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Kanon Short Story #13
プールに行こう3 Episode 30

 この病院の2階は、普通の病室はなく、ICUや緊急治療室など、逆に夜中でも稼働している設備ばかりが入っているらしい。そのためか、普通なら灯りが消されているような深夜でも、ここは蛍光灯が煌々と廊下を照らしていた。
 その中を俺達はICUに向かって、小走りに歩いていた。
 と、そのICUの扉が開いた。そして、中から数人の看護婦によって寝台が運び出されてきた。
 思わず足を止める俺達の前を、その寝台が通り過ぎていく。
 寝台の上には、白いシーツが小さな山を作っていた。その下に、小さな白い身体を隠すように。
「……ま、まさか……」
「……えっ? 栞、ちゃん、なの?」
 名雪が呟き、そのまま壁にもたれ掛かった。ずるずると崩れ落ちるように座り込みながら呟く。
「間に合わなかった……の……?」
 と、真琴が首を振る。
「違うよ。あれ、栞じゃない。栞は、まだ……あの中っ!」
 ぴっとICUを指す。
「えっ、違うの?」
 そのまま、廊下の突き当たりのエレベーターに入っていく寝台と、ICUの扉を交互に見てから、名雪は慌てて立ち上がった。
「びっくりした……」
「とにかく、急ぐぞ」
 俺達は、今度こそICUに向かおうとした。
 と、そこから白衣を着た男の人が出てきた。医者か看護士だろう。胸のネームプレートには『第2内科 高槻』とある。
「ん、なんだね、君たちは?」
「あ、すみません。こちらに美坂栞って人がいるはずなんですけど……」
 名雪が訊ねると、彼は頷いた。
「ああ、美坂さんの知り合いかね。それなら、こちらへ」
 言われるままに俺達は、ガラス越しにベッドが見える場所に通された。
「あ、香里……」
 そこに立ち尽くす香里の姿を見て、名雪が声を掛ける。
 香里は、ゆっくりとこっちを見た。
 俺と真琴は、思わず息をのんだ。
 げっそりとやつれた、なんて形容詞が陳腐に思えるほど、香里の容貌は昼間とは変わっていた。
 照明の加減で(だと俺は思いたかった)土気色になった唇が微かに動き、そして、香里はまたガラスの向こうに視線を向ける。
「うん、祐一と真琴も一緒に来たから」
 名雪だけは、香里が何を言ったのかわかったらしい。そう言うと、香里の隣りに並んで立つと、手を伸ばして香里の手を握った。
 俺も、その隣りに立って、ガラス越しにその向こうに視線を向けた。
 白いベッドに横になった、白い少女がそこにいた。
 シーツを掛けただけの身体、外に出ている腕にはいくつもの管を突き刺し、口には酸素吸入器をつけた姿。
 その傍らにはいくつもの無骨な機械が並び、一人の若い医者がそれを見ている。
「ご両親は? ……そう、すぐに来るって……」
 名雪の声に、俺はベッドから視線を外した。
 真琴が俺の腕を引っ張る。
「祐一っ、早くあの薬っ」
「ああ、でも……」
 この状況じゃ、栞のそばに行くだけでもどうすればいいのか……。
 俺は左右を見たが、ここからは中には入れないらしかった。
 扉は、さっきの所だけみたいだが、ここからICUの中を見た限りでは、中の部屋に入るには、さらにいくつもドアを抜けないといけないらしい。
 こうなったら、このガラスを破って突入するのが早いか?
 本気でそう考え始めたとき、バタバタと足音がした。そっちを見ると、秋子さん達が走ってきたところだった。
「お母さんっ、こっちだよ!」
 名雪が呼ぶと、秋子さんが駆け寄ってきた。そして訊ねる。
「栞さんは?」
「大丈夫だよ……」
 そういいながら、名雪はベッドの方に視線を向ける。
 あゆが、べたっとガラスに張り付くようにして、栞を見てから、俺に訊ねる。
「祐一くん……栞ちゃん、大丈夫だよね? 絶対大丈夫だよね!?」
「……」
「うぐぅ……、ボク、やだよ、そんな……」
 俺が答えられないでいると、あゆは目に涙を浮かべた。
「もう、お別れは嫌だよ……」
「あゆ……」
 俺は、一つ深呼吸をして、俺達をここに案内した男に尋ねた。
「この中に入れてもらえませんか?」
「は?」
 思いがけないことを言われた、という表情の男に、俺はもう一度言った。
「栞のそばに行きたいんです」
「お気持ちはわかりますが、それは駄目です。この中は特殊な無菌状態に保たれているのです。普通の人がそのまま入ることはできません」
「でもっ!」
 声をあらげる俺に肩を、名雪がそっと引いた。
「祐一……、栞ちゃんが大切なのは判るけど、無茶言ったらだめだよ。香里だって我慢してるんだよ」
「そうじゃないんだ、名雪」
「えっ?」
 俺の言葉に、名雪は首を傾げた。
「どういうこと?」
「今は説明してられないけど、栞のためにはこうするしかないんだ」
「……うん、わかったよ」
 俺の顔を見て、名雪は頷いた。そして男に言う。
「あの、わたしからもお願いします。祐一を入れてあげてくださいっ」
「まいったな。いいかい、ここは……」
 と、今まで黙って俺達を見ていた秋子さんが声を発した。
「今、ICUを使っているのは、美坂さんだけですか?」
「えっ? あ、はい、現在はそうですが……」
 怪訝そうな顔をしながらも答える男。秋子さんは軽く頷いた。
「なら、無菌状態が破れても、他の人には迷惑を掛けないわけですね」
 秋子さんの言葉に、男は慌てて手を振った。
「いえ、しかし急患が入ってくる可能性は十二分にありますし……」
 その男を無視して、秋子さんは俺に言った。
「祐一さん、栞さんを助けるために、必要なんですね?」
「はい」
 俺が頷くと、秋子さんは微笑んだ。
「了承」
 そして、男に向き直る。
「そういうわけですから、この人を中に入れてあげてください」
「そんな馬鹿げたことができるわけないでしょう! いい加減にしないと、ここからも出ていってもらいますよ!」
 男は秋子さんの肩を掴んで声をあらげた。
「……仕方ないですね」
 秋子さんはため息を付くと、小脇に抱えていたハンドバッグから何かを出して見せる。……あれは、免許証? いや、ちょっと違うみたいだけど……。
 と、男は顔色を変えて秋子さんを見た。それから、もう一度その免許証を見て、慌てて肩を掴んでいた手を離す。
「す、すみませんっ」
 なんだ? 突然態度が豹変したな。
 秋子さんはその男に念を押すように訊ねた。
「よろしいですね?」
「で、ですが、患者のことを考えますと、それだけは許可出来かねますが……」
 秋子さんは、香里をちらっと見て、聞こえないように何か小さな声で言う。
「……」
「わ、わかりました」
 彼は頷いた。

 数分後、四重になっていたドアの最後の一枚が開き、俺はようやくICUの中に入ることができた。
 栞を看ていた医者が、ドアの開く音に振り返り、驚いて俺を案内してきた男に向かって叫ぶ。
「おい、高槻、何をしてるんだ? 部外者を入れるんじゃない!」
 男は肩をすくめた。医者は俺に視線を向けた。
「君、早く出ていってくれないか?」
「それはできない」
「何を……」
 と、不意に脇の機械がピーッと音を上げた。医者が慌てて機械に駆け寄る。
「細菌濃度が危険値だ。まずい。高槻、早くそいつを外に出さないと、患者が危険だ……」
「だが、こいつは……」
 2人がなにやら言い合っている間に、俺は栞のベッドに歩み寄ると、脇に膝をついた。そして、声をかける。
「……栞」
 小さく呟くと、眠っていたはずの栞が、うっすらと目を開ける。
「……祐一……さん」
 酸素マスク越しで聞き取りづらかったけれど、確かにそう聞き取れた。
「そんな莫迦な! この状況で意識が戻るはずが……」
 医者にもそれが聞こえたらしく、こっちに駆け戻ってくる足音が背後に聞こえた。
 ……これは、邪魔だな。
 俺は手を伸ばして、酸素マスクを固定しているテープを外した。
「な、何をするっ! おまえ、患者を殺す気かっ!?」
 慌てて医者が俺に掴みかかってくる。それを男が羽交い締めにして止める。
「待て、巳間! 手を出すなっ!」
「高槻、貴様っ何を考えてんだっ!!」
「仕方ないだろっ、巳間! なにしろ、あの……」
 彼らの騒ぎを背後に、俺は栞の顔を覗き込んだ。
 真っ白な顔、熱のせいか真っ赤な頬、対照的に色を失った唇。
 その唇が動いた。
「それくらいの奇跡、私たちなら、起こせます……なんて、格好いいセリフ、ですよね」
 そう言って、栞は微かに微笑んだ。
「来てくれて、嬉しかったです」
「馬鹿野郎。過去形でしゃべるな」
 俺はそう言うと、ポケットから、真琴のじいさんにもらった竹筒を出した。そして、振り返った。
 ガラス越しに、全員(と言っても舞はいなかったが)が俺をじっと見ている。
 ううっ、やりにくいな……なんて言ってる場合じゃないか。
 栞が、静かに言う。
「もう……いいんです。最後に、祐一さんに……逢えましたから……」
「今、治してやるからな」
 そう言うと、俺は竹筒の栓を抜いた。そして、中身をぐいっとあおると、そのまま栞の唇に、自分の唇を重ねた。
「……っ!」
 栞が目を見開いた。そして、その喉が、こくん、と動く。
 俺はゆっくりと唇を離した。そして、訊ねる。
「……どうだ?」
「……これは、夢、ですよね? 祐一さんが、キス、してくれるなんて……」
「……あのな……」
「でも、ひどいです……。そんなことされたら……死にたくなくなっちゃうじゃないですか……」
「じゃ、死ぬな」
「そんなこと言う人は嫌いです……」
「そんな莫迦な!」
 後ろで、医者の驚いた声があがった。
 振り返ると、まだ男に羽交い締めにされたままの医者が、脇の機械のモニタ画面をのぞき込んでいた。
「この数値は……。おい、高槻、離せっ!」
 医者は男を振り払うようにして、栞の脇に駆け寄った。腕を取って脈を診て、首を振る。
「信じられん。体温、脈拍、呼吸、すべて正常だ……」
「本当か?」
 男も駆け寄ってくる。
「高槻、そっちのモニターを!」
「お、おうっ」
 それと同時に、看護婦が数人入ってくる。
「どうしたんですか、巳間先生? 患者に何か……?」
「えっ? まさか、そんな……」
「どうしたの? ……この数値は!」
 俺は、大騒ぎになっている部屋から、こっそりと外に出た。うっかりここで医者に捕まって説明を求められても面倒だしな。

 幸い、大騒ぎしている医者や看護婦に見咎められることもなく、俺は無事にICUから外に出る事が出来た。
 そこに真琴がだだっと走ってくる。
「おう、真琴! どうやらあの薬は効いたんがっ!!」
 ばきぃっ
 いきなり殴られた。
「な、なにすんだっ!?」
「それはこっちのセリフようっ! 祐一がキスして良いのは真琴だけなのにっ! あれはなにようっ!!」
「薬を飲ませるのに必要だったんじゃないかっ!」
「うぐぅ……。祐一くん、ひどいよっ!」
 うぐぅまでやってきた。
「うぐぅじゃないもん。そうじゃなくてっ! えっと、あんなところで、その、キス、するなんて……」
 なぜかもじもじしながら顔を赤らめるあゆ。
 いかん、こんなところで騒ぎに巻き込まれてたら、逃げられなくなりそうだ。
「と、とにかく俺は帰るっ!」
「うぐぅ、栞ちゃんのそばにいてあげないの?」
「みんなは一旦帰った方がいいと思うわ」
 その声に顔を上げると、秋子さんが笑顔でそこに立っていた。
「どうやら栞ちゃんも、祐一さんのおかげで持ち直したみたいだし。それにみんなは明日も学校があるでしょう?」

 結局、栞の両親が来たところで、俺達は挨拶だけして帰ることにした。もっとも、栞の両親は娘が奇跡的に回復したという話を聞いて、俺達の挨拶なんて聞いちゃいなかったようだが。
 そして、帰り道を歩きながら、俺は真琴のじいさんの話をした。……そうしないと、あゆと名雪と佐祐理さんの冷たい視線にとてもじゃないが耐えられそうになかったのだ。
 だが、その話の流れで、栞が死病を患っていたことを、俺が知りながら他の皆には隠していたことがばれてしまって、3人の視線はブリザードに進化した。
「祐一さんが舞に隠し事をするなんて、佐祐理は悲しいです……」
「祐一、ひどいよ。わたし、もう何を信じていいのかわかんなくなっちゃったよ……」
「うぐぅ……。祐一くん、ボクのこと信じてくれなかったんだ……」
 真琴は真琴で、栞に口移しで薬を飲ませたことを根に持っているらしく、病院を出てから俺に口をきこうともしない。まさしく四面楚歌である。
 俺はため息をついた。
 人生とはかくも過酷なものなのである。

「で、結局どうなったんですか?」
 翌日の放課後。
 一般病棟に移された栞のところに見舞いがてらその話をすると、栞はころころ笑ってから訊ねた。
 俺は窓の外を眺めて答えた。
「これから、イチゴサンデー7つとたい焼き20匹と肉まん1ダースと牛丼10杯奢らないといけないんだ」
「ええと、イチゴサンデーが名雪さんで、たい焼きがあゆさんで、肉まんが真琴さんですよね。でも、そうすると、牛丼って倉田先輩の希望なんですか?」
「ああ、牛丼10杯は『舞と一緒に食べてくださいね〜』という佐祐理さんの所望だ」
「それなら、私はバニラアイス10個で我慢してあげます」
「なんで栞までっ!」
 思わず悲鳴を上げる俺に、栞は唇に指を当てて悪戯っぽく笑った。
「私の唇を奪ったんですから。責任、とってくださいね」
「栞の唇を奪ったんだから、当然ね」
 そばでリンゴを剥いていた香里にまで言われて、俺はため息をついた。
「へいへい。お姫様のご所望のままに」

Fortsetzung folgt

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あとがき
 あ、気が付いたら30話……(苦笑)

 栞は死ぬところまで行きませんでしたが、まぁ理由がありまして。
 死んでしまっても復活させる力があるのは、わんだーぱわふりゃぁなこの連中の中でも舞くらいなものですし、その舞の力は真琴のときに見せたので、いつもいつも舞じゃ興ざめだし、というのがその理由です。
 マコピーは、むしろ復活してからの方がぱわふりゃですから、多分栞もそうなるんじゃないか、と……。しかし、病気が治れば栞が遠慮する理由なんてなくなるからなぁ。祐一の貞操が大ピンチだ(爆笑)

 さて、いい加減に話をまとめないとなぁ……(笑)

PS
 今回については、ある人が感想メールで予想した展開通りでした(苦笑)
 潔く白旗上げます。これ以上私にはどうしようもないです。これ以上を私に求めるよりは、即売会に行って原作者の書いた小説でも手に入れた方が精神衛生上よろしいのでは? などとグラスを片手に投げやりな私。

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