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Kanon Short Story #16
プールに行こう6 Episode 3

「しかし、すっかり長居しちまったなぁ」
 茶道部の部室であるところの、校内で唯一の和室から出て、俺は一つ伸びをした。
 最初は、単にあゆをからかいがてら様子を見に来ただけのつもりだったのだが、部長さんが結構面白い人で、雑談しているうちについつい時間を過ごしてしまったのだ。
 残って後かたづけをするという部長さんに礼を言って、あゆと一緒に廊下を歩く。
「祐一くん、まだ部活に入ってないんだよね? 茶道部はどうかな?」
 あゆは俺の顔を覗き込むようにして言った。
「それにしても、部長さんとあゆしか部員が来てなかったようだが、それってどういうことなんだ?」
「うぐぅ……。えーっと、えーっと……」
 明後日の方に視線を逸らすあゆ。
 俺はその頭をがしっと掴んでこっちを向かせた。
「さぁ、はっきり言え」
「あ、あのね……、祐一くん……」
 何故か小声になって、あゆは答えた。
「部員、ボクと部長さんの2人だけなの……」
「……なんだそれ? 2人で部活って成立するのか?」
「確か、最低5人いないと部活動としては成立しなかったんじゃないかと思いますよ」
「なるほど」
 頷いてから、背後からの聞き慣れた声に、俺達は慌てて振り返った。
「佐祐理さんっ!?」
「あはは〜、祐一さんにあゆちゃん、こんにちわです」
 ぺこりと頭を下げるのは、見間違えようもなく佐祐理さん。さすがに制服姿ではなく、私服らしいピンクのワンピースを着ていた。
「どうしたの、一体?」
「ちょっと用事があったんですよ。でも、なんだか妙な感じです」
 佐祐理さんは苦笑した。
「一人だけ私服だと、なんていうか、……そう、いけないことしてるみたいで、ちょっとどきどきします」
「なるほど、そんなもんなのかな」
 何となくわかるような気がするので、俺は頷いた。それから訊ねる。
「それで、その用事ってのは?」
「はい、もうおしまいですから、後は帰るだけなんですよ〜」
「それじゃ、一緒に帰ろうか。方向は一緒なんだし。……っと、舞は?」
「舞なら、校門のところで待ってますよ。学校にはいるのは恥ずかしい、なんて言って」
 くすっと笑って答える佐祐理さん。
 まぁ、舞らしいっていうか。
 校門のところで、真面目な顔で直立不動になって待っている舞を想像して、俺は噴き出しそうになりながら言った。
「じゃ、行こうぜ」

 佐祐理さんは当然ながら「来客」扱いなので、一般生徒の使う昇降口とは入ってきた場所が違う。
 というわけで、俺とあゆは手早く靴を履き替えて、普段生徒は使わない、通称「大人用昇降口」に向かっていた。
 既に、辺りを夕焼けが赤く染める時間。校舎も赤く染まっていた。
 と、途中で不意にあゆが足を止めた。
「どうした、あゆ? トイレか?」
「違うよっ!」
 かぁっと真っ赤になって、あゆはくってかかって来た。
「祐一くんっ、女の子になんてこと言うんだよっ!!」
「……女の子?」
「もういいもんっ」
 ぷいっと拗ねて横を向くあゆ。俺は肩をすくめた。
「ま、それはそれとして、じゃぁ何だ?」
「……えっとね」
 あゆはぐるっと、踵を中心にして身体を一回転させた。そして笑う。
「……学校」
「そりゃそうだ」
「祐一くん、ボクのお願い、覚えてる?」
「……ああ、そっか」
 俺は、頷いて、それから笑った。
「あいにく、あゆのお願いからはかけ離れてるけどな」
「……そうだね」
 あゆも笑顔で頷いた。それから指を折る。
「校則はあるし、制服もあるし、宿題もテストもあるし、休みたくても休めないし、遊びたくても遊べないし……」
「給食にたい焼きは出ないし、暖房はついてるけど机にテレビはついてない」
 俺が後を続ける。
「だけど……」
 あゆは、嬉しそうに、赤く染まった校舎を眺めた。
「祐一くんと一緒に学校に行って、一緒にお勉強して、一緒にお昼食べて、一緒に掃除して、そして一緒に帰れるんだもんね……」
「……そうだな」
 あのとき。
 7年前、大きな樹の枝に座って、寂しそうに夕焼けの街を眺めていた少女は、今、俺の隣で微笑んでいた。
「ありがとう、祐一くん。約束……守ってくれて」
「よせって」
 照れくさくなって、俺は歩き出した。
「ほら、さっさと行くぞ。佐祐理さんが待ってるからなっ」
「わ、待ってよっ、祐一くんっ!」
 あゆは、ばたばたと後を追いかけてきた。

「佐祐理さん、お待たせ。いやぁ、あゆがトイレに行きたいってだだこねるもんで、遅くなって……」
「ボクそんなこと言ってないよっ! 祐一くんの意地悪〜」
「あはは〜。それじゃ行きましょうか。佐祐理は構わないですけど、舞をあんまり待たせちゃったら悪いですから」
 佐祐理さんはそう言って歩き出した。
 俺達は小走りにその隣に並んだ。
「でも……、佐祐理が卒業してまだ1ヶ月なのに、なんだかすごく懐かしいですね〜」
 辺りを見回しながら、しみじみ呟くと、佐祐理さんは俺達に視線を向けた。
「あはっ、そんな顔してますけど、来年は祐一さんやあゆちゃんの番ですよ」
「うぐ……。ボク、変な顔してました?」
 自分の顔を撫でながら聞き返すあゆに、佐祐理さんは笑顔で頷いた。
「はい」
「……そうだなぁ。俺もあゆも卒業だもんな」
「でも、まだ全然実感湧かないよ……」
 あゆが首を傾げる。俺はため息をついた。
「そりゃそうだろ。その前に受験なんてものが控えてるからな」
「うぐっ」
 硬直するあゆ。
「ど、どうしよう祐一くんっ! 受験だよ受験っ! ボク受験初めてだからどうしていいのかわかんないよっ!」
 うむ、そう言われてみれば、あゆは今まで受験なんてしたこと無かったかもしれない。どう見ても小学校でお受験を経験してるようなエリートにも見えないし。
「……うぐぅ、どうせボクは頭良くないよっ」
「いちいち拗ねるなあゆあゆ。そうだな、とりあえず秋子さんに相談してみろ。あの人なら喜んで相談に乗ってくれるぞ」
「……うん、そうだね。そうしてみるよ」
 こくりと頷くあゆ。
 と、その時だった。
「どういうつもりなのっ、名雪!?」
 いきなりグラウンドの方から怒鳴る声が聞こえた。
 びっくりしてそっちを見ると、体操服姿の女の子達が集まっているのが見えた。
 その中に、名雪の姿があるのを見て、俺は2人に言った。
「悪い、ちょっと行って来るから、先に帰ってくれてもいいぞ」
「あはは〜、そんなコトしませんよ。舞と一緒に校門で待ってますね〜」
「うん、ボクも待ってるよ」
「悪いな」
 もう一度言ってから、俺はそっちに駆け寄っていった。

 近づいてみると、名雪ともう一人の女の子が向かい合っていた。
 名雪と同じくポニーテイルに髪をくくっていたので誰かが一瞬判らなかったが、近づいてみると副部長の天沢さんだと判った。
 その天沢さんは、やや口調を落として話を続けた。
「そりゃ確かに運動のテストの点が高かったのは認めるわ。でも練習に一切出てこないっていうのはどういうことなのよ?」
「えっと、それは……」
「やる気がない人がいるだけで、部全体の志気に関わるのよ。ましてやあなたが連れてきた娘でしょ?」
「う、うん、そうだけど……」
 ……何となく、理由は飲み込めた。
 俺はため息をついて、声をかけた。
「よう」
「あっ、祐一っ!」
 困り切っていた名雪が、ぱっと表情を明るくして俺を見る。
 天沢さんはゆっくりと振り返った。そして腕を組む。
「相沢くん。名雪の恋人かも知れないけど、今回は口を挟まないでくれるかしら? これは陸上部のことよ」
「真琴のことなんだろ? だったら、俺にも色々心当たりがあったりなかったりするんでな」
「……どっちなのよ」
 それでも、やや口調が和らげて、天沢さんは肩をすくめた。
「ま、確かに相沢くんは沢渡さんとも親しいし、同じ家に住んでるわけだから」
「ああ。で、真琴のことなんだが……」
 俺は声を潜めた。
「実は、真琴にはヒミツがあるんだ」
「ヒミツ?」
 眉をひそめる天沢さん。
「ゆ、祐一、それは言ったら……」
 慌てて俺の腕を引く名雪。だが、俺はそれを無視して言った。
「あいつは病気だ」
「……は?」
 名雪と天沢さんが、同時に声を上げた。
 俺は慌てて名雪の腕を引っ張って、囁いた。
「いいから、俺に合わせろ」
「えっ? う、うん……」
 頷く名雪を置いて、俺は天沢さんに向き直る。
「何なの、そのヒミツって?」
「ほら、最近聞くようになっただろ? 注意力が散漫だってやつだ」
「……はぁ? だから、何なのよ、それは」
「ええっと、なんてったっけ、あの、ほら、その……」
「注意欠陥多動性障害です」
 不意に静かな声がした。俺は内心でほっと胸をなで下ろして振り返った。
 そこにいたのは、ちょうど帰るところだったのか、鞄を手にした天野だった。
「良いところに来てくれたな、せ……いや、天野」
 “説明おばさん”と言いかけて、ここで機嫌を損ねて帰られてはたまらないので言い直す。
 そんな俺をちらっと見てから、天沢さんに向き直る天野。
「天沢副部長さん、私から説明してもよろしいでしょうか? 真琴のことについては知らないわけではありませんから」
「あなたは……?」
「あ、失礼しました。真琴のクラスメートの天野美汐と申します」
 一礼する天野。
「真琴のことなのですが、彼女は確かに運動能力という点においては、ある意味天才です。ただ、とても落ち着きがなくて集中力に甚だしく欠ける点があります。昔なら、ただ“精神的にたるんでる”の一言で済ませられていたようなことですが、最近の研究では、これは脳に普通の人とは違う点があるからだ、という事が判ってきたのです。そして、今では“注意欠陥多動性障害”、またはADHDという病気の一種として認知されているのです」
 相変わらず静かな声でとうとうと説明する天野。しかし、妙なことに詳しいんだよな、天野は。
「……それで?」
「はい。この場合、叱っても意味がほとんどありません。ガンになった人に「気合いで治せ」と言ってるようなものですから。本人にもどうしようもないことですし、むしろ、叱ることによって却って鬱病や精神性ストレス障害などの心の病まで引き起こしかねません。ですから、対処する方法としては、まず本人のしたいようにさせるのが一番でしょう」
「……でも、それじゃ部として問題があるわよ」
「個人に合った方法で能力を伸ばす、というのが現在の運動部のトレンドでしょう。今更精神論だけでは、選手はついてきませんよ」
 あっさりとそれを斬って捨てる天野。
 天沢さんの眉がぴくりと動く。
「……言ってくれるわね」
「すみません。性分なので」
 軽く頭を下げる天野。
 その天野に、天沢さんは腕組みして訊ねる。
「それじゃ、天野さんは、沢渡さんはどの競技なら能力を発揮できると思う?」
「真琴は短距離選手としては、驚異的な力を発揮できるでしょう。長い時間集中するのは苦手なので、長距離は向きませんし、道具を使ったり細かいルールがあるような競技も向かないと思います」
 よどみなく答える天野。
 天沢さんは、軽く頷いた。
「なるほどね」
 名雪が、俺の耳に囁いた。
「天野さん、すごいね〜」
「ああ……」
「……判ったわ」
 一つ頷いて、天沢さんは天野に尋ねた。
「あなた、今、何部に入ってるの?」
「いえ、部活には入ってません」
 首を振る天野の肩を、天沢さんはがしっと掴んだ。
「それじゃ、あなた。陸上部のマネージャーにならない?」
「……はい?」
 さすがの天野も、その言葉は意外だったのだろう。きょとんとして聞き返していた。それから、首を振る。
「申し訳ありませんが、お断りします。そのような暇もありませんし……」
 そうだよな。天野はいつお呼びが掛かるか判らない“退魔師”としての仕事を持ってるんだし。
 名雪も口を挟む。
「郁未ちゃん、マネージャーさんなら、もう十分いるのに……」
 だが、天沢さんは首を振った。
「違うわよ。天野さんにやってもらいたいのは、沢渡さんの専属マネージャーよ」
「専属?」
「そう。陸上部として、沢渡さんほどの力を持つ逸材を放っておくのはもったいない。さりとて他のみんなと同列に扱うのは難しい、となれば、彼女のことをよく知ってる人を付けて、個人指導させればいいじゃない。ほら、高橋尚子と小出監督みたいなもんよ」
「あ、なるほど」
 ぽんと手を打つと、名雪は天野に向き直った。
「天野さん、いろいろ事情があるのはわたしも知ってるけど、真琴のためにお願いできないかな? わたしが見てあげられればいいんだけど、わたしも部長さんだから……」
 俺は思わず口を挟んだ。
「おいおい、2人とも。天野にだって、天野の都合ってもんがあるだろ。第一素人に何をさせるつもりだよ。なぁ、天野?」
「はい、お引き受けします」
「ほら、天野だってそう言って……」
 言いかけて、俺は思わず振り返った。
「天野?」
「はい、決まり。それじゃ、今度沢渡さんと一緒に来てね。みんなにも紹介するから。……っと、みんな、なに休んでるの?」
 そこで、周りのみんなが様子を伺ってるのに気付いた天沢さんがじろりと見回すと、みんなは慌てて練習に戻っていく。
「……まったく、人が見てないとすぐにさぼるんだから」
 ため息をつく天沢さん。
 ……なんとなく、運動部の連中が天沢さんのことを「女土方」と呼ぶのが判るような気がした。
「天沢さん、部長がぼけぼけだと苦労するな」
「相沢くんこそ、恋人がぼけぼけだと苦労するでしょ?」
 俺達は一瞬瞳で語り合うと、がっちりと握手した。
「……うう、ひどいよ〜。祐一も郁未ちゃんも嫌い〜」
 その後ろで、名雪は一人拗ねていた。

Fortsetzung folgt

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あとがき
 のんびりと。

 プールに行こう6 Episode 3 01/10/4 Up

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