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Kanon Short Story #7
プールに行こう Episode 16

 誰かが俺を呼んでいる。
 うるさいなぁ。もう少し寝かせておいてくれよ。
 俺は心の中で呟いた。
 と、耳慣れてしまった目覚ましの声が鳴り出した。
「朝〜、朝だよ〜。朝御飯食べて学校行くよ〜」
 ……なんだよ、もうそんな時間か?
「朝〜、朝だよ〜。朝御飯食べて学校行くよ〜」
 しょうがねぇなぁ。そろそろ起きるか。
「朝……、うっ、ぐすっ」
 なんだ? 最近の目覚ましは泣き出すのか?
 俺はとりあえず目覚ましを止めようと手を伸ばしてばしっと叩いた。
「痛っ! ゆ、祐一? 気が付いたのっ!?」
「え?」
 最近の目覚ましは痛がるのか? それに気が付いたの、とは何事だ?
 俺はびっくりして目を開けた。
 目の前に、真っ青な空をバックにした名雪の泣き顔があった。
「祐一〜っ。気が付いたんだぁっ。よかったよぉっ」
 そのまま、俺の首にかじりつくようにして泣き出す名雪。
「……はぁ?」
「祐一君が気が付いたのっ!?」
 俺が間抜けな返事をしていると、あゆがその俺をのぞき込んできた。
 その瞬間、俺はその背中に4枚の翼があるような錯覚にとらわれた。
 目を瞬いて、もう一度見直してみる。
 そこには、元々佐祐理さんの浮き輪についていたというビニールの羽が付いているだけだった。
「よかったぁ、気が付いて。祐一君がこのままだったら、ボク、ボクっ……うぐぅ」
 涙目になっているあゆ。
 俺は体を起こした。
 そこは砂浜だった。とは言っても、最初に俺達がいた海水浴場ではない証拠に、すぐそばに黒々とした岩が崖になってそびえている。
 崖に囲まれた、それこそ猫の額ほどの砂浜だった。
「あれ? 俺、どうして……?」
 少し考えて、俺は思い出して手を打った。
「そっか。あゆがボートをひっくり返したんだった」
「うぐぅ、ひっくり返したのはボクじゃないよっ」
 泣きながら怒るあゆ。器用な奴だ。
「あーっ、生きてたっ!」
 叫び声に振り返ると、岩場の影から真琴が出てきたところだった。
「おう、生きてたわい」
「ま、あたしが殺すまで死んでもらっちゃ困るもんね〜」
「あのな。それより、何がどうなってるんだ? あゆ、状況を説明しろっ」
「知らないよっ! うぐぅ……」
 まだ怒ってるらしい。
 俺は体を起こして、まだぐすぐす言っている名雪の頭をぽんぽんと叩いてやりながら、あゆに言った。
「悪かった。謝るから教えてくれ」
「……ボートがひっくり返って、ボクも祐一君も海に落ちたんだよ」
「それは知ってる。で?」
「祐一君が溺れて、ボク一生懸命引っ張り上げて、ひっくり返ったボートにしがみついてたんだけど、それ以上何も出来なくて、手を離したら祐一君沈んじゃうし、でもそのままだとボクも一緒に沈んじゃいそうで、でも、でも……」
 しゃべっているうちにその時の事を思い出したのか、また泣き出しそうになるあゆ。でも、ぐっとこらえて話を続ける。
「もう駄目かもって思ったとき、名雪さん達が来てくれて……」
「名雪達が?」
 俺は名雪に尋ねた。
 名雪はこくりと頷くと、顔を上げた。
 涙に濡れた青い瞳を間近に見て、俺はドキリとした。
 名雪って、こんなに色っぽかったっけ?
 ……って、俺は何を考えてんだっ!?
 慌てて首を振って邪念を飛ばす俺。
「……なにしてるの、祐一?」
「いや、首の体操だ」
 俺が答えると、名雪は体を起こして、目元を拭うと微笑んだ。
「いつもの祐一だね」
「……どういう意味だ、名雪?」
「そのままの意味だよ」
 そう言う名雪は、いつもの見慣れたいとこの少女だった。

 名雪達の話を総合すると、俺達とそう変わりはなかった。霧に包まれて方向を見失った後、潮に流され、海草に絡み付かれてオールが使えなくなった辺りまで。
「そのうちに急に波が高くなって揺れだしたんだよ」
「そうそう。すごく揺れたんだから」
 真琴がこくこくと頷く。多分、俺達のボートがひっくり返ったのがその時なんだろう。
「で、しばらくボートにしがみついてたら、波がまた普通に戻って、それからあゆちゃんの声が聞こえたんだよ」
「あゆの?」
「うん。ボク一生懸命助けを呼んだんだよ」
 名雪達が話をしている間に落ち着いたらしく泣きやんでいたあゆが頷く。
「そうしたら、名雪さん達が来てくれたの」
「びっくりしたんだよ。あゆちゃんが「助けて〜」って言ってるから何かと思ったら、ボートはひっくり返ってるし、あゆちゃんが祐一の腕を掴んで、ひっくり返ってるボートにしがみついてるし」
「それ見た途端、名雪ったらすごい勢いで飛び込むしね〜」
 真琴がそう言って笑うと、名雪はかぁっと赤くなった。
「だって、わたしもびっくりしたし……」
「で、俺は救出されたわけか。でも、ここはどこなんだ?」
 俺は改めて砂浜を見回した。
 名雪が答えた。
「うん。それから少しして、ボートがここに流れ着いたんだよ」
「そのボートは?」
「……」
「……」
「……」
 3人は顔を見合わせて、同時に海の方に視線を向けた。
 俺もそっちを見たが、砂浜の向こうは海だ。
 ……そういえば、その辺りに何かを引きずったような跡がついているな。
 嫌な予感を感じながら、俺は訊ねた。
「参考までに聞きたいんだけどさ、もしかしてボートはここにあったのかな?」
 こくりと頷く3人。
「で、今まで忘れてたわけ?」
 もう一度、こくりと頷く3人。
 と、いきなり真琴が逆ギレした。
「なによなによっ! 大体祐一が気絶してるのが悪いんでしょっ!!」
 まぁ、俺の心配でボートどころじゃなかったとすれば、責めるわけにもいかないよなぁ。
 俺はため息をつくと、崖を見上げた。高さは……5メートルってところか。あちこちに出っ張りとかあるみたいだから、登るのはそんなに難しくないだろうけど……。
 ため息混じりに、俺は空を見上げた。
 あゆは木登りが得意だったはずだから、問題ないだろう。真琴も名雪も女の子にしてはアクティブな方だから大丈夫として……。
 問題は俺なんだよな。何しろ、高所恐怖症だし……。
 ……あれ?
 俺は立ち上がると、崖に向かって歩いていった。そして、思った通りのものをそこに見つけた。
「階段」
「いやぁっ、怖い話しないでぇっ!」
 慌てて耳を塞いでしゃがみ込むあゆ。俺は苦笑した。
「じゃあ、リクエストに応えて、恐怖の怪談シリーズ第2弾、“青い血”!!」(ばばーん)
「いやぁぁぁっ!」
 さらに縮こまるあゆ。と、名雪がのんびりと言った。
「あ、わたしそれ知ってるよ〜。『あー美味しい』ってやつでしょ?」
「ネタをばらすなぁっ! ……とと、そんなことしてる場合じゃなかった」
 俺は改めて崖を指した。
「見ろよ、階段が付いてるんだ」
「えっ?」
 名雪達もやって来ると、俺の指しているものを見た。
 崖を巧みに利用しているせいで、ぱっと見にはわからなかったんだが、よく見ると上に続く階段が彫られているのだ。
「よし、上がってみようぜ」
「そうだね。ここにいても仕方ないよね」
「うんうん」
「うぐぅ……、う、うん」
 最後に怖々とあゆが頷いて、俺達は階段を上がることにした。

 階段を上がると、そこには人気のない古い洋館があった。
 俺は振り返って言った。
「塩気のない古い羊羹じゃないぞ」
「誰に言ってるの?」
 名雪が真面目な顔で聞き返した。俺は肩をすくめた。
「言ってみたかっただけだ」
「へ、変だよっ。なんでこんな所にこんな建物があるんだよっ!」
 あゆが怯えながら言った。
 俺は辺りを見回した。思った通り、ここは島らしく、周りはぐるりと海になっている。ここからは俺達の出発した海水浴場は見えない。
 と、いきなり辺りが薄暗くなってきた。見上げると、雲がむくむくと大きくなって俺達の頭上に覆い被さろうとしている。
「お? こりゃ一雨来そうだな」
「えっ?」
 名雪が聞き返したその時、いきなり雷が轟音を立てて鳴った。
 バリバリバリッ
「うわぁぁぁっ!」
 雷にも負けないくらい大きな悲鳴を上げるあゆ。
「ボ、ボク、雷も苦手なんだよっ!」
 ピシャァッ
「きゃぁぁぁっ!!」
 二度目の雷と同時に、大粒の雨が降り出した。
「ねぇ、祐一。せっかくだから、ちょっとあの家で雨宿りさせてもらおうよ」
 名雪が洋館を指して言った。真琴も頷いた。
「そうよね」
「水着だから濡れたって問題ないだろ?」
「気分の問題よっ!」
 何故か怒られる俺。
「えっ? ボク行かない方がいいと思うよっ。ほら、水着だから濡れても大丈夫だ……」
 ズガラガッシャァァァァ
「わぁぁっっ!!」
 言いかけたところで雷が落ち、また悲鳴を上げるあゆ。
「ほら、あゆも大喜びだし」
「うぐぅ……、雷いやぁ……」
「ほら、あゆちゃんかわいそうだよ」
 名雪が言い、俺達は洋館で雨宿りすることになった。

 洋館の玄関にたどり着くと、俺はチャイムを探したが、それらしい物がない。
 仕方なく、ドアを叩く。
 ドンドンドン
「たのもぉ〜」
 ……返事がない。
 何度か叩いてみたが、同じ結果だった。俺は振り返った。
「誰もいないんじゃないか?」
 と、背後でキィッときしむ音を立ててドアが開いた。思わず俺は飛び上がって振り返った。
「あ、ドア開くよ」
 ドアを開けたのは真琴だった。
「……お前なぁ……」
「あれ? あ、もしかして怖いんだぁ。うぷぷぷっ」
 含み笑いをする真琴。俺はむっとした。
「そうじゃない! 他人の家のドアを勝手に開けるなってお前習わなかったのかっ!?」
「知らないわよ、そんなこと。それより、早く入ろう。もうびちゃびちゃで気持ち悪いんだから〜」
 そう言いながら、真琴はドアを大きく開けた。
 まぁ、確かにここで押し問答していても始まらない。俺は肩をすくめて、真琴に続いて中に入った。
 そこは絨毯張りの広いホールになっていた。奧に続くドアがいくつかと、2階に続く階段があるようだ。ようだ、というのは、薄暗くて隅々までは見えないからだ。
 俺の後から名雪が、そして最後に怖々とあゆが入る。
 と。
 バタン
 いきなり玄関のドアがあゆの背後で閉まった。
「うぐぅっ!」
 あゆが硬直したかと思うと、そのままふらっと倒れかかる。それを慌てて支える名雪。
「あゆちゃん、しっかりして! 大丈夫!?」
「……」
 あゆの返事がない。俺は駆け戻った。
「名雪、大丈夫か?」
「わたしは大丈夫だけど、あゆちゃんが……」
 名雪はその場にあゆを寝かせた。俺は口元に手をかざしてみた。
「呼吸はあるな。びっくりして気を失っただけじゃないか?」
「うん、わたしもそう思うよ」
「祐一っ!」
 前の方を見ていた真琴が、俺を呼んだ。とりあえずあゆを名雪に任せてそっちに走る。
「なんだ?」
「これ見て」
 真琴は、床を指した。
 床は絨毯張りになっている。そこに足跡がいくつも付いていた。
 その足跡は、俺達よりも先に続いている。ということは、俺達のものではない、ということだ。
 真琴はその足跡に手を当てて、呟いた。
「湿ってるよ、これ」
「それがどうした?」
「……どうしたんだろ?」
 小首を傾げる真琴。どうやら、意味もなく言ってみただけのようだった。
 それの持つ意味を告げたのは、俺達の話を聞いていた名雪だった。
「……湿ってるってことは、まだそこを通って間もないってことだよね?」
「えっ?」
 俺達は同時に名雪の方を振り向いた。
 言われてみればその通りだ。ずっと前についた足跡ならとっくに乾いているはず。とすると、この足跡は最近、というよりついさっき付けられたばかりということになる。
 俺は、改めてその足跡の付いている方向を見た。が、入り乱れていてよくわからない。
 奧の扉に向かっているものもあれば階段を上がって行っているものもある。
 どっちにしても、俺達のすぐ前に誰かがここを通っていることだけが確かだった。

 屋根を打ち付ける雨の音は、ますます大きくなっていた……。

Fortsetzung folgt

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