたのだが、それもとりあえずおいておく。
「そう言われてみれば……そうなんだよな」
 俺は腕組みして呟く。
「あゆが落ちて、用意してたプレゼントも渡せなくなって……。でも、その時の俺の心は、それに耐えられなかった。だから、自分で自分に都合のいい幻を作って、その中に逃げ込んだんだ」
「その話は前にも聞きましたけど、それじゃ現実の祐一さんはどうしてたんですか?」
「ああ。それなんだよなぁ……」
 俺はため息をついた。
「気が付いたら家にいたような……。いや、違うな。誰かに家に連れて帰られたんだっけ? あれ? そうじゃなかったっけ?」
「私に聞かれても困ります」
 言葉通りに困った顔をする栞。
 俺も困って額を抑えた。
「うーん。なんか記憶がほんとに錯綜してるな……。ぼんやりと場面々々は出てくるんだけど……」
「どんな場面ですか?」
「ええっと……、そう、雪だ」
「冬だったら、どこでも雪が積もってたんじゃないですか?」
「そうだよなぁ……。いや」
 俺は首を振った。そして空を見上げる。
「……こんなに明るくなかったな」
「暗かったんですか?」
「ああ……。でも、ダメだ、それ以上は……思い出せない」
 切り株を、思わず拳で叩く。
「なんで、出てこないんだ? ここまで出てきてるのに……」
「祐一くん……。ごめん、ボクのせいだね……」
 その声に、俺は我に返った。そして手を伸ばして、俺の前に立っていたあゆの頭に乗せる。
「うぐ?」
「あゆのせいじゃないって。でもな……」
 と。不意に茂みががさがさっと揺れた。
「きゃっ! な、なにかいますっ!」
「うぐぅっ!!」
 栞とあゆが同時に俺にしがみつく。……といっても、栞はまだ余裕ありげだったけど。
 と、茂みが割れて、中から見知った顔が現れた。
「あはは〜っ、見つけました〜」
「佐祐理さん? なんでここに?」
「あ、ちょ、ちょっと待って……くださいねっ」
 なぜかそこでもぞもぞしている、佐祐理さん。
「どうしたんだ、佐祐理さん?」
「あ、ええと、スカートが、その引っかかっちゃったみたいで……」
「わかりました。相沢祐一、誠心誠意、すぐにお手伝いいたします」
 ぼこっ
「……祐一は、変態」
 いきなり後頭部に痛撃を食らった。振り返ると、そこには舞が仏頂面で立っていた。
「うわ、舞!? お前どこから来たっ?」
「飛んできた」
「……」
 舞なら、本当に舞空術を身につけているかもしれない。
 と、背後でがさがさっと音がした。振り返ると、佐祐理さんが栞の手を借りて立ち上がるところだった。
「あはは〜っ、ありがとうございました〜」
「いえいえ」
「し、栞! お前、漢の敵2号っ!」
「わ、いきなりひどいですっ」
 ぼかっ
 もう一発後頭部に食らった。しかもさっきよりも強烈だった。
「……祐一は、オタク?」
「……そう聞かれると、なんかすごくむかつくのは気のせいか?」
「それよりも、思い出せましたか?」
 佐祐理さんに聞かれて、俺は首を振った。
「まだだけど、どうして佐祐理さんまでそのことを?」
「あ、はい。祐一さんのお宅に行って、秋子さんに教えてもらいました」
 そういえば、名雪達の部活が終わるくらいに集合って言ってたっけ。舞と佐祐理さんにはその後状況が変わったことを伝えてなかったんだな。
「……正直、すまんかった」
「あはは〜っ、健介の真似ならいいですよ〜っ」
「祐一さん、時事ネタは気を付けないと、すぐにわかんなくなっちゃいますよ」
 佐祐理さんのみならず、栞にまで突っ込まれてしまった。
「まぁ、それはおいといて、だ……。どうして佐祐理さん達がここに?」
「あ、はい。舞が、祐一さんに伝えたいことがあるんだって。ね、舞?」
「……」
 こくり、と頷く舞。
 俺は舞に向き直った。
「なんだ?」
「……私じゃない」
 ぼそっと言う舞。
「逢いたいのは……、“まい”だから……」
「……ああ、そうか」
 その瞳を覗き込むようにして、俺は頷いた。
 “まい”……。それはもう1人の川澄舞。舞の大切な半身。舞の……“ちから”。
「……祐一、手を……」
「ああ」
 頷いて、俺は舞に右手を差し出した。
 舞は、その手を取って、目を閉じた。
 その瞬間。
 俺は、金色の麦畑にいた。

「あははっ」
 笑い声が聞こえて、俺は振り返った。
「よう」
「ようっ」
 俺の言葉を真似てみせると、少女はまた笑った。
 彼女が、“まい”。もう1人の舞。
「俺に用があるってどういうことだい?
「あのね、舞はあなたにお礼がしたいの」
「舞が?」
「うん、あたしも。あたしと舞が仲良くできたのは、あなたのおかげだから」
 “まい”は、笑顔でそう言うと、ぺこりと頭を下げた。
「だから、ありがとう」
「……いや、それは俺の力じゃない。いや、俺だけの力じゃない……」
「うん。だけど、祐一がいなくなったら、この奇跡も終わってしまうから」
「そんなことは、ないだろ……?」
「ううん」
 首を振ると、“まい”は腰に手を当てて、くるっと身体を一回転させた。
「でも、“答え”は、教えてあげないよ。だって、そこまでしてあげるのは、悔しいもん」
「……“まい”は、はっきり言うな」
「うんっ」
 笑顔で頷くと、“まい”はもう一度、身体をくるっと回転させた。
 一瞬で、風景が変わっていた。
 どこかの庭か。
 白い雪の積もったそこに、“まい”がいた。
 そして、その足下には、数え切れないほどの……。
「……雪うさぎ、か?」
「うん」
 “まい”は得意げに言った。
「雪うさぎさん。全部、あたしが作ったの」
「……そうか」
 俺は、そのうちの一つを、手にすくい上げた。
 冷たい感触。
「……これが、“まい”が俺に教えてくれること、か?」
「そうだよ。あたしに出来るのは、ここまで」
「……ありがとう、舞」
 俺の言葉に、“まい”は笑い、そして……。

「……あ」
 俺は目を開けて、周囲が元に戻っているのを確かめた。それから、舞に声を掛けようとして、自分の手に乗っているものに気付く。
 それは、さっき“まい”からもらった雪うさぎ……。
「わ、祐一さん。それって……」
 栞が驚いて声を掛けた。そして覗き込もうとして、俺の腕に手を掛ける。
「あ」
 ベシャッ
 その弾みに、その雪うさぎは俺の手を滑り落ちて、地面に当たって砕けていた。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
 慌てて謝りながら、栞は屈み込んで雪をすくい上げた。
「ごめんなさい、祐一さん。私、そんなつもりじゃ……」
「いや、いいんだ」
 俺は、栞の肩に手を置いた。
「……祐一さん?」
「ありがと、舞」
「……」
 舞は首を振った。それから俺に尋ねる。
「思い出したの?」
「いや、まだ、完全じゃないけど……」
 俺は一つ息を吸った。そして、みんなに言った。
「悪い。ちょっと独りにしてくれないか?」
「でも……」
「栞さん」
 佐祐理さんが、栞に声を掛けた。
「祐一さんの望む通りにしてあげましょう」
「……はい」
 こくりと頷いて、栞はもう一度頭を下げた。
「ごめんなさい、祐一さん」
「気にしてないって」
「……はい」
 頷いて、栞は歩き出した。そしてあゆに声をかける。
「あゆさん、行きましょう」
「うん。祐一くん……、名雪さんを……」
「ああ」
 俺が頷いてみせると、あゆも頷き、そして茂みに入っていった。
「うぐぅっ、また引っかかれたぁっ」
「ほら、あゆさん、しっかり」
「そこ、危ないですよ」
「うぐぅっ!!」
 ……なんとも賑やかである。
 俺は苦笑して、それから舞に視線を向けた。
「舞、悪かったな。雪うさぎを壊しちまって」
「……いい。それで祐一が……嬉しくなるのなら」
 ぶっきらぼうにそう言うと、舞はすたすたと歩いて佐祐理さん達を追いかけていった。
 やがて、静けさが戻ると、俺はもう一度切り株に腰掛けて、目を閉じた。

 雪うさぎ。
 つぶれた雪うさぎ。
 暗い。暗い。真っ暗。
 なぜ真っ暗なんだ?
 それは、俺が……。
 俺が……。

 他のことに、心を向けることが、できなかったから……。
 外からの光を受け止めるだけのことが、できなかったから……。
 だから、真っ暗だった……。
 真っ暗だった……。

Fortsetzung folgt

 トップページに戻る  目次に戻る  前回に戻る  先頭へ  次回へ続く

あとがき

 プールに行こう6 Episode 37 02/1/22 Up

お名前を教えてください

あなたのEメールアドレスを教えてください

採点(10段階評価で、10が最高です) 1 10
よろしければ感想をお願いします

 空欄があれば送信しない
 送信内容のコピーを表示
 内容確認画面を出さないで送信する