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トントン
Fortsetzung folgt
『美坂栞様』のプレートがかかった病室のドアをノックすると、中から返事が聞こえた。
「どうぞ」
俺はドアを開けて、肩をすくめた。
「……なんで香里がここにいるんだ?」
「あたりまえでしょ?」
ベッドの脇に置いた椅子に座ってリンゴを剥きながら答える香里。
病室のドアを閉めながら、俺は首を傾げる。
「今日、学校に来てたよな?」
「ええ。あんまり学級委員が休むわけにもいかないからね」
「まぁ、そこまではよしとしよう。で、ホームルームが終わった後、俺は真っ直ぐにここに来たんだが……」
「賢明ね。他の娘とのうのうとデートなんてしないで真っ直ぐここに来るっていうのは、結構ポイント高いわよ」
「いや、そうじゃなくて……。なんでその俺より香里の方が早いんだ?」
「……」
ストン
香里は剥き終わったリンゴを果物ナイフで両断して、ふっと笑みを浮かべた。
「聞きたい?」
「いえ、いいです」
俺は速攻で首を振ると、改めて栞に視線を向けた。
ベッドに上半身を起こした栞はぷくっと膨れていた。
「よう、栞。今日も膨れてるな」
「祐一さん、誰のお見舞いに来たんですか?」
「お、香里とばっかり話してたから焼き餅か?」
「知りませんっ」
ぷいっと横を向く栞。俺は苦笑した。
「まぁ、3秒もすれば機嫌も直るだろう」
「おもいっきり聞こえてますっ!」
「そっか。じゃあしょうがない。差入れにと思って買ってきたこのアイスは持って帰るとしよう」
「あっ、それずるいですっ」
くるっと向き直ると、栞は笑顔で言った。
「仕方ないですね。今回は許してあげます」
「んじゃ、この冷蔵庫に入れとくから、後で食ってくれ」
「え? 食べさせてくれないんですか?」
「そんな恥ずかしいことが出来るか」
こないだそれに近いことをやったとは、とても言えない俺である。
「残念です」
そんなことを知る由もない栞は、残念そうだった。
俺は香里に向き直った。
「で、いつ頃退院できそうなんだって?」
「本人は至って健康なんだけど、医者が離してくれないのよ」
「はい。もう検査検査検査でうんざりです」
珍しくむっとした顔の栞。よっぽどうんざりなのだろう。
香里は肩をすくめる。
「まぁ、今まで治った例がほとんどないっていうくらいだから、研究したくなるのも判らなくはないけど。でも、あんまりやりすぎるようなら、こっちから出ていくつもりだけどね。ふふふ」
うぉ、香里の瞳がオレンジ色にっ!
俺は慌てて話題を変えた。
「それはそうと、ベッドから起き上がることも駄目なのか?」
「そんなことないですよ。病院の中なら自由に出歩いて良いってことになってますから。外出はまだ駄目みたいですけど」
「よし、それじゃ散歩に行かないか?」
「ほんとですか? 嬉しいです、祐一さんから誘ってくれるなんて」
笑顔の栞。
前の、どこか影のある笑顔と違って、それは本心からの眩しい笑顔に思えた。
「これってデートですよね?」
「……そうなのか?」
「そんなこと言う人、嫌いですっ」
そう言いながらも、栞はいそいそとベッドから起き上がった。
「あ、栞。これ」
そう言って、香里が自分の着ていたジャケットを栞の肩にかける。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「いいのよ。それより、変なことされそうになったら大声上げなさいよね。すぐに飛んでいくから」
「はい」
笑顔で頷く栞。
うーむ、香里ならマジに飛んで来かねないな。注意しよう。
栞はジャケットの上からストールを羽織って、俺に声をかけた。
「お待たせしました。それじゃ行きましょうか」
廊下に出て、俺は栞に訊ねる。
「で、どこかいいところはあるのか?」
「そうですね……。各階に談話スペースがありますけど、みなさん煙草吸ってるからあまり行きたくないです」
ちょっと顔を顰める栞。
「そっか、栞は煙草嫌いなのか。残念だ」
「えっ? あ、でも、祐一さんが吸うのなら、頑張って私も吸ってみます」
「俺も未成年なんだが……」
「そ、そうですよね? よかった」
胸をなで下ろすと、栞はそうだと手を打って、俺に言う。
「屋上に行ってみますか?」
「寒そうだからいやだ」
速攻で却下する。
あゆなら「うぐぅ」とそのまま引っ込むが、栞はさすが香里の妹だった。
「大丈夫ですよ。もしかしたら寒くないかも知れませんよ。それに私なら大丈夫ですから」
「なんでだ?」
聞き返すと、栞はきゅっと自分を抱きしめるようにして答えた。
「祐一さんの愛に包まれてますから、全然寒くなんてないんです。……なんて、ちょっと格好いいですよね」
「さ、帰るか」
「わっ、無視しないでくださいっ」
ガチャ
屋上のドアを開けると、物干し竿に干してある白いシーツが、何十枚も風に揺れていた。
太陽が出ているせいもあって、思ったよりは寒くないが、それでもやっぱり寒い。
「帰ろう」
「今来たばかりじゃないですか」
そう言う栞に背中を押されて、屋上に出る。
栞は大きく背伸びをした。
「ふわぁ〜。やっぱり、外は気持ち良いですね」
「まぁ、そりゃそうかも知れないけどな」
「でも、ちょっとだけ寒いですね」
「それ見ろ。……でも、そういえば、前は、えらく薄着で平然としてたよな」
不意に思い出して栞に訊ねると、栞はちょっとばつの悪そうな顔をした。
「熱があったから、厚着すると暑かったんです」
「そんな状態で外をうろついてたのか?」
「はい」
笑顔で頷く栞。
「私、祐一さんにはいっぱい感謝しないといけないです」
「よせって。大したことしてねぇよ」
「いいえ」
首を振ると、栞は青空を見上げた。
所々にすじ雲の浮いた、冬らしく澄んだ青空。
「祐一さんには、二度も助けられましたから」
「二度?」
一度は判る。妖狐の薬を飲ませたことだろう。
でも、もう一度は?
「……くしゅん」
俺の考えは、栞のくしゃみに遮られた。
「あ、ほら、やっぱり寒いんだろ?」
「そうですね」
栞は、上着をかきあわせるようにして、苦笑した。
「残念だけど、戻りましょうか」
「そうだな」
屋上に通じる階段を降りながら、不意に栞が悪戯っぽい笑みを浮かべて訊ねる。
「……ところで、祐一さん。お姉ちゃんと話してたんですけど……」
「ん、何だ?」
「“お兄ちゃん”と“お兄さん”と“兄さま”のどれがいいですか?」
「……なんだ、そりゃ?」
「お姉ちゃんが、祐一さんはマニアックな趣味があるから、そう呼んだ方が喜ぶって言ってましたから」
……香里のやつ、栞に何を教えてるんだ?
「ネコミミを付けるっていうのも考えたんですけど、本物には負けますし……」
「本物って、真琴のことか?」
「はい」
俺はこめかみを押さえた。
「……あのなぁ……」
「それに、バニーガールは、その、ちょっと無理なことが判りましたから……」
「確かに無理があったな」
「そんなこと言う人はだいっきらいですっ」
栞は胸の辺りを隠すように腕を組んで、ぷっと膨れる。
「いつも言ってますけど、そのうちにおっきくなりますっ」
「いつも言ってるわりには変化ないな」
「そんなにすぐにはおっきくなりません」
「……言ってることに矛盾を感じないか?」
「うーっ。やっぱり嫌いですっ」
本気で怒ってしまったらしい。そのまま足を速めてすたたっと階段を降りていく。
「あ、待てよっ」
「待たないですっ! 祐一さん、そんなに大きな胸の人がいいんなら、川澄先輩の所にでもどこにでも行ってくださいっ」
「悪かったって! 別に胸が小さくても嫌いじゃないぞ」
「ひどいですっ!」
「……どうしろって言うんだ?」
ため息混じりに言うと、栞はくるっと振り返った。
「退院したら、一緒にジャンボミックスパフェデラックス食べてください。それで許してあげます」
「……わかった」
「一緒に食べましょうね」
もう、いつもの笑顔だった。と、不意にその表情が曇る。
「ところで、祐一さん」
「ん? 何だ、栞?」
「……ここって、どこですか?」
「へ?」
俺は左右を見た。
無機質で無個性な扉が並ぶ、病院の廊下。
「病院の廊下」
「それはそうですけど……」
「まさか、この病院の主ともあろう者が、道に迷ったのか?」
「主じゃないですよっ」
膨れてみせてから、不安そうな顔になる。
「どうしましょう?」
「まぁ、山で遭難したわけじゃないんだ。歩いていればそのうちどっかに出るだろ」
「そうですよね」
うんと頷く栞。
「それじゃ、こっちに行ってみましょう」
「……行き止まりだぞ」
「そうですね……」
俺達は、突き当たりの扉の前でため息をついた。
「そもそも、ここは何階なんだろう?」
「あっちに階段がありましたよね。そこに行けば……」
「無計画に増改築を繰り返したに違いないぞ。……待てよ、非常口の表示をたどれば外に出られるんじゃないか?」
「わ、すごいです。全然思いつきませんでした」
「よし、それじゃ行ってみるか」
俺達は、緑の表示を追うように歩き出した。
「……確かに非常口だよな」
結局、「非常時はこのカバーを破って、鍵をあけてください」と書いてあるドアに突き当たり、俺達は途方に暮れた。
「さっきの階段まで戻るか」
「……」
栞は黙って、脇にあるドアを見ていた。
「……栞?」
「祐一さん、ここ……」
栞の指す方。
ドアの上にあるプレートには「特別処置室」と書いてある。そして、ドアの右脇には、他の病室と同じように、中にいる患者の名前の入ったプレートがあった。
その名前は……。
「……へ?」
見間違いかと思って、目を擦ってからもう一度見直してみた。
でも、そこにある名前は同じだった。
栞に訊ねる。
「なぁ……?」
「多分、祐一さんと同じ名前が見えてると思います」
俺達は、顔を見合わせて、もう一度そのプレートを見つめた。
そこには、こう書かれていた。
『月宮あゆ様』
と、不意に後ろから声が聞こえた。
「あら、美坂さん。どうしたの、こんなところで?」
振り返ると、看護婦さんがクリップボードを胸に抱えて立っていた。
「あ、名倉さん……」
知り合いらしく、栞は名前を呼ぶと、病室を指した。
「ここに入っている人のことなんですけど……」
「あら、月宮さんのこと、知ってるの? そっか。7年前は新聞にも載ったものね……」
「7年前?」
栞が聞き返す。
ドクン
俺の心臓が、大きく鼓動を打った。
嫌な予感が胸を締め付ける。
俺はとっさに、手のひらを突き出して看護婦さんの言葉を止めた。
「待った」
「え?」
「……すみません、この子の病室への道、教えてもらえませんか?」
栞の頭にぽんと手を乗せて訊ねる。栞は、ちらっと俺と病室のプレートを交互に見て、それから看護婦さんに言った。
「お願いします」
「……ええ。こっちよ」
怪訝そうな顔をしながらも、看護婦さんは歩き出した。
その後に続く俺に、栞が囁いた。
「大丈夫ですか、祐一さん?」
「え?」
「すごく、顔色が悪いですよ」
「……なんでもない。それより……」
「ええ」
栞はこくりと頷くと、唇に指を当てた。
「今日のことは、二人の秘密、ですね?」
「……悪いな」
「いいえ。それに、二人だけの秘密って、なんだか格好いいですよね?」
栞は微笑んでみせた。
栞の気づかいが、その時の俺には有り難かった。
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あとがき
さて、栞編も一段落して、いよいよKanonの中核とも言うべきあの娘にとっかかりました。
……とっかかるだけで終わるかも知れません。何しろ何も考えてないし(笑)
むしろ、最近姿も見せないなゆちゃんの方が気になります。
予想では、多分家で「まこーまこー」と戯れてるんだと思いますが。
PS
31話と32話は、34話を書いた後に書きました(笑)
PS2
「Kanon」がドイツ語だからです。
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