トップページに戻る  目次に戻る  前回に戻る  末尾へ  次回へ続く

Kanon Short Story #13
プールに行こう3 Episode 37

 夕飯を食ってから、リビングで名雪と並んでテレビを見ていたら、8時を回ったところで、名雪が「ふわぁ」とあくびをした。
「うにゅ……ねむい」
「眠いならさっさと寝ればいいだろ?」
「うん……」
 と、電話が鳴り出した。
 トルルル、トルルル、トルルル
「名雪、電話だぞ」
「うにゅ……」
「うにゅ、じゃねぇだろ?」
「うにょ……」
「うにょ、でもねぇっ」
 と、そんな間抜けな会話を交わしている間に、電話は洗い物をしていた秋子さんが取ったらしい。微かに声が聞こえてくる。
「はい、水瀬です。……あら、倉田さん? ……そうなの? ええ、……ご迷惑をおかけします。……いえ。あ、真琴に代わってくださるかしら?」
「……佐祐理さんからか?」
 俺は、ちょうどテレビがCMに変わったこともあって、立ち上がってダイニングに入った。
 秋子さんが子機を手に話をしている。
「ええ、ご迷惑をおかけしないようにね。……ええ。あ、祐一さん? いるわよ。代わる? ……はい」
 一つ頷いて、秋子さんは俺に子機を差し出しながら小声で言った。
「真琴は、今日は倉田さんのお宅にお泊まりさせてもらうんですって。川澄さんや天野さんも一緒だそうよ」
「了解」
 俺は頷いて、子機を受け取って耳に押し当てた。
「もしもし、真琴か?」
『あっ、祐一。えっと、その、元気?』
「いや、もうすぐ死にそうだ」
『ええーっ!? わ、わかったわよう。すぐに帰るから、それまで死んじゃダメっ!』
「冗談だ、冗談。あと30年は死なないからゆっくり泊まってこい」
『あうーっ、もうっ! 本気でびっくりしたわようっ! 祐一のばかっ!』
「へいへい。天野も一緒だって?」
『うん。なんだかいつの間にかこういうことになっちゃったのよう』
「まぁ、楽しそうでなによりだ。とりあえずそこらでそそうをするなよ」
『そそ? 美汐〜、そそってなに?』
 しまった、そばに天野がいるのか。
 難しい言葉だったらすぐには判るまいと思った俺の判断は甘かったようだ。俺はため息混じりに子機を耳から遠ざけた。
 案の定、離れてても聞こえるくらいの怒鳴り声が子機から響く。
『れでぃーになんてこと言うのようっ!! 祐一のえっち、へんたいっ!!』
「……元気そうね」
 秋子さんがお皿を洗いながら静かに言う。俺は頷いた。
「とっても」
「いえ」
 秋子さんは、ふふっと微笑った。
「あなたが、ですよ」
「……えっと……」
 俺が口ごもってると、秋子さんが子機をちらっと見る。
「いいの?」
「え?」
 言われてみると、子機からはまだ真琴の声が聞こえていた。
『ばかばかっ! ……ちょっと祐一っ、聞いてるのっ!? ……祐一? えっと、祐一、どうしたの? ……あうーっ』
 段々声が心細げになっていく。
 このまま放っておくのもちょっと可哀想だったので、俺は改めて子機を耳に付けた。
『ごめんなさい、祐一。もう大声出さないから、返事してようっ』
「あ〜、もしもし?」
『祐一っ!?』
 受話器の向こうの真琴の声が半オクターブ跳ね上がった。
『あうーっ、よかったぁ……』
「まぁ、とりあえず今日はゆっくりしてこい」
『えっ? あ、うん……。あの、祐一……』
「うん?」
 俺が聞き返すと、電話の向こうで真琴は高らかに言った。
『あたしがいないからって浮気したらだめだからねっ! お休み、祐一っ』
 ガチャン、ツーツーツーツー
 ……しまった。まだあいつの漫画燃やしてなかった。
 子機を握りしめたまま、俺は後悔していた。

 リビングに戻ると、思った通り名雪はソファにもたれてくーくーと寝息を立てていた。
 肩を揺さぶってみる。
「おい、名雪、起きろっ!」
「うー、地震……だぉー」
 ……ダメだ、こりゃ。
 いつもなら秘術を駆使して叩き起こすのだが、今日はなんだかそうするのも可哀想な気がしていた。
 夕方のあの会話のせいかもしれない。
「……しょうがねぇな」
 俺は名雪の身体を抱え上げた。
「よっこらしょっと」
 もっと重いかと予想していたけど、それほどのこともなく、名雪の身体は俺の腕の中にすっぽりと納まった。
「……うにゅ」
 小さく声を漏らす名雪。なんだか妙に幸せそうな顔をしているような気がした。

 階段を上り、名雪の部屋のドアを押して開け(ドアがきちんと閉まっていなかったのは幸いだった)、薄暗い部屋の中を横切って、名雪の身体をベッドに下ろして、俺は大きく息をついた。
 さすがに着替えさせるわけにもいかないので、とりあえずその身体の上に毛布をかぶせると、なんとなく部屋を見回した。
 部屋の隅に、布団が綺麗に畳んでおいてあった。いつでも使えるように。
 あゆが使っていた布団だ。
「……」
 俺は頭を振って、名雪の部屋を出ると、静かにドアを閉めた。

 リビングに降りてくると、テレビを見ながらお茶を飲んでいた秋子さんが顔を上げた。
「すみません、祐一さん」
「いえ……」
 答えてから、俺ははたと思い当たる。
「もしかして、見てました?」
「はい」
 微笑んで答える秋子さん。
 俺は照れくさくなって頭を掻いた。
「えっと、まぁ……、そのままほっとくわけにもいかなかったから……」
「そうですか」
 相づちを打つように言ってから、秋子さんは俺に視線を向けた。
「祐一さん」
「はい?」
「……ごめんなさい。なんでもないわ」
 そう言って、秋子さんは視線を逸らした。
「……?」
 不思議に思ったけれど、問いただすのも妙な感じがしたので、俺はそのまま黙っていた。

 やがてテレビでやっていたドラマも終わり、それをしおに俺は立ち上がった。
「それじゃ、俺はもう寝ますから」
「そう? それじゃ、お休みなさい」
「あ、はい。おやすみなさい」
 挨拶をして、リビングを出ようとした俺の背中に、秋子さんが声をかけてきた。
「祐一さん」
「……はい?」
 振り返ると、秋子さんは少し躊躇ってから、立ち上がった。
「少し、お話しがあるんですけど、いいですか?」
「ええ、かまいませんけど、何ですか?」
 秋子さんは2階の方を見上げて、言った。
「名雪のこと、なんですけど」

 俺と秋子さんは、ダイニングに場所を移した。
「……久しぶりだわ、こんなに静かなのは」
「……ええ」
「静かなのもいいですけど……でも、少し寂しいわね」
「……そうかもしれませんね」
 俺は頷いた。
 秋子さんは、椅子に座ると、頬杖をついた。
「名雪には、ずっと寂しい思いをさせてきてしまったわ」
「……」
「だから、あの子は、別れの寂しさとかそういうものにものすごく敏感な子になってしまった」
「敏感、ですか……」
 いつものぼーっとしてるあいつからは、そんな気配は微塵も感じられないけどな。
 でも、秋子さんは頷いた。そして、俺の目を見る。
「祐一さん。無茶なお願いだとは思うけど……、もうあの子の前から、不意にいなくなったりはしないで欲しいの」
「……まるで、前にもそんなことがあったみたいな言い方ですね」
「……」
 俺の軽口に、秋子さんは沈黙で答えた。そして立ち上がる。
「ごめんなさいね」
 それは、何に対する謝罪の言葉なのだろうか?
「でも、あの子の心は脆いわ。その時そばにいてくれる人がいなかったら、そのまま砕け散ってしまうかもしれないくらい……。祐一さん、出来ればそのとき名雪のそばにいてくれる人が、あなたであって欲しい……」
 そう言ってから、秋子さんは微笑んだ。
「それが、あの子の母親としての願いですから」
「……」
 なんと答えて良いのか判らず、俺が黙っていると、秋子さんは静かに「おやすみなさい」と言ってダイニングを出ていった。

 チッチッチッチッ
 時計が時を刻む音だけが、ダイニングに流れ続ける中、俺は身動きをすることも出来ずに考えていた。
 秋子さんの言葉。
 それは、間違いなく、かつて俺が名雪にしたことを物語っていた。
 名雪の前から不意に消えた、ということ。
 それが事実としたら、それはおそらく7年前の冬の出来事だろう。
 それ以外に名雪の前から不意に消えるようなことをした憶えがない以上、まだ記憶がはっきりしない7年前の冬のことだとしか思えないからだ。
 でも、そうだとすると……。
 名雪はなぜ、そのことについて何も言わないんだろう?
 俺が自分で思い出すのを待っているんだろうか?
 それとも、忘れたままの方がいいと思っているんだろうか?
「……ふぅ」
 ため息をついて、俺は立ち上がった。
 流しのところまで行くと、コップに水を注いで、それを飲み干す。
 ひりつくように乾いていた喉に、水がしみ通るのを感じて、もう一度ため息を付くと、コップを置いて電気を消した。
 パチン
 ダイニングが暗闇に包まれる。
 ドアを開けて廊下に出ると、暗闇の中、階段を上がり、自分の部屋のドアを開けた。
 ドアを閉めて電気のスイッチを入れると、ぱっと部屋が光に満たされる。
 と、外でどさっと雪の落ちる音がした。
 ……なんかこういう音にも慣れてきたな。
 苦笑しながら、ベッドに座る。
 コンコン
 そう、こういう音にも……。
 え?
 コン……コン……
 何かを叩くような音。ドア……じゃない。とすると、窓?
 ……まさか、な。
 なんか神経が過敏になってるんだろう、きっと。
 そう思って、そのまま横に……。
 コン……
 また、音がした。空耳じゃない。
 俺はベッドから起き上がり、窓のカーテンを左右に開いた。
「……うぐぅ」
 雪の積もったあゆが、窓に張り付いていた。

「うぐぅ、死ぬかと思った……」
 ストーブの前で毛布にくるまったあゆががたがた震えていた。
「さすがに、ちょっと意識が遠退いたよ……」
「おまえなぁ。……髪の毛、凍ってるぞ」
「あ、ホントだ」
 軽くあゆが頭を振ると、凍った髪の毛同士が当たってシャリシャリと音を立てる。
「わっ、楽しいね」
「死にかけたわりには余裕ありげだな」
「うぐぅ、祐一くんがさっさと窓開けてくれないからだよっ」
「……さて、と」
 俺は改めてあゆを見た。
「……お前、あゆだよな?」
「え?」
 タオルで氷が溶けだした髪の毛を拭いていたあゆが、顔を上げる。
「うん、ボクあゆだよ」
「だよな。そんなうぐぅなボクはあゆだけだ」
「……なんかひどいこと言われてるよ」
 不満げに膨れるあゆ。間違いなく、こんな変な奴はあゆでしかない。
 でも、だとしたら……。
「えっと……、やっぱり怒ってる?」
 黙ってしまった俺の顔をおそるおそる覗き込むあゆ。
「ごめんなさい……。でも、チャイム鳴らしてみんなを起こしちゃうと嫌だから、それでどうしようかと思ってたら、祐一くんの部屋に灯りがついたから」
「ベランダまでよじ登って来たのか?」
「うん。ボク、木登りとか得意なんだよ」
 嬉しそうに笑う、と、不意にその顔が引きつった。
「でも、暗いし、寒いし、怖いし……、祐一くん窓開けてくれないし、屋根から雪が落ちてくるし、うぐぅ……」
 どうやらベランダのことを思い出しているらしい。
「なんか散々だよ〜」
「日頃の行いだな」
「そんなことないよっ。ボクよい子だもんっ」
「よい子は食い逃げなんてしないぞ」
「もうちゃんとお金払ったもん。祐一くん、いつまでもそのことばっかり言わないでよっ」
 またぷっと膨れるあゆ。
 俺は、そんなあゆの頭にポンと手を乗せた。
「うぐ?」
「なぁ、あゆ。話したいことがあるんだ……」

Fortsetzung folgt

 トップページに戻る  目次に戻る  前回に戻る  先頭へ  次回へ続く

あとがき
 なんとまぁ、これでプールシリーズ通算100話目になります。
 思えば遠くに来たもんだ(笑)

 関係ないけど、某プロバイダの食い逃げCMはなかなか笑えますね(笑)
 そっか、あゆあゆはああいう教育を受けてきたのに違いない(爆笑)

 プールに行こう3 Episode 37 00/7/11 Up

お名前を教えてください

あなたのEメールアドレスを教えてください

採点(10段階評価で、10が最高です) 1 10
よろしければ感想をお願いします

 空欄があれば送信しない
 送信内容のコピーを表示
 内容確認画面を出さないで送信する