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Kanon Short Story #7
プールに行こう Episode 25

 どれくらい、そうしていただろう。
 ふと、俺は顔を上げて、愕然とした。
「……ここは……」
 いつの間にか、俺は見慣れた場所に立っていた。
 学校の廊下。
 それも、夜。
 窓からは、月の光が射し込んできて、床に窓枠の影を映しだしていた。
 消火栓の赤いランプだけが、自分の存在を誇示するように光っている。
「……幻覚か。ってことは……」

「ぐずぐずしていると、あれも回復してしまうでしょうし……」

 天野の言葉が頭の中で甦った。
 くそっ、回復したってのか。
 俺は、廊下の壁に触れてみた。
 ……これが幻覚なのか?
 手に触れる、冷たく堅い感触。それは間違いなく、学校の廊下の壁にしか思えなかった。
 俺は、左右を見回した。
 俺の背中を、ぞわっと悪寒が走った。
 何かが違う。
 幻覚だと見切っているためか、学校とは何かが違っている、そんな気がした。
 俺は、教室のドアに飛びついて、引き開けた。
 ガラガラッ
「……」
 無人の教室が、そこにあった。
 隣も、その隣も、その隣も……。
 誰も、いない……。
 さらに走ると、階段がある。
 その階段を一気に駆け上がる。
 階段の一番上まで来て、俺は荒い息を付きながら、その前にあるドアをにらみつけた。
 屋上に通じるドア。
 息を落ち着け、俺はそのドアを開いた。

 屋上は、白い月の光に照らされていた。
 静かだった。
 何一つ、動くものはない。
 何一つ、音を立てるものはない。
 俺は、悟った。
 ここには、俺以外には誰もいないんだ、と。

 脱出する方法は、ないんだろうか?
 屋上に据え付けてあるベンチに座り、月を見上げて、俺は考えた。
 脱出するには、どうにかしてこの幻覚を解くしかないんだろう。
 でも、どうやって解けばいい?
 洋館の幻覚が解けたときは……。
 俺は腕組みしてその時の様子を思い出そうとした。
 たしか、名雪とあゆを連れて1階の香里達のいる部屋に行こうとして、その途中の部屋で死体を見たんだよな。
 で、慌てて香里達の部屋に行って、天野にそのことを説明して……。
 そしたら佐祐理さんの悲鳴が聞こえて、慌てて出ようとした時だった。

 そのとき、いきなり頭の中に何か悲鳴のような叫びが響いた。
「ぐっ!!」
 脳味噌にそのまま直に手を突っ込んでかき回されるような、おぞましい感覚。
 上下左右の方向が全然判らなくなる。
 気がつくと、俺は床に倒れていた。

 多分、今にして思えば、あれがあのバケモノの悲鳴だったんだろう。
 で、舞が攻撃をかけて、幻覚が解けた、と。
 ……舞がいないと駄目ってことかよ、おい。
 俺は頭上を見上げた。
 確かに、栞と真琴を掴んだ触手に塩を撒いて撃退したときを除いて、あのバケモノに攻撃をかけたのは舞だけだ。
 舞は、俺には目に見えない魔物を見ることが出来るらしい。多分、同じ理論で、幻覚を見破ってバケモノ本体を攻撃することもできたってことだろう。
 でも、そうだとすれば、俺にはバケモノを攻撃して幻覚を破るすべはない、ってことになる。
 ……絶望じゃないか。
「くそっ」
 俺は、プラスチック製のベンチを腹立ち紛れに叩いた。
 自分の手が痛くなっただけだった。
 あゆも、俺と同じように幻覚に取り込まれちまったんだろうか?
 俺と同じように、たった一人で……。
 怖がりで、暗いところを歩くだけでも、俺にひっついていたようなやつが……。
 助けられるものなら、助けたい。
 でも、それ以前に俺がここから脱出できないと……。

 いつまでこうしてても仕方ない。
 ベンチから立ち上がると、俺はドアを開けて校舎の中に戻ると、階段を下りていった。
 どこに行こうってあてがあるわけじゃなかったけれど、じっとしているよりはましのような気がした。
 一番下まで降りると、踊り場の角を曲がって、廊下に出る。
 そこに、彼女がいた。
 いつもそうしているように、月の光をまとい、そこに佇んでいた。
 いつもと違っているのは、束ねていない髪がふわりと広がっているのと、制服ではなく黒のビキニ姿であることだけ。
 だから、俺はいつものように軽く手を上げて挨拶した。
「よぉ。何してるんだ?」
「……迎えに来たの」
 片手に抜き身の剣を携えて、舞は答えた。

 舞に駆け寄ると、俺は訊ねた。
「迎えに来たって、まさか、佐祐理さんや名雪達も……?」
「私だけ」
 舞は答えた。
「みんなはボートに乗っていった」
「なんでお前だけ……?」
「佐祐理が」
 残って、祐一さんを助けてくれと言ったから、と舞は答えた。
「でも、いくら佐祐理さんに頼まれたからって……」
「私も、そうしたかったから」
「え?」
「祐一には助けてもらった」
 そう言うと、舞は視線を逸らした。
「……それに、心配だったから」
 そう言ったときの舞は、とても可愛く見えた。
 俺は舞の頭を撫でた。
「よし。それじゃさっさと帰って佐祐理さんを安心させようぜ」
 舞はこくりと頷いた。
「で、どうするんだ?」
「中心を捜す」
 いつもの調子で答える舞。でも、ちょっと頬が赤いのは、さっきの名残だろう。
「中心?」
「こいつの心臓。さっきもそうした」
 心臓、か。
「その心臓の場所は判るのか?」
「移動している」
 答える舞。
「移動? 心臓があちこち動いているのか? そんなけったいな生物なんて……」
 いいかけて、俺は口をつぐんだ。
 人に幻覚を見せるくらいだ。心臓が動き回ってもいいだろう。
「さっきは、手負いにしたけど、逃げられた。だから、今度はとどめをさす」
 そう言うと、舞は俺に視線を向けた。
「手伝って欲しい」
「手伝うって、俺がか?」
 俺に何が出来る? 何も判らないのに……。
「校舎から出れば、追いかけてくる」
「え?」
「怒るから」
 舞の言葉というのは、いつも説明が足りない。
 怒るというのは、バケモノが怒る、ということだろう。
「で、なんで俺が校舎から出ると、バケモノが怒るんだ?」
「逃げようとしてるから」
 ふむ、何となく判った。
 逃げようとして外に出ると、バケモノが怒って追いかけてくるってことだな。
 って、追いかけてくるのは心臓だけなのか?
「いろいろ追いかけてくる。心臓以外にも」
 ……勘弁してほしい。
「で、舞はどうするんだ? 校舎から外に出ると、舞だって追いかけられるんだろう?」
 そう言ってから、俺ははたと手を叩いた。
「俺は囮か」
「そう」
 良くできました、と言いたげに頷く舞。
 当たっても、ちっとも嬉しくはないが……。
 どっちにしても、一番戦い慣れしている舞の作戦でいくのが、一番効率いいんだろう。
「わかった。で、何処におびき出せばいいんだ?」
「……中庭」
「了解」
 おどけて敬礼してみせると、俺は駆け出そうとした。
「帰ったら……」
 ぼそっと、舞が言った。
 俺は立ち止まって答えた。
「牛丼、食おうな」
「……うん」
 頷くと、舞は駆け出した。俺とは逆方向に。
 俺も、振り向かずに走った。
 なんとなく、見張られてるような気配を感じる。
 その気配を振り切るように、俺は走った。そして、中庭に通じる鉄の扉にたどり着く。
 良くできた幻覚だよ、まったく。
 心の中で呟きながら、俺はその扉を開けようとした。
 開かなかった。
 まったく、良くできてる。
 心の中で呟き、俺は脇の教室に飛び込んだ。そして、椅子を持ち出すと、扉の脇の窓に叩き付けた。
 ガッシャァァァン
 派手な音を上げながら、窓ガラスが砕けた。
 ついでに、俺は掃除道具箱の中からモップを拝借して、助走をつけて外に飛び出した。

 ザッ
 地面についたと同時に、背後から異様な気配を感じ、俺は飛び退いた。
 ガガガガッ
 地面を何かがえぐっていく。
 来たな。
 普段の俺だったら、恐怖に凍り付いていそうなまがまがしさ。
 だが、その時の俺は、異常に精神が高揚していた。
 帰って、舞と牛丼食べるんだ。
 そのまま、駆け出す。
 足下の土が爆ぜ、左右を風を切る音と共に何かがかすめても、俺は構わずに走った。
 だが……。
 バクッ
 鈍い音とともに、俺の体は地面に転がっていた。
「くぅっ!」
 とっさに、持っていたモップを突き出す。
 手応えあり、と思った瞬間、そのモップが粉々に割れる。
 ……しょせんは幻覚、つまりあいつのものだ。あいつにダメージを与えられるわけがない。
 でも、貴重な一瞬を稼いだ。
 俺は体をひねって起き上がる。体が痛いが、そんなことを言ってる場合じゃない。
 行かなくちゃいけないんだ。中庭まで。
 舞に約束したから……。
「うぉぉぉっ!」
 両腕で頭をかばい、体を低くして俺は駆け出した。
 ピシッ、ピシッ
 何かが体をかすめて、皮膚が裂けて血が流れるのが判ったけれど、それでも走った。
 そして、中庭にたどり着いた。
 誰も、そこにはいなかった。
 てっきり、舞が待っているものだと思っていた俺は、虚をつかれて一瞬立ち止まる。
「舞……?」
 ドン
 鈍い音とともに、俺は思いきり背後からの衝撃を受けて、そのまま地面に叩き付けられた。
 起き上がろうとするが、腕に力が入らない。
 かろうじて、体を回転させて、仰向けになる。
 その目に映ったものは、天高くから舞い降りるもの。
「……せいっ」
 ザシューーッッッ
 そして、剣を振り下ろした姿で、舞がそこに佇んでいた。
 次の瞬間、風景が一転した。
 俺と舞は、粘液に包まれて向かい合っていた。
 と、その粘液が流れる。あらがう事も出来ずに、俺と舞はその流れにのまれて、どこかに流されていく。
 俺は必死になって手を伸ばした。そして、舞の腕を掴むと、引っ張り寄せる。
 舞の緑の瞳が、俺を見つめていた。
 そのまま、俺は舞を抱きしめた。

Fortsetzung folgt

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あとがき

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