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 ……ん。
 ゆっくりと視界がはっきりしてくる。
 柔らかな朝の光に包まれた、見慣れた部屋。
 ……見慣れた部屋?
 奇妙な違和感を一瞬覚えて、天井の木目を、見るともなく見上げていると、味噌汁のいい匂いが鼻先をくすぐり始めた。その匂いに、違和感が一瞬で消える。
 なんだか、今まで、変な夢でも見てたせいだろうか?
 ……夢?
 どんな夢を見ていたんだ?
 ……まぁ、夢の内容が朝起きると思い出せないなんてことは、よくあることだよな。
 俺は布団をめくり上げて、身体を起こした。
 トントントントン
 包丁の音が土間の方から聞こえてくる。
 と、その音が止まり、障子が開いて、秋子さんが顔を出した。
「祐一さん。おはようございます」
「あ、ども……」
 秋子さんは笑顔で俺に挨拶すると、奧の襖を開いて声を掛ける。
「名雪、もう起きなさい。朝ですよ」
「……うにゅ」
 襖の向こうで、ごそごそと音がする。
「……あ、お母さんだお……」
 やれやれ、名雪の奴また寝惚けてやがるな。
 俺は苦笑しながら着物を羽織ると、外に出た。大きく伸びをして、顔を洗いに井戸端に向かう。

 井戸端で、汲み上げた冷たい水で顔を洗っていると、不意に声を掛けられた。
「祐一さん。おはようございます」
「おはよう、相沢くん」
 手ぬぐいで拭いてから顔を上げると、お隣りの美坂姉妹だった。
「よう」
 手を上げて挨拶すると、栞がちょこちょこと歩み寄ってくる。
「祐一さん、今日もいい天気ですよ」
「そうだな」
 俺は空を見上げた。青い空に白い雲が浮いている。
 香里がため息をついた。
「下田の方には異国の蒸気船が来たとかで大騒ぎだけど、お天道さまには関係ないってことね」
「京の方じゃ尊皇だ攘夷だって大騒ぎらしいですけどね」
「よう、天野」
 振り返ると、やっぱり天野だった。いつものように巫女さんの服を着ている。って、巫女さんなんだから当たり前だけどな。
 天野の後ろからちょこちょこと狐の子が駆け寄ってきた。
「お、真琴か?」
「ええ」
 天野は狐の子を抱き上げた。
「今日も元気にしてますよ。真琴、ご挨拶は?」
 狐はくーんと鳴いた。天野は満足げに頷くと、俺達に頭を下げた。
「それでは、ごきげんよう」
「おう。今日もおつとめしっかりな」
「日がなぶらぶらしている遊び人には言われたくありませんけれど」
「うっ、痛いところを」
 俺は苦笑した。
「まぁ、貧乏旗本の三男坊なんて、今どき長屋暮らしできるだけでもありがてぇご時世だからなぁ」
「それも、長屋の大家さんが相沢くんの叔母さんだったから住まわせてもらえてるんでしょ?」
 容赦なくツッコミを入れる香里。
「いわゆるヒモっていう奴ですよね」
 さらに容赦なくとどめをさす栞。
 俺はお天道様を見上げてため息をついた。
「いっそ、どーんと世の中がひっくり返らないもんかねぇ……」
「何言ってんのよ、縁起でもない」
 香里がそう言うと同時に、栞がくしゃみをした。
「くちゅん」
「あ、ごめんなさい、栞。そろそろ戻りましょうか」
「はい。あ、祐一さん、お見舞いに来てくれるなら、横浜で売り出したっていうあいすくりんが……」
「そんなもの買えるかっ!!」
「そんなこと言う人は嫌いです〜」
「いいから寝てろ。病み上がりなんだから」
「はぁい」
 微笑んで、栞は長屋に戻っていった。その後から香里も戻っていく。
 それを見送って、俺は振り返った。
「さて、それで天野……。天野……?」
 既に、そこには誰もいなかった。
 ひゅぅ〜
「……帰ろうか」
 俺は寂しく一人、戻っていった。

Kanon Short Story #14
プールに行こう4 Episode 19

 部屋に戻って扉を開けると、ちょうど奧から名雪が出てきたところだった。
「よう、起きたのか?」
「うん、わたし起きてるもん」
 そう言い残して、俺とすれ違いに外に出ていく。
 ……律儀に返事をしている辺り、既に不安だ。
 そう思って、振り返ってみると、案の定真っ直ぐ前に突き進んだあげく、向かいの家の壁にぶつかっていた。
「……くー」
 おまけに、その壁に寄りかかって寝てやがる。
「……名雪にも困ったものですね」
 その声に振り返ると、秋子さんが、苦笑混じりに頬に手を当てている。
 やれやれ。
「ちょっと行って来ます」
「すみません、祐一さん」
 秋子さんの声を背に、俺は名雪のところに駆け寄ると、とりあえず肩を掴んで揺さぶった。
「うぉ、鯰さんがあばれてるおー」
「違うわいっ!」
「うにゅ……あれ? 祐一?」
 名雪は目をこすって、それからやっと俺に気付いたらしい。続いて辺りを見回す。
「あれっ? わたし、外に出てる……」
「いいから、顔洗って来い。もう朝飯だぞ」
「あ、うん」
 頷くと、まだ首を傾げながらも、名雪は井戸の方に向かった。
 ……いつか、井戸に落ちて溺れかねないなぁ。気を付けてやらんと。

 秋子さんの作る朝飯は、天下一である。……時々、南蛮渡来の妙なものを入れようとしなければ、だが。
 柴漬けを飯に乗せてかき込んでいると、秋子さんに尋ねられた。
「祐一さんは、今日も道場ですか?」
「ええ、そのつもりですけど」
「最近、ずっと通ってますね」
「とりあえず、こんなご時世ですからね。剣の腕も磨いておかないと」
「そうですね」
 そう言いながら、秋子さんはお茶を淹れてくれた。それから微笑む。
「今、うちに男手は祐一さんだけですから」
「あはは。ご期待に添うよう努力します」
 俺は苦笑した。
 名雪がのんびりと言う。
「佐祐理さんって、美人だよね」
「そうそう。なんていうかこう……」
 言いかけたところで、秋子さんの視線にはたと気付く。
「祐一さん、実は、味見して欲しいものがあるんですけど……」
 そう言いながら、土間のほうにちらっと視線を向ける秋子さん。
「わ、わたし、ちょっと顔洗って来るよっ!」
 今までのんびりとご飯を食べていた名雪が、いきなり立ち上がって、そのまま外に飛び出していく。
 ……逃げたな、名雪。なんてのんびりしてる場合じゃない。
 俺も慌てて立ち上がる。
「あ、お、俺もうお腹一杯ですからっ! えっと、とにかく行って来ます!」
「そうですか。はい、行ってらっしゃい」
 残念そうな秋子さんの声を背中に危機ながら、そそくさと俺は長屋を出た。

「あっ、祐一さん。今日も道場なんですね」
 外に出ると、栞が声をかけてきた。長屋の入り口に床机を置いて、その上にちょこんと腰掛けている。
 ちなみにその隣では、逃げ出してきた名雪がこくりこくりと船を漕いでいた。
「まぁ、そんなところだ。ところで、栞こそ外に出てていいのか?」
「はい。ひなたぼっこです」
「お天道様を浴びるのは身体にいいって天野さんも言ってたのよ」
 そう言いながら香里が出てきた。
「栞にはもっと丈夫になってもらわないと」
「そんなこと言う人嫌いです。私、もう十分丈夫ですっ」
 ぷっと膨れる栞。
「何を言ってるの。ついこの間まで小石川にお世話になっていたくせに」
「それはそうですけど……」
「まぁ、元気になってなによりだな」
 俺はぽんと栞の頭に手を置いた。栞はくすぐったそうに目を細めた。
「はい。これでまた、錦絵の勉強が出来ます」
「さて、それじゃ俺はこれで」
「わっ、何事も無かったかのように行かないでくださいっ」
「相沢くん、もちろん栞の練習に付き合ってくれるんでしょうね?」
 俺の肩を掴む香里。って、痛いって。
「わ、わかった。そのうちにな」
「約束ですよっ」
「んじゃな」
 俺はそそくさとその場を後にした。
「うにゅ……けろぴー……」
 ちなみに最後まで名雪は寝ていた。

 長屋が見えないところまで歩いてきてから、俺はやれやれと大きくため息をついた。
 確かに、あの二人は近所で評判の美人姉妹なんだが、なんていうか、こう、押しが強いんだよなぁ。
 ……まぁ、俺の回りの女性は皆押しが強いって話もあるか。
 北川なんかは「なんてうらやましい奴だ」とか言うけど。
「あいつもはっきりすればいいのに。端から見れば香里狙いなのは見え見えなんだから」
「うるさい、相沢。俺は慎み深いんだっ」
「あ、いたのか北川」
「……おい」
 俺と同じく、貧乏旗本の倅の北川である。
「道場に行くんだろ? 一緒に行こうぜ」
「おう」
 俺達は懐手して歩き出した。
「しかし、なんていうか、俺達にも何か出来るようなこと、ないかねぇ。天下の一大事だっていうのに……」
「そのために、腕を磨いてるんだろ?」
「ああ、そうだけどよぉ。ほら、こないだ清河様が浪士を集めて京に向かわれただろ? 俺も参加しようと思ったのに、一日違いで間に合わなかったんだぜ」
 北川はそう言ってため息をついた。
 俺は苦笑した。
「またその話か? こないだからそればっかりじゃないか」
「悔やんでも悔やみきれないよ。俺だって上様の為に力をふるうことが出来るかもって……」
「よせよ。また次の機会があるさ。それに清河様だって噂じゃ暗殺されたって言うじゃないか」
「でも……」
「それは、それ。とにかく今は、急いだ方がいいぜ。また遅れると、佐祐理さんはともかく、舞が怒るからな」
「おっと、また真剣持ち出されたら大変だな」
 俺達は頷き合って、同時に駆け出した。

 倉田道場は、以前は結構羽振りのいい大きな道場だった。だが、先代の道場主が流行病とやらで亡くなって、跡継ぎがいなくて仕方なく一人娘の佐祐理さんが跡を継ぎ、女の道場主なんて……と一人辞め二人辞めであっという間に寂れてしまったのだ。
 今じゃ、近所の子供達に剣道を教えて細々とやっているような状態だ。
 もちろん、美人で気だてが良いことで有名な佐祐理さんを目当てにやってくる若い男達もいたのだが、師範代の舞のしごきに耐えかねて半日で逃げ出してしまうていたらくだった。
 で、結局、普通の武士としては、俺と北川、そして舞しか残っていないってわけだ。

「はぁ、はぁ、はぁ」
「……祐一は弱い」
 ぶん、と竹刀を一振りして言うと、舞はすたすたと壁際まで行くと正座した。
 俺はと言うと、ようやく道場の床から身体を起こした。
「少しは手加減してくれてもいいだろ……?」
「手加減はしてる」
「あはは〜。そうですよね〜」
 そう言いながら、割烹着姿の佐祐理さんが入ってきた。お盆の上におむすびを載せている。
「お昼にしませんか〜?」
「待ってましたっ!」
「おい、どこに隠れてたんだ、北川!?」
 お盆に手を伸ばす北川に負けじと、俺も跳ね起きた。

 バァーン
 俺達がお盆の上のおにぎりを争って食べていると、不意に道場の扉が大きな音を立てて押し開かれた。
「たのもうっ!」
「あらあら、どちら様ですか?」
 舞がおにぎりをぱくつくのを笑顔で見ていた佐祐理さんが立ち上がった。
 そこにいたのは、むさ苦しい大男だった。
「倉田道場の看板、頂きに参ったっ」
「なぁ、北川。今月何人目だろ?」
「俺が覚えてるだけでも7人目だな」
「ったく、懲りないなぁ、久瀬の奴も」
「ああ、倉田道場を潰して佐祐理さんを自分のものにしようって魂胆、見え見えだからなぁ」
「二人とも、あんまり人の悪口言っては駄目ですよ。めっ」
 北川と話をしていると、佐祐理さんにめっをされてしまった。
「こらっ、お前ら和んでるんじゃねぇっ! 勝負しろっ!」
 そう言いながら剣を抜く男。
 その前に、舞が立ちふさがる。手には竹刀。
「なんだ、てめぇは?」
「倉田道場師範代、川澄舞」
 ぼそっとそれだけ言うと、左手に竹刀を納めて身構える舞。
 男はせせら笑う。
「居合いの構えか? しかし、真剣相手に竹刀で、しかもそれが女の師範代ときてる。よほど人がいないらしいな」
 俺は北川に話しかけた。
「何合打ち合えると思う?」
「一回も打てないと思うぜ」
「なんだ。賭けにならねぇな」
 男はじろっと俺達を見たが、何か言う前に舞がすすっと進み出た。
「やるの? やらないの?」
「けっ。すぐにぶっ倒してひいひい言わせてやるぜ」
「はぇ〜、倒すのは判りますが、ひいひいとはなんでしょう?」
「佐祐理さんは知らなくてもいいことが世間にはあるんですよ」
 俺が慌てて言い繕っている間にも、舞と男の対決が始まろうとしていた。
 男がじりっと足を進め、舞がすっと下がる。一見、男が押している様に見え、男もそう思っているのだろう。自信をみなぎらせて舞ににじり寄る。
 だが、俺には判っていた。舞は誘っていたのだ。自分の間合いに相手が入るのを。
 ダンッ
 板張りの床が小気味よい音を上げた瞬間、舞の身体は既に男の背後に抜けていた。一拍置いて男の手から剣が落ち、そして気絶した男はその場に音を立てて倒れた。
 ドタッ
「お見事〜」
 ぱちぱちと手を叩く佐祐理さん。
 舞は何事も無かったかのように竹刀を納めると、すたすたとこっちに戻ってきた。そして一言。
「おにぎり」
「はいはい。昆布とおかかとどちらにする?」
「両方」
「舞は欲張りさんですね〜」
「佐祐理のおにぎりは美味しいから」
 既に二人の世界に入ってしまったらしい。
 俺は北川と顔を見合わせ、ため息をつくと、気絶している男の身体を二人がかりで持ち上げた。
 破れた男を表に捨ててくるのは、俺達の役目と決まっているのだった。

Fortsetzung folgt

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あとがき

 プールに行こう・幕末編の開幕です(笑)
 時代考証的にややおかしいところがあるのは、わざとです。……あまりいじめないでください(爆笑)

 プールに行こう4 Episode 19 00/11/24 Up 00/11/25 Update

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