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トントン
Fortsetzung folgt
ドアからノックの音がした。俺の胸に頭をもたれさせていた真琴がびくっとして、そちらをみる。
「お取り込み中すみませんけれど」
そう言いながら顔を出したのは栞だった。
「何だ、栞か」
「そんなこと言う人は嫌いです」
栞は部屋に入ってきた。
「ここって、秋子さんのお部屋ですよね?」
「ああ」
「……祐一さん、巳間先生はなんて?」
真琴とは反対側の俺の隣りに腰掛けながら、訊ねる栞。
「ああ、それぎゃぁっ」
「栞ばっかり見たらだめっ」
説明しようとしたところで、いきなり真琴に首を曲げられる。
「何をするんですか、真琴さん。私はただ、祐一さんに状況をお聞きしようとしてるだけじゃないですか」
「あ、あう……」
理詰めで来られると弱い真琴。
「で、でもでも、なんか栞から変な気を感じるのよっ!」
「そ、そんなことあるわけないじゃないですかっ!」
しかし、真琴には野生の勘があった。
俺はため息をついて、立ち上がった。
「みんなリビングか?」
「えっ? あ、はい、そうです」
「わかった。真琴はとりあえず着替えてから来い。行くぞ栞」
そう言って俺はドアを開けた。
気がついてみたらいつものペースになっていた。栞や真琴が気を回してくれたわけじゃないんだろうけど。
リビングに入ると、キッチンから、制服にエプロン姿の佐祐理さんがお盆にお茶を乗せて出てきた所に出くわした。
「あっ、祐一さん。お邪魔してますね〜」
「悪いな」
「いいえ。それに、こちらこそ無断で台所をお借りしてすみません」
「いいって」
今は使う人もいないんだし、と言いかけて、それを飲み込んだ。
リビングには、舞、香里、天野の3人がいた。
「よう、香里。ちゃんと代返しておいてくれたか?」
「相沢くんは結構余裕ありそうね」
皮肉で返されてしまった。俺はため息混じりに肩をすくめた。
「俺まであたふたしてもしょうがないし」
「それで、名雪とあゆちゃんは病院?」
「ああ。名雪のことはあゆに頼んである。何かあったらすぐに知らせてくれって」
「……そう」
意味ありげに俺を見て呟く香里。
「なんだよ?」
「言葉通りよ」
だから判らないって。
「……相沢さん」
天野が俺に訊ねた。
「秋子さんの症状を教えていただきたいんですが」
「ああ、それは構わないけど、何か心当たりでも?」
「症状を聞かないと、なんとも」
首を振る天野。確かにそれもそうだ。
俺は、巳間医師の告げた症状を思い出しながら答えた。
「ええっと、医者はこう言ってたな。高熱、発汗、えっとそれから……、なんか難しいこと言ってたぞ」
「それじゃ判らないわよ」
香里が肩をすくめる。
「でも、俺は病人を見慣れてないからなぁ。栞は見慣れてるけど」
「私、今はもう健康です」
栞がぷっと膨れた。俺は素直に謝った。
「そうだな。悪かった」
「わかりました。それでは、相沢さんの見たとおりを教えてください」
天野が先を促した。
俺は見た通りを天野に話した。
「俺とあゆが帰ったときは、秋子さんはそこの廊下で倒れていた。顔が真っ赤で、既に意識もなく、呼吸は苦しそうで早かった。熱もかなり高かった……」
「……」
天野は少し考えてから、聞き返した。
「身体のどこかが黒くなっていたとか、そういうことは?」
「俺が見た範囲じゃ普通だった。でも、別に全部脱がせてみたわけじゃないからな。あゆなら秋子さんをパジャマに着替えさせたんだから知ってるかもしれないが。天野、何か心当たりでも?」
「……憶測でものは言いたくないです。それが良くないことならなおさら……」
「……そうか」
俺は頷き、佐祐理さんの入れてくれたお茶を飲んだ。
と、その時だった。
トルルル、トルルル、トルルル
電話の音がリビングに鳴り響いた。
子機を取って、声をかける。
「……もしもし、水瀬ですが」
『あ、祐一くん? ボク……』
「あゆか? 何かあったのか?」
『秋子さんは、まだ寝たままなんだけど、名雪さんがなんか変だよ』
「名雪が?」
『うん。ボクが何を言っても、返事してくれないんだ。うぐぅ……ボク、どうしていいのかわからないよ……』
「わかった。とにかく俺も今から病院に行くから」
『うん……』
俺は子機のスイッチを切ると、振り返った。
ちょうど、着替えた真琴が入ってきた。
「真琴、俺、今から病院に行くから、後は頼む」
「ええーっ? 真琴も……」
「真琴」
天野が声を掛け、真琴はしおしおと頷いた。
「う、うん……。真琴、家に残る……。残って待ってるからっ!」
「よしよし」
頭を撫でてやってから、俺はリビングを出た。
階段を駆け上がり、ICUのある病院の2階に出ると、あゆが廊下の壁にもたれてぽつんと立っていた。
「あゆ……」
俺が呼ぶと顔を上げる。
「あっ、祐一くん……」
俺の名を呼んで、駆け寄ってくると、そのまま俺に抱きつく。
「うぐぅ、祐一くん……。ボク、やっぱり名雪さんの妹にはなれないのかな……」
「何でだ?」
「だって、ボクの言うこと全然聞いてくれないし……。ボクも秋子さんのこといっぱいいっぱい心配してるのに……、真琴ちゃんも祐一くんも、他のみんなもいっぱいいっぱい心配してるのに……。名雪さん、自分だけが秋子さんを心配してるって思ってるみたいだよ……」
それだけ一気に言うと、あゆはうぐぅ、と俯いた。
「ごめんなさい……。ボク、名雪さんが悪いみたいな言い方しちゃって……」
「いや」
俺はあゆの頭にぽんと手を置いた。
「あゆ、ここはいいから家に帰れ」
「えっ?」
「名雪と秋子さんのことは、とりあえず俺に任せとけ」
「でも……」
ためらうあゆに、俺は言った。
「家のことは、任せたぞ」
「えっ?」
「お前は、水瀬家の次女だろ?」
俺の言葉に、あゆは唇をきゅっと結んで頷いた。
「うん、任せてよっ」
頼りないことこの上ないが、そんなことを言うわけにもいかず、俺はあゆの頭を撫でた。
「それじゃ、頼む」
「うん。……祐一くん」
俺の顔を見上げ、あゆは言った。
「……お姉ちゃんをよろしくね」
「ああ」
俺が頷くと、あゆは身を翻した。
「それじゃ、先に帰ってるね。……お兄ちゃん」
ICUへの扉に手をかけていた俺は、その手を滑らせて危うくこけるところだった。振り返って叫ぶ。
「あ、あゆっ!」
その時には、もうあゆの姿は見えなくなっていた。俺はため息をつき、改めてICUの扉を開けた。
この病院のICUは二重構造になっている。最初の扉を開けると、ICUの中が見えるようにガラス張りになった廊下があり、その先にさらに4重の扉がある。それをくぐってやっと室内に入れるというわけだ。
当然、見舞いに来た人はそのガラス張りの廊下までしか入ることが出来ない。
俺がその廊下に入ると、そこには名雪だけが悄然と立ち尽くしていた。
「名雪……」
俺の呼びかけにも答えず、名雪はただ、ICUの中を見つめていた。
かつて栞が横たわっていたベッドに、今は秋子さんが横たわっている。その周りで巳間医師をはじめ何人かの白衣を着た医者や看護婦達が忙しく歩き回っていた。
名雪の隣まで歩み寄ったが、名雪はこちらを見ようともしない。
と、ICUの扉が開いて、看護婦さんが一人出てきた。
「あら? あなた、確か相沢くん、だったわね」
「ええ」
頷いてから、俺は記憶を呼び戻した。
「確か……」
「名倉友里よ」
記憶を呼び戻すより先に言われてしまったが、それで思い出した。確か栞の担当だった看護婦さんだ。
「あの、秋子さんの容態はどうなんですか?」
「あら、水瀬さんとも知り合いなの?」
「ええ。実は俺、水瀬さんの家に世話になってるんです」
「そうだったの」
名倉さんは、ちらっと名雪を見て、声を落とした。
「今、検査をしてるところ。うちの内科の最高レベルの先生と最高レベルの設備を使ってるから、きっと良くなるわよ」
「……」
栞を治せなかった、という実績があるので、どうしても疑ってしまう俺だった。
「それよりも、そういう事情ならちょうど良かったわ。名雪さんはもちろん知ってるわよね」
「ええ」
いつもなら「俺達、深い仲なんです」くらいのことは言うのだが、さすがにそれは出来なかった。
「彼女を家に連れて帰って欲しいの」
「どうしてですか? あいつが望むなら、秋子さんのそばにいさせてやる方がいいんじゃ……」
俺の言葉に、友里さんは首を振った。
「秋子さんの方は、熱はやや下がったし、危篤という状況じゃなくなったわ。安全、とはとても言えないけれども、すぐにどうにかなるようなことはないわよ。それに、名雪さん、ずっとあのままなの。少し休ませないと、このままじゃ彼女の方が参ってしまうわ」
「……判りました」
「何かあったら、すぐにそちらの家に知らせるから、今日はゆっくり休ませてあげて」
と、ICUの扉を開けて、一人の医師が顔を出した。
「名倉くん、何をしてるんだ? 急いでイソピリンのアンプルを持ってこいって言っただろう?」
「あ、すみません。すぐに持ってきます。それじゃ相沢くん、後はお願いね」
そう言って、名倉さんは走っていった。医師のほうもすぐに扉を閉めて戻っていってしまったので、その場には俺と名雪だけが取り残された。
俺は名雪の肩を掴んだ。
「名雪、今の話は聞いただろ? 帰ろうぜ」
「……」
名雪は無言で、ICUを見つめていた。
「名雪っ」
少し大きな声で名前を呼びながら、掴んだ手に力を込める。
パシッ
一瞬、何が起こったか判らなかった。
名雪が、俺の手を払いのけたのだった。
微かに、名雪の唇が動いた。
「……帰って」
「名雪……」
「もう、帰って」
それは、明らかな拒絶だった。
「で、でもさ、名雪がいたって秋子さんが良くなるわけでもないし、それに医者だって一生懸命やってくれてるんだ。今は信じるしか……」
初めて、名雪が俺の方を見た。その表情に、俺は絶句していた。
「……名雪……」
「帰って、祐一。でないと、わたし……、祐一のこと……、嫌いになっちゃうよ……」
溢れそうな何かを必死にこらえている表情だった。
だけど。
「帰るなら、一緒に、だ」
俺は答えて、もう一度名雪の肩に手を伸ばした。
バシッ
その手が、名雪に振り払われた。
そして、名雪は叫んだ。
「何にも……、何にも知らないくせにっ! わたしとお母さんのこと、何にも知らないくせに、それ以上入って来ないでっ!!」
それは、二重のガラスの向こうにいたICUの中の人達が、一斉にこっちを見たほどの大声だった。
名雪は、秋子さんの方に向き直り、それ以上俺を見ようともしなかった。
俺も、それ以上名雪に言葉をかけることができなかった。
1階の待合室。
俺は椅子に座って呆然としていた。
名雪のことは全部知ってると思っていた。だけど、全然知らなかったことを、つくづく思い知らされていた。
……どうすれば、いいんだ?
わからない。何かしないといけないんだろうけど、全然判らない。
こんなんで、俺は名雪の恋人だ、なんてうぬぼれてたのかよ。
何が恋人だ。
「……畜生」
小さく呟いて、俺は両手に顔を埋めた。
と。
「あら、奇遇ですね」
その声に顔を上げると、白衣をまとった、長い金髪の印象的な女の人が、俺を見下ろしていた。
「あなたは……」
「……何かあったみたいですね。よろしければ、話していただけませんか?」
その人……かつて、あゆの主治医を勤めていた、精神科の鹿沼葉子医師は、俺の隣りに腰を下ろした。
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あとがき
うーん。なゆちゃんファンには石投げられそうな展開だなぁ(苦笑)
しかし、話が進むにつれてどんどんシリアスが増していく……。
プールに行こう4 Episode 15 00/11/7 Up