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トルルル、トルルル、トルルッ
Fortsetzung folgt
受話器の向こうで鳴っていた呼び出し音が途切れ、声が聞こえてきた。
『えっと、はい、水瀬、です』
俺は苦笑した。
「自信なさげに言うなよ、あゆ」
『あっ、祐一くんっ!? うぐぅ……』
受話器越しに安堵の声が漏れる。
『帰ってこないから、何かあったのかと思ったよ……』
「悪い。で、悪いついでに、今日は俺達、病院に泊まるから」
『えっ? 今どこなの?』
『ロビーの公衆電話ですよ、きっと』
微かに栞の声が聞こえた。
俺は思わず、待合室の壁にかかっている時計を見上げた。
既に午後9時を回っている。
「何やってんだ、栞?」
『えっ? あ、えっと……』
戸惑うあゆの声。と、不意に栞の声がはっきり聞こえた。
『祐一さん、こんばんわです』
「こんばんわです、じゃないだろ?」
俺がそう言うと、いきなり今度は真琴の声が聞こえた。
『わぁっ、祐一の声がするっ!』
『あ、今ハンズフリーに切り替えましたから、受話器は置いてもいいですよ、あゆさん』
『うぐぅ、そんな機能があるなんて、ボク知らなかったよ……』
俺は咳払いした。
「栞、ハンズフリー機能の解説は後にしてくれ」
『あ、すみません。それで、どうしたんですか?』
「いや、今日は帰らないから……」
『祐一ーーっ、帰って来ないってどういうことなのよっ!』
真琴の声が割り込んでくる。俺はため息混じりに訊ねた。
「栞がいるってことは、舞もそこにいるか?」
『あ、はい。舞さん、祐一さんが呼んでますよ』
『……いる』
舞の声が微かに聞こえた。どうやら電話からは遠くにいるらしい。
俺は言った。
「舞、真琴を可愛がってやってくれ」
『……いいの?』
「俺が許す」
『わぁっ! 真琴は許してないーっ! わわっ、やめてようっ!』
『大丈夫。可愛がるから』
『わわっ、わわぁっ! 助けてぇ〜っ!』
楽しそうな悲鳴が聞こえていたが、とりあえずこれで話の途中で割り込まれることもなくなっただろう。
俺は改めて栞に訊ねた。
「で、どうして栞や舞がまだ家にいるんだ?」
『真琴ちゃんとあゆちゃんだけだと餓死しかねないからね』
栞の代わりに、別の声が聞こえた。
「なんだ、香里もいたのか」
『相沢くん、もしかして、こんな状況で喧嘩売ってるのかしら?』
『お姉ちゃんも、喧嘩しないでください』
『……まぁ栞に免じて、今回は許してあげるわ』
おそらく電話の向こうで肩をすくめているんだろう。
「で、結局、今そっちには誰がいるんだ?」
『あたしと栞、それから川澄先輩と倉田先輩がいるわ。みんな泊まっていくつもりだから、こっちのことは安心してていいわよ』
「そりゃ心強い。あゆと真琴のことは頼んだぞ」
『わかったわ。それより、そっちはどうなの?』
聞き返されて、俺はため息をついた。
「香里、ハンズフリー切ってくれないか」
『……わかったわ』
微かな音がして、香里の声が聞こえた。
『これでいいわよ』
『わっ、お姉ちゃんひどいですっ』
『我慢しなさい』
確かに、栞の声が微かにしか聞こえなくなっていた。俺は一つ頷いて、話した。
「秋子さんは相変わらず、意識不明だ。悪くもなってないが良くもなってない」
『そう。それで名雪は?』
「……とりあえず、俺はそばにいてやるつもりだ。それしか出来ねぇけどな」
『ううん。相沢くんにしか出来ないことだと思うわよ』
そう言うと、ちょっと悪戯っぽく付け加える。
『栞の姉としては心中穏やかじゃないけど』
「まぁ、それはそうだろうけどな」
『でも、名雪の親友としては、うん、感謝する』
「香里も複雑な立場だな。同情するぞ」
『あなたに言われたくないわよ。それで、明日はどうするの?』
「学校か? 多分名雪はそれどころじゃないだろうな」
『そうでしょうね。……でも、相沢くんは出て来なさいよ。名雪のことが心配なのは十分判るけど』
「……悪いな、香里」
『後で貸しは返してもらうからね』
香里は、多分俺を気遣ってだろう、からかうような口調で言った。
チン
公衆電話の受話器を置くと、出てきたテレホンカードを取って、俺はその場を後にした。
深夜の病院を歩くのは、2度目だな。
前回は、栞が危篤になった時、妖狐の秘薬を飲ませるために来たんだった。
そして、今回は……。
俺は階段を上がり、ICU前の通路に入る扉を開けた。
ICUを見ることが出来るガラスの前には、名雪がじっと立っていた。
「名雪、家に電話してきたぞ」
「……」
無言のまま、名雪はガラスの中を見つめていた。
いや、その目には何も写っていないのかもしれなかった。
「……お母さん」
微かに小さく呟く名雪。
ガラスの向こう。ベッドの上に横たわっている秋子さん。
と、ICUのドアが開いて、医者が出てきた。確か、高槻っていったっけ。
彼は俺達に気付いて、つかつかと近寄ってきた。
「なんだね、君たちは。まだいたのか? もう面会時間はとっくに終わってるはずだぞ」
居丈高な言い方にむっとして言い返そうとしたとき、後ろから声がした。
「私が許可したんですよ、高槻先生」
「えっ?」
高槻は、驚いて声の方に視線を移す。
俺も振り返った。
そこにいたのは、鹿沼さんだった。
「……しかし、どうした風の吹き回しですかね。精神科の鹿沼先生が、ICUにいらっしゃるとは?」
すぐに驚きを引っ込めた高槻が、白衣のポケットに手を突っ込んで訊ねた。
鹿沼さんは静かに答える。
「医者は、必要とされるところなら、どこにでも行くものです」
「ほう。しかし、ここはカウンセリングルームじゃありませんよ。我々の領分であまりあれこれ言わないで頂きたいものですね」
「……」
言い返すでもなく、鹿沼さんはじっと高槻を見つめた。
その視線に堪えかねたように、高槻は咳払いした。
「と、とにかく、治療の邪魔はしないでもらいたいものだな。鹿沼先生、君の患者だというなら、君がちゃんと管理してくれ」
「……それで終わりですか?」
静かに聞き返されて、高槻は忌々しげに鹿沼さんを睨んで、言い捨てた。
「それだけだ!」
そのまま、足早に俺達のそばを通り過ぎて行くと、高槻は外に出ていった。
バタン
ドアが閉まった。
俺は、鹿沼さんに訊ねた。
「いいんですか?」
「何がです?」
聞き返されて、俺は返事に窮した。
「それより、すぐに伺うつもりだったんですが、遅れて済みませんでした」
すっと頭を下げると、鹿沼さんは名雪を見た。
今の高槻とのやり取りの間も、名雪は片時も秋子さんから目を離していなかった。
「あちらが……?」
「ええ」
俺が頷くと、鹿沼さんは「そうですか」と呟いた。そして、しばらくじっと名雪を見つめてから、俺に視線を移した。
「ちょっと、よろしいですか?」
「え?」
「少し、お話ししたいことがあります」
それだけ言うと、鹿沼さんはICUを出ていった。
俺は慌ててその後を追った。
廊下に出て、俺が扉を閉めたところで、鹿沼さんは視線を向けた。
「……あの、どうしたんですか?」
「私の出る幕は無いと思います」
「……は?」
思わぬ言葉に、俺は目を点にした。
「で、でも、さっきは力になってくれるって言ったじゃないですか! だから、俺、全部話したのに……」
思わず食ってかかる俺に、鹿沼さんはあくまでも静かに答えた。
「確かに、力になる、とは言いました。ですが、それは私が力になれるなら、という意味です。この状況では私が何かしても、力にはなれないでしょう」
そこで言葉を切ると、鹿沼さんは俺に言った。
「カウンセリングは、相手が受け入れてくれないと意味がないんです。上から強制的にこうしろ、ああしろと言っても、本人が受け入れてくれなければ……」
「そりゃそうでしょうけど……。でも、せめて、何かアドバイスでもないですか? 俺はどうすればいいんです?」
鹿沼さんは答えた。
「私の出来るアドバイスは、先ほど言った通りです」
「……そばにいてやれ、ですか?」
「はい」
頷いて、鹿沼さんは俺に告げた。
「あなたは、強くあってください。きっと、彼女は、頼れるものを捜しているはずですから」
「頼れるもの……ですか?」
静かに頷くと、鹿沼さんは去っていった。
釈然とはしなかったが、それで鹿沼さんを責めるのもお門違いだろう。そう思うだけの冷静さはかろうじて残っていた。
戻ろう。名雪のところにいなくちゃ。俺にはそれしかできないんだから。
自分に言い聞かせながら、俺はICUへの扉に手をかけた。
「……祐一」
それから、どれくらいの時間がたっただろうか?
不意に名雪が、俺の名前を呼んだ。
「……そこにいる?」
視線を片時も外さずに、訊ねる名雪。
「ああ」
俺は、寄りかかっていた壁から、身体を起こした。
「いるぞ」
「……どうして?」
静まりかえった廊下でも、ほとんど聞き取れないほどの小さな声だった。
「どうして、帰っちゃわないの?」
「名雪がここにいるからな」
「……わたし、帰らないよ」
「だったら、俺も帰らない」
少し、間があった。そして、名雪が言葉を続けた。
「いつまでも、ずっと、お母さんと二人で暮らしていくんだって思ってた……」
「……大丈夫だ。絶対に良くなる。あの秋子さんが、こんなことでいなくなるわけないだろ……」
「……わたし、お父さんの顔、知らないんだよ……」
そのまま。俺の方を見ないで、名雪は呟いた。
「でも、わたし、お母さんが一緒だったから、寂しくなかった……。……わたし、考えたこともなかった」
小さく呟く。
「お母さんがいなくなることがある、なんて……、考えたこともなかった……」
「……」
「……わたし、どうしたらいいんだろ? お母さんがいなくなったら、どうしたらいいんだろ? ねぇ、祐一……」
ICUとの間を隔てたガラスに映る名雪の顔。
その顔は、無表情だった。
俺は、答えることが出来なかった。
ドアを押し開けて、廊下に出た。
窓から見える外の景色が、変わり始めていた。暗闇が少し薄れ、今まで見えなかった周りの建物が次第に見える様になってきている。
長い夜が、明けようとしていた。
……秋子さんが倒れて眠り続けてても、名雪が心を失いかけてても、時間は流れ、地球は回り続けてる、か。
俺らしくもない奇妙な感慨を抱いたのは、きっと結局徹夜してしまったからだろう。
徹夜……か。
俺はともかく、あの名雪が徹夜してまだ寝ようという素振りさえ見せない。心の痛みは生理的な欲求を抑えてしまうものなんだろうか……。
生あくびをしてから、俺はトイレに向かった。いくら格好付けてみても、俺自身の生理的欲求はいかんともし難かったからだった。
「……っ!」
はっとして顔を上げると、狭っ苦しい空間の中にいた。
どうやら、便座に座ったまま寝てしまったらしい。
俺はため息をつきながら、身支度を整えて個室から出た。
うーむ、トイレの個室で寝てしまったとは。我ながら不覚。
しかし……。
手を洗ってトイレを出ると、俺は廊下の壁によりかかって窓の外を眺めた。
寝ている間にすっかり夜は明けてしまったらしく、窓の外は明るくなっていた。でも、廊下にはだれもいないところを見ると、まだ人が活動するほどの時間じゃないってことか?
あいにく時計を持っていないうえに、どれくらい寝ていたのかも判らないので、今の時間もさっぱり判らない。
とにかく、名雪のところに戻ろう。
俺が名雪のためにできるのは、それだけだろうし。
そう思って、ICUに向かって歩き出したとき、不意に後から声をかけられた。
「祐一くんっ」
「え?」
驚いて振り返ると、廊下の向こう、ちょうど階段の上がり口のところに、学校の制服姿のあゆがいた。胸に紙袋を抱えている。
あゆは俺の前まで駆け寄ってくると、大きく息をついた。
「うぐぅ……、逢えてよかったぁ」
「どうしたんだ、こんな……今何時だ?」
「えっと……」
うんしょ、とあゆは紙袋を抱えたままで器用に右手首の袖をめくって腕時計を出した。
「えっとね、8時過ぎだよ」
「学校はさぼりか?」
「ボクよい子だからそんなことしないよっ。学校に行く途中に、病院に寄ったんだよ」
ほかのみんなは真っ直ぐ学校に行ったけど、と付け加える。
「どうしてあゆだけ?」
「ボクが、水瀬家代表だもん」
胸を張ると、あゆは左右を見回してから俺に訊ねる。
「祐一くん、名雪さんは?」
「……中だ」
俺は、ICUの方をあごでしゃくった。
「そっか。ボク、挨拶してくるねっ」
そう言って走って行こうとするあゆの肩を掴んで止めた。
「わっ。な、なに?」
「そっとしておいたほうがいい」
「……どういうこと?」
首を傾げると、あゆは思い出したように、そっかと視線を落とした。
「名雪さん、まだ……」
「ああ……」
俺はため息をついた。
「俺じゃ、やっぱり駄目なのか……」
「……ボク、名雪さんと話してみる」
あゆが不意に顔を上げた。
「ボク、名雪さんの気持ち判るよ。……ボクのお母さんも……いなくなっちゃったから……」
「あゆ……」
「でも、ボクのときは祐一くんが助けてくれたよ。だから、今度はボクの番」
そう言って、あゆは微笑んだ。
「だから、ボクに任せてよっ」
「……頼む」
俺は、あゆの頭にぽんと手を乗せて、言った。
ICUの前の通路。名雪は、まだじっと、ガラスの前で立ちつくしていた。
「名雪さんっ」
あゆが駆け寄ると、その隣で立ち止まり、秋子さんを見つめた。
「秋子さん……」
「大丈夫だ。秋子さんなら必ず良くなる」
俺が後ろから言うと、あゆは振り返って大きく頷いた。
「そうだよね」
そして、もう一度ガラス越しに秋子さんを見つめて、小さな声で繰り返した。
「絶対良くなるよね」
それから、名雪を見る。
「名雪さん……」
名雪は、やっぱりあゆにも反応しなかった。
あゆは、抱えていた紙袋を開けた。
「名雪さん。ボク、商店街に寄って、買ってきたんだよ」
そう言いながら、紙袋から、まだ湯気の上がっているたい焼きを出した。
「はい、名雪さん。お腹減ってるでしょ?」
名雪の前にたい焼きを差し出すあゆ。
ガラスの向こうの秋子さんを見つめる名雪。その名雪の前にたい焼きを差し出した姿勢のままのあゆ。
まるで時が凍り付いたように、どちらも動かない。
たまりかねて、俺が口を挟もうとしたとき、不意に名雪が動いた。
白い手を上げて、あゆからたい焼きを受け取った。そして、ゆっくりと口に運ぶ。
「……どうかな?」
名雪の顔を覗き込むあゆ。
「……おいしい。おいしいよ、あゆちゃん……」
そう呟いた名雪の頬を、何かが滑り落ちていった。
それは、秋子さんが倒れてから、名雪が初めて流した、涙だった。
「わたし……まだ美味しいって思えるんだ……」
「うん。ボクはそれを祐一くんに教えてもらったから。だから今度はボクが名雪さんに教える番」
名雪は、涙を流しながら、俺達の方を見た。そして、確かに微笑んだ。
そして、スローモーションのようにゆっくりとあゆにもたれ掛かる。
「名雪さんっ!!」
あゆが悲鳴を上げてその身体を支えた。慌てて俺もあゆに加勢して、すんでのところで共倒れになりかけた2人を支えながら、声をかけた。
「名雪っ!」
「……くー」
俺とあゆは顔を見合わせ、改めて名雪を見た。
「……寝てる、みたいだね」
「ああ……」
俺はやれやれ、とため息をついて、名雪を背負い上げた。
「祐一くん、どうするの?」
「とりあえずこのまま家に連れて帰って寝かせる。俺も今日は休むって香里に伝えてくれ」
「祐一くんも?」
「ああ。ほとんど徹夜してたからな」
「そっか。うん、わかったよ。……ああっ!」
頷いてから腕時計を見て、急に慌てるあゆ。
「わわっ、もうこんな時間っ! 遅刻しちゃうっ! ボク行くからっ!」
そう言い残し、あゆは廊下をバタバタと走り出した。
その背中に俺は声をかけた。
「ありがとな、あゆ」
あゆはくるっと振り返ると、照れたように笑ってみせると、そのまま廊下の角を曲がって、階段を駆け下りていった。
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あとがき
まぁ、色々と思うところありまして。
所詮は私もアマチュアにすぎないんだな、と痛烈に思い知らされたり。
かなり真剣に落ち込んでみたり。
そんなこんなで今日も生きてます。
それはそうと、BS7に出る同人誌用にだよもんSS書き下ろしてました。おねは久しぶりだったので、感じを掴むまでかなりかかりました。はい。
ちなみに再販はしないらしいです<同人誌
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