Pia☆キャロットへようこそ2014
Sect.43-A
「いよいよ明日かぁ」
「あっという間に来ちゃったね」
我が恋人は、満面の笑顔で俺の手を引きながら、悪魔のごとき宣告をした。
「というわけで、今日中に泳げるようになってもらうね」
ちなみに、俺たちが立っているのは、既に俺にとっては鬼門となった感のある、市民プールのプールサイドである。
「……待て、かおる」
「うん? 何?」
笑顔のままで聞き返すかおるに、俺はプールサイドに立っている時計をさして怒鳴った。
「あと2時間半で何をしろって!?」
午前9時、つまりプールの営業時間が始まると同時に入場した俺たちではあるが、昼からキャロットで働くことを考えると、自由に出来るのはそれだけである。
「泳ぐの」
きっぱり言うと、かおるは腕組みした。
「それとも何? これからずぅっと夏のシーズンは、海にもプールにも行かないっていうの?」
「おう」
俺も負けじときっぱり頷く。と、かおるはむぅーっと膨れた。
「あんただけならどうでもいいんだけど、それってあたしも困るじゃない」
「なんでかおるが困る?」
「あたしに一人で海やプールに行けって言うわけ?」
そう言われた瞬間に、俺の敗北は決定した。
「それで、そんなに疲れた顔してたんですね。美奈、納得です」
バイトの始まる前。
着替えて、休憩室に入ったところで、顔色を美奈さんに見咎められた俺は、これまでのいきさつをそのまま話していた。
ちなみに、女の子の着替えの方がどうしても時間が掛かる。というわけで、休憩室にはまだかおるは現れていない。
「それで、泳げるようにはなったんですか?」
美奈さんに尋ねられて、俺は肩をすくめた。
「いえ。人間は泳ぐようには出来ていないという事実を確認できただけです」
「そうですよねっ!」
いきなり美奈さんは、俺の手をぐっと握った。
「別に泳げるだけが人生じゃないですよねっ、恭一さん」
「……もしかして、美奈さんも?」
俺が尋ねると、美奈さんは、恥ずかしげにこくりと頷いた。
次の瞬間、俺と美奈さんは、がしっと手を握り合っていた。
「同志!」
「仲間ですねっ!」
「……何、情けないことで盛り上がってるんだか」
翠さんが、かりんとうをつまみながら苦笑する。と、美奈さんがじろっとそんな翠さんに視線を向ける。
「翠さんにはわかりませんよっ。美奈が泳げないってだけでどんなに、どんなに、えうっ」
「わわっ、泣かないでくださいよっ! それじゃまるであたしがいじめてるみたいじゃないですかぁ」
慌てて翠さんが、美奈さんを慰めにかかる。
そこに、涼子さんが入ってきた。
「……おはよう、みんな……」
「ど、どうしたんですか?」
見るからに顔色の悪い涼子さんに、美奈さんが驚いた声を上げる。
涼子さんは額を抑えて、首を振った。
「ごめんなさい、ちょっと昨日飲み過ぎちゃって……」
「涼子さんが飲み過ぎってことは、葵さん来てたんですねっ!? どうしてあたしも呼んでくれなかったかなぁ」
こちらもお酒好きな翠さんが膨れる。
涼子さんは力無く首を振った。
「マネージャーとして、今日仕事ある娘を潰させるわけにはいかないもの」
「ご愁傷様です」
俺は、深々と頭を下げた。その間に、美奈さんが部屋の隅にある冷蔵庫を開けて、中から小瓶を取り出す。
「はい、飲み過ぎの薬ですっ」
「あ、ありがとう。……これ、苦いんだけど、しょうがないわよね」
お礼を言って小瓶を受け取ると、涼子さんは栓を開けてぐいっと飲み干した。
「おはようっす」
「おはようございまーす」
元気の良い声を上げながら、七海と更紗ちゃんが休憩室に入ってくる。
涼子さんは、額を押さえながらも、立ち上がった。
「それじゃ、みんなそれぞれのシフトに入ってちょうだい。今日も一日、がんばってね」
「はーい」
みんな、それぞれに返事をして、それぞれの持ち場に散っていく。
ちなみに、今日の俺の持ち場は倉庫整理だった。正直、午前中にさんざん水の中でもがいただけに体力が持つかどうかは判らないけど、涼子さんがあんな状態で頑張ってるのに、シフトを変えてくださいとは言えなかった。
「……ふぅ、男は辛いよ」
「もう、なに言ってんのよ」
廊下に出てため息をひとつ付いたところで、背後からかおるが声を掛けてきた。
「始める前から疲れ果ててるんじゃないわよ」
「誰のせいだ、誰の」
軽く睨み付けてみせたが、やはりお互いに表も裏も知り尽くした仲、それくらいのブラフはぜんぜん効果が無かった。
「あははっ、今日一日頑張ったら、あとは海辺の別荘三泊四日の旅なんだから、頑張れっ」
ぽんと背中を叩かれて、俺は肩をすくめた。
「へいへい」
倉庫に入ると、そこではもう店長さんが作業をしていた。段ボールを棚に入れながら、俺にちらっと視線を向ける。
「やぁ、遅かったね」
「あっ、す、すみませんっ。すぐ入ります」
「あはは、冗談だよ」
笑って、店長さんは別の段ボールに手をかけた。
「それにしても、君が来てくれて助かるよ」
「いえ、そんな……」
俺は、倉庫の入り口に並べられている段ボールを、中身を確かめて所定の棚に入れるという単純労働に着手しながら答えた。
店長さんは首を振る。
「いや。意外とキャロットって男手が足りないからね」
「そうなんですか?」
「ああ。女の子のバイトはそれでも募集すれば来てくれるんだが、男はねぇ。面接でも、女の子目当てが見え見えなんていうのばかりで。男は結局、縁故採用じゃないけど、知り合いの紹介で、っていうパターンが多いな」
「そうなんですか?」
「ああ。ほら、君も前田くんには会ったと思うけど」
「前田さんって、あずささんの旦那さんですよね?」
「そう。その前田くんも、最初は涼子くんの親戚の友達だから、っていうのでバイトに来てもらっていたんだよ」
「へぇ、そうだったんですか」
「でも、奇妙なものでね。その数少ない男のバイトの方が、そのまま残って正社員になってしまうってケースが多くてね。前田くんなんてその最たるところだけど……。あ、そういう意味では僕もそうなんだな」
「店長さんも?」
「ああ。前に話したことなかったかな? 僕も最初はキャロットに就職するつもりなんて全然無かったんだけどさ、君みたいに夏休みにバイトをしてね。結局そのまま就職したってわけさ」
「そうなんですか……」
「でも、あの夏休みに一緒にバイトした女の子で、今でもキャロットに残ってるのは、さとみくらいなんだよなぁ……」
「さとみさんって、奥さんですか?」
「ああ。一時は本店のマネージャーもしてたんだけど、今は事務の仕事をやってくれてるんだ」
「あれ? 本店のマネージャーって、たしか……」
「ああ、志保さんだよ。その辺りはちょっとややこしくてね」
店長さんは苦笑した。
「元々、志保さんって、キャロットが出来た頃から、ずっと親父を助けてくれてた、言ってみれば生え抜きの社員なんだよ。こういう言い方が正しいかどうかは判らないけど、うちのナンバー2って言ってもいい人だ。本店を開店した当初は、親父と二人三脚で頑張ってくれて、それで今のキャロットがあるって言ってもいいと思う」
「そうなんですか……」
荷物を片づけながら相づちを打つ俺に、店長さんは苦笑した。
「つまらないと思ったらすぐに言ってくれていいけど」
「あ、いえ、そんなことないですよ。むしろおもしろいです」
元々、俺もこういう歴史ってやつを聞くのは嫌いじゃない。授業でも日本史と世界史取ってるし……って、これはあまり関係ないか。
「で、本店が順調に軌道に乗って、この2号店が開店されて、僕が預かることになった。と言っても、あのころは僕も学校を出たばかりのひよっ子でね。ま、今でもそうだけど、当時はもう何も判らなくてね。そういう意味で、涼子くんと葵くんには随分助けられたよ。あの2人がいなかったら、多分2号店はダメになってただろうな」
「へぇ……」
「2号店も2人のおかげで、それに、もちろん前田くんやあずさくん、それに大勢のみんなの助けでどうにか軌道に乗ったところで、3号店、4号店と展開していったんだけど、志保さんはその3号店の店長をしてた時期もあったんだよ。それで、その間、さとみが本店のマネージャーをすることになったんだ。最初はそのままでいくことになっていたんだが、さとみに子供が出来てね」
店長さんは照れくさそうに頭を掻いた。
「それで、さとみが産休の間、本店のマネージャーをやれる人材がいなくて、志保さんに戻ってもらったんだ。……っていうのはまぁ、表向きの話でね。実際には、親父が志保さんを口説いて戻ってもらったんじゃないかと思ってるんだ。実際、親父達が再婚したのはそのすぐ後だったしね。ま、本店の店長は親父がやってるんだけど、実際には親父はグループ全体を見ないといけないから、志保さんがマネージャーと言いつつも実質的には本店の店長なんだよ」
「その後産まれたのが、さくらちゃんと志緒ちゃん、と」
「そういうこと」
店長さんが頷いたとき、表でトラックの止まる音が聞こえた。
業者の人が、材料を持ってきた音、つまり俺たちに取っては戦いの始まる音である。
明日からはお盆休み、ということで、今日は終業後に、全員集まっての集会があった。
涼子さんがクリップボードを片手に、注意事項を述べる。
「……というわけで、明日から土曜日まで、キャロットはお休みになります。みんな身体には気を付けて、休み明けには戻ってきてくださいね」
「はーい」
全員の答えに満足そうに頷いて、それから涼子さんはトン、とクリップボードを叩いた。
「それじゃ、これで解散です。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした〜っ」
途端に騒がしくなる店内。こういうとこ、終業式の最後のホームルームが終わったところに似てるな、と思いながら、俺は七海に尋ねた。
「念のために確認しとくけど、明日は9時に駅前でいいんだよな?」
「駅前の、南口バスターミナルでしょ?」
かおるが口を挟む。
七海は「ああ」と頷いた。
「ま、同じ寮だから一緒に行けば大丈夫だろ」
「そこから別荘までは、更紗ちゃんのところの車で送ってもらうんだよね」
「はい」
笑顔で頷く更紗ちゃん。
「さくらちゃんも志緒ちゃんもOK?」
「うん、ボクは了解!」
「はい。志緒ちゃんはちゃんと連れて行きますから」
「うーっ、ボクそんなに信用ない?」
じろーっとさくらちゃんをねめつける志緒ちゃん。さくらちゃんはさりげなく視線をあさってにそらした。
「さぁ、どうでしょう」
「でも、とても楽しみデス」
よーこさんが両手を組んで、笑顔で言った。
「ワタシ、日本の海はあまり行った無いですから」
「ま、骨休めにはちょうど良いって所かな。あとは、美樹子センセから緊急呼び出しがかかんないことを祈るのみ」
翠さんは、祈るようにつぶやいた。
向こうでは、あずささんが携帯を片手に、美奈さんに声をかけている。
「あ、ミーナ、耕治くんが車で迎えに来てくれるって。一緒に帰りましょうか」
「お姉ちゃん、今日は直接家に帰るんですか?」
「うん。久しぶりにおじさんやおばさんにも会いたいからね」
「わぁ、ミーナ嬉しいです」
ぽんと手を合わせて喜ぶ美奈さん。
俺はかおるに声を掛けた。
「それじゃ、俺たちも帰ろうか」
かおるは、笑顔で頷いた。
「うん、帰ろ、恭一」
To be continued...
あとがき
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