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Kanon Short Story #14
プールに行こう4 Episode 14

「あゆちゃん、お母さんがどうかしたの?」
 名雪が、いつもからは想像できないような真剣な顔で訊ねた。
「うぐぅ……。ボクが家に帰ったら、玄関で秋子さんが倒れてたんだよ」
 こちらは半泣き顔のあゆ。
「秋子さんが、倒れた?」
「ボク、どうしたらいいのかわかんなくて、起こそうとしたんだけど全然目を開けてくれなくて……」
「祐一、わたし家に帰ってみる」
 そう言い残し、名雪が駆け出す。
「うぐぅ、祐一くん……」
 あゆが俺の制服の袖を掴んだ。
「ボク、ボク……」
「相沢くんも、一度戻った方がいいわ」
 その様子を見ていた香里が言った。
「え? でも、名雪が戻っただろ?」
「名雪だけじゃ、ちょっと不安なのよ」
 香里は、名雪の後ろ姿に視線を向けた。
「もし秋子さんに何かあったとき、冷静に対処できないと思うから」
「うぐぅはこれだしな」
 俺は、袖にしがみついてうぐうぐ言っているうぐぅの頭にぽんと手を置いた。
「うぐぅ、秋子さん……」
「わかった。香里、代返は頼むぞ」
「……ちゃんと石橋に事情は話しておくから」
 クラス委員に代返を頼むのは無謀だったようである。
「よし、あゆあゆ行くぞ」
「あっ、真琴も行くっ!」
 真琴が駆け寄ってきた。俺はその首根っこを掴んで振り返る。
「天野、真琴を頼む」
「……」
 無言で俺を見た後、天野は頷いて真琴に声を掛けた。
「私たちは学校で待ちましょう」
「ええーっ、なんでようっ!」
「真琴。お二人は秋子さんが心配だから戻るんですよ」
「あ、あうーっ」
 天野の言葉に、真琴は困ったようにきょろきょろしてから、仕方なさ気に頷いた。
「わ、わかったわよう」
「よし。後で遊んでやるからな」
「あうーっ、また子供扱いする〜っ!」
「三次方程式がすらすら解けるようになるまでは子供だな」
「……それでは、私も子供ですね」
「訂正だ。三次方程式が解けなくても大人はいる」
「……相沢さん、そんな酷なことはないでしょう」
「祐一くんっ、漫才してる場合じゃないよっ」
 あゆに袖を引っ張られて、俺は我に返った。どうやら俺もかなり動転してるらしい。
「すみません、月宮さん」
 しおらしく謝る天野に軽く手を振って、俺達は駆け出した。

 水瀬家に辿りつくと、玄関のドアが開けっ放しになっていた。そして、名雪の声が外まで聞こえてきた。
「お母さんっ、お母さんっ!」
「名雪、秋子さんはっ!?」
 叫びながら駆け込むと、名雪が廊下に倒れている秋子さんを必死に揺さぶっていた。
「お母さんっ、わたしを置いて行かないでっ!」
「秋子さんっ!!」
 靴を脱ぎ捨てて廊下に駆け上がったあゆが、名雪の隣りにしゃがみ込んで秋子さんの名を呼ぶ。
 そこで気付いたのだが、名雪は靴も脱いでいなかった。
 俺も鞄をその場に放り出し、靴を脱ぎ捨てて廊下に駆け上がった。
「秋子さん!」
 秋子さんの顔は真っ赤だった。額にも汗がにじみ、呼吸も浅く早い。
 一目で尋常ではないのがわかった。
 ど、どうすれば。
 そうだ、まずはベッドに寝かさないと。
「お母さんっ、お願い返事してっ!」
 なおも秋子さんを揺さぶる名雪。
 俺はその名雪の肩を掴んだ。
「名雪、落ち着けっ!」
「お母さん、お母さんっ!!」
「名雪っ!!」
 大声を上げたが、名雪は俺を見ようともせずに秋子さんの名を呼び続ける。
 俺はあきらめて、秋子さんの額に手を当ててみた。
「あちっ」
 尋常じゃない熱さだ。もしかして、40度越えてるんじゃないか?
「と、とにかくベッドに運ぶ。名雪、あゆ、手伝ってくれ」
「う、うんっ」
 頷くあゆ。だが名雪はそれにも応えようとしない。
「名雪さん、祐一くんを手伝わないと……」
「あゆ、いいんだ。足の方を持ってくれ」
「あ、うん」
 俺は、秋子さんの頭の方に回り、背後から抱え上げるようにした。そして、秋子さんの部屋に運んでいく。
 ……考えてみれば、秋子さんの部屋にはほとんど入ったことないんだよなぁ。
 そう思いながら秋子さんの部屋の前まで来たところで、新たな困難に直面する。
「……ドアが開いてない」
「うぐぅ、どうしよう?」
「あゆ、念力だ!」
「うぐぅ、ボク頑張る」
「頑張らなくてもいい。とりあえず足を下ろしてドアを開けろ」
 どうやらあゆもかなり混乱してるらしい。って俺もか?
 あゆがドアを開けて、改めて秋子さんの足を持ち上げる。
 俺達は秋子さんの部屋に入った。再びあゆが、今度はベッドの毛布をめくり上げ、秋子さんを寝かせた。それから俺を見る。
「どうしよう。やっぱりパジャマに着替えさせた方がいいのかな?」
「頼む。俺は病院に電話する」
 確か、電話機の前に、栞の掛かり付けだった巳間って先生への直通の電話番号がメモしてあったはずだ。
「うん」
 決心した面もちで頷くあゆと、なおも名前を呼び続ける名雪の声を背に、俺はドアを閉めた。そして電話に駆け寄った。

 トルルル、トルルル、トルルル
「へいへい。ったく、こんな時に」
 俺はぶつぶつ言いながら、リビングに駆け込んで子機を取った。
「はい、水瀬です」
 もし勧誘セールスだったら10年呪ってやろうと思っていたが、子機から聞こえてきたのは耳慣れた声だった。
『その声、相沢くんね』
「お、香里か。元気そうだな。今どの辺りだ?」
『冗談言ってる場合じゃないでしょ? 1時間目が終わったから、公衆電話からかけてるのよ』
 時計を見ると、ちょうどそんな時間だった。
『それで、秋子さんの容態は?』
「今、巳間先生に来てもらって診察してもらってるところだ」
『そう。あ、栞に代わるわね』
 一拍置いて、今度は栞の声が聞こえた。
『祐一さん、秋子さん、大丈夫ですか?』
「俺は医者じゃないからな……。でも……」
 俺は声を潜めた。
「見ただけなんだが、一番容態の悪い頃の栞みたいだった」
『……』
 息を飲むような音が伝わってきた。と、向こうで声が微かに聞こえた。
『ちょっとしおしおっ、真琴にも代わってようっ! わっ、美汐引っ張らないでっ! あうーっ』
 ……なにやってんだ?
 と、声が変わった。
『祐一さん、佐祐理です』
「あ、佐祐理さんもいるのか?」
『はい、舞も来てますよ。秋子さん、どうですか?』
「俺にはよく……。今医者に診てもらってますから」
『そうですか。すぐに良くなることを佐祐理はお祈りしてます。舞も……』
「ありがとう」
『それでは、そろそろ休み時間が終わっちゃいますから……』
「ああ、わざわざ悪いな」
『いいえ。それではまた』
 カチャン
 電話が切れた。俺は子機をオフにして、元の場所に戻してから、大きくため息をついた。
 と、リビングのドアが開いて、あゆが顔を出した。
「うぐぅ、祐一くん……」
「どうした、あゆ?」
「巳間先生が、話があるって……」
「ああ、すぐに行く」
 俺はあゆのところに駆け寄った。

「どうぞ」
「すまない」
 あゆの入れたお茶を口に含んで、巳間医師は、一瞬形容しがたい表情をした。
「ど、どうしたのっ!?」
 俺も、自分の前に置かれたお茶を一口飲んでみた。それから立ち上がって流しに行くと、全部捨てた。
「うぐぅ、祐一くん、一言くらい何か言ってよぉ……」
「すみません、すぐ入れ直します」
「あ、いや。それよりも秋子さんのことだが……」
 巳間医師は、秋子さんの部屋の方をちらっと見た。今は、少し落ち着いた名雪と、巳間医師と一緒に来た看護婦さん(確か、巳間医師の妹さんだったはず)がついている。
「……皆目判らない」
「……はい?」
「以前、川澄さんを診たときと同じだ。一度ならず二度までも同じことを言わなければならないのは、医師として恥ずかしいが、かといって適当にお茶を濁すわけにもいかないからな」
 そう言うと、巳間医師はバッグからカルテを取り出した。俺には判らない言葉(後で佐祐理さんに聞くと、どうやらドイツ語らしい)で書かれたそれを読み上げる。
「症状は、高熱、発汗、意識不明。脈、呼吸共に早く、血圧も通常の範囲を超えている。何らかの疾患だと思われるが、少なくともここでは詳しい検査も出来ない。医師として、すぐに入院することを命じる」
「入院、ですか?」
「それも、一刻を争う。というわけで、悪いとは思ったが、こちらでもう手配させてもらった」
 白衣の胸ポケットに入った携帯を指して言うと、巳間医師はため息をついた。
「しかし、おそらく精密検査をしても同じような気がする。……医師として言うべき台詞じゃないと思うが……、そんな気がするんだ」
「うぐぅ……」
 あゆが泣きそうな声をあげる。それに気付いて巳間医師は慌てて手を振った。
「あ、いや。でも精密検査をすればきっと病名もはっきりするはずだ。そうしたら何らかの手が打てるに違いない」
「……そうですね」
 俺は頷くことしか出来なかった。

「……というわけで、そのまま病院に入院することになった。手続きは巳間先生と、晴香さんっていったっけ? 看護婦さんに任せた」
『そう。まぁ、あの2人なら安心ね』
 受話器の向こうで、香里がため息混じりに言う。
『それで、名雪とあゆちゃんは、病院?』
「ああ、付き添いで」
『名雪の様子はどうだった?』
「とりあえず落ち着いてた。……でも、やっぱり落ち込んでるみたいで、俺とも一言もしゃべってない」
『……相沢くん』
 香里の、いつになく真剣な声が聞こえた。
『栞には悪いんだけど……。名雪の力になってあげて。今、名雪が頼れるのは、あなたしかいないはずよ』
「もとより、そのつもりだけどな」
『そう。なら、いいわ。それじゃお大事にって伝えてね。放課後、病院に寄るわ』
「いや、直接こっちに来てくれ。巳間先生が言ってた。……多分、面会謝絶になるだろうって」
『……わかったわ。それじゃ、そろそろ3時間目だから』
 カチャン
 電話が切れた。俺は子機を戻して一つため息を付き、ソファにもたれた。
 天井を見上げる。
 ……名雪のやつ、大丈夫かな?
 もちろん、秋子さんのことも心配だが、俺は名雪のことも心配だった。

 がちゃっ
「祐一ーーっ、帰ったわようっ!!」
 玄関のドアが開くと同時に、真琴の元気な声が水瀬家に響き渡った。続いて、だだだだっと廊下を走る足音。
 ばんっ
 おそらくリビングのドアが開く音。
「あれっ? 祐一どこっ!? ……くんくんくん」
 がちゃっ
「こんなところにいた〜っ」
 俺は顔を上げた。
 真琴が、きょろきょろと部屋の中を見回しながら、ベッドに座っていた俺のところまでやってくる。
「ここって、秋子さんの部屋よね」
「ああ」
 秋子さんがしばし横になり、そのままの状態のベッド。
 真琴は俺の隣りに座ると、俺の手にしていたものを見る。
「あ、それ……」
「ああ」
 フォトスタンドには、今より幼い名雪と、変わらない秋子さんが笑顔で写っている写真が入っていた。そして、もう一つ。
「これって、真琴達の撮ったシールだよね?」
 俺の顔と、フォトスタンドを交互に見る真琴。
 そう、いつだったか、みんなで撮ったプリント機のシールだ。後で秋子さんにも1枚進呈したのを、大事にとっておいてくれていたんだ。
 そのシールの余白に、秋子さんの走り書きがある。

 愛しい私の家族

「……祐一」
 真琴が、俺に声をかける。
「秋子さん、戻ってくるよね?」
「……そうだな」
 俺は、フォトスタンドを元の場所に置くと、真琴の耳の出た頭を撫でた。
「絶対、戻ってくるって」
「……うん」
 ぽすっと、真琴は俺の胸に頭を預けた。
「真琴は、また、秋子さんの肉まん食べたい」
「そうだな。戻ってきたら、また作ってもらおう」
「うんっ……」

Fortsetzung folgt

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あとがき

 さて、はやいものでもう11月です。
 うぐうぐ。

 プールに行こう4 Episode 14 00/11/1 Up

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