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Kanon Short Story #13
プールに行こう3 Episode 56

「それ、本気ですか、秋子さん?」
「ええ」
 火曜日。つまり、あゆが目覚めた翌日。
 朝食の席で秋子さんが、さらりととんでもないことを言い出した。
「あゆちゃんは、私たちが引き取ることにしました」
「それじゃ、お部屋の用意しないといけないね」
 イチゴジャムをたっぷりつけたトーストをかじりながら頷く名雪。
「ええ。祐一さん、名雪、今日学校から帰ってきたら、手伝ってね」
「うん、わかったよ」
 平然と会話を勧める名雪と秋子さん。
「ちょ……」
「ちょっと待って下さいっ」
 俺より早く栞がツッコミを入れた。
「どうしてあゆさんを秋子さんが引き取るんですか? あゆさんのご家族だっていらっしゃるんじゃ……」
 栞の質問に、秋子さんは微かに厳しい表情を見せた。
「あゆちゃんのご両親はもうお二人とも亡くなっていらっしゃるの。今までのあゆちゃんの入院費とかは、あゆちゃんのご両親の遺産から支払われていたのよ」
「……そうだったんですか」
 母親が死んだ、って話は聞いてたけど、そうか、父親もそうだったのか……。
「7年前、あゆちゃんのお母さんが亡くなった後、その遺産を巡って親戚の間でいろいろあって、あゆちゃんはかなり辛い思いをしたみたい。だから、余計に祐一さんと遊ぶのが楽しかったのね」
 秋子さんは目を伏せた。
「その遺産も、7年の間に、あゆちゃんの入院費でほとんどなくなってしまっていたのよ。そうなると……」
 そこで口をつぐむ秋子さん。でも俺も栞も、その先は言われなくても想像できた。
「いまさら目を覚まされても困る……というわけか」
「そんなのひどいですっ! あゆさんが可哀想過ぎますっ」
 珍しく大声を上げる栞。秋子さんは静かに頷いた。
「これ以上あゆちゃんが傷つくのは、私も見たくないですから」
 栞は、納得したように頷いた。
「事情は判りました。あゆさんを引き取ることは、私もいいことだと思います。……でも、それじゃ……」
 ちらっと俺を見る栞。
「ん、どうした?」
「なんでもないですっ。そんな祐一さん嫌いですっ」
 ……俺がなにをした?
「栞ちゃんも、いっそのことうちの娘にならない?」
 いきなりとんでもない事を言う秋子さん。
 栞はほっぺたに指を当てて考え込んだ。
「うーん。それも魅力的ですけど……。でも、やっぱり私にはお姉ちゃんもいますから」
「残念ね」
「……つまり、どういうことなのようっ」
 わけがわからないという顔をしていた真琴が声を上げると、名雪が嬉しそうに言う。
「つまりね、あゆちゃんも私の妹になるんだよ」
 ……確か、あゆの誕生日は1月4日って言ってたな。名雪は12月23日生まれだったから、確かに名雪の方が年上だ。……10日ちょっとだけどな。
「真琴のお姉ちゃんがもう一人増えるのよ」
「……あゆが真琴のお姉ちゃん?」
 秋子さんの言葉にきょとんとする真琴に、栞が声をかける。
「頑張ってくださいねっ」
「あう〜っ、よくわかんないけど、真琴は負けないわようっ」
 拳を振り上げて高らかに宣言する真琴。
 何故そういう話になるんだ?
 俺は苦笑しながら、パンを口に運んだ。
 一方……。
「ジャム、相当嫌いじゃない……」
 舞はその間、一人黙々と、ジャムをパンに塗っては食べていた。

「……というわけで、退院したら多分あゆもこの学校に編入されるってことになるだろうな」
 昼休み、俺は香里や佐祐理さん、天野といった面々にも事情を説明した。
「なにぃっ!? それじゃ月宮さんがクラスメイトになるのかっ! いやっほうっ!!」
「……いたのか、ロリ好みのブッシュ斉藤」
 俺が声を掛けるよりも早く、ブッシュ斉藤はパラパラを踊りながら教室を出ていってしまった。
 一瞬の空白の後、佐祐理さんがぽんと手を叩いて、嬉しそうに言った。
「それじゃ、あゆちゃんが退院してきたら、お祝いしないといけませんね〜」
「そうですね。色々とあったし……」
 香里も頷く。
 俺は指を折って数えた。
「えっと、栞の快気祝いと、あゆの快気祝いと……」
「真琴のお祝いもまだしてませんよ」
 天野が言う。
 佐祐理さんが笑顔で言う。
「それから、舞の悲願成就のお祝いもしてくださいね〜」
「佐祐理の退院祝いも」
「え〜、佐祐理はいいですよ〜」
「よくない」
「それじゃ、両方やろうよ。ね、祐一」
 名雪が口を挟んで、佐祐理さんは嬉しそうに頷いた。
「あ、それがいいですね〜」
「それから、天野のコスプレデビューと……」
「それは違います」
 そう言ってから、天野は微笑んだ。
「でも、パーティーは良いと思います」
「あっ、そうだっ」
 佐祐理さんがぽんと手を打った。
「せっかくですから、プールでやりませんか、パーティー」
「プール?」
「はいっ」
 にこにこしながら言う佐祐理さん。
「それは……」
「それは良い考えっすね、倉田先輩っおぶし!」
 どこからともなく出現した北川が、佐祐理さんの手をぐっと握り、舞にど突き倒された。
「うるさい。……でも、良い考えだと思う」
「ねっ、舞もそう思うでしょ?」
 北川に手を握られたことなど気にも留めていない様子の佐祐理さんだった。
 俺は、北川の肩を叩いた。
「いくら香里が難攻不落だからって、ここにきて目標変更はどうかと思うぞ」
「お前と違うわっ! 俺はずっと美坂香里一筋に……」
「目からびぃむ」
 ちゅどぉぉん
 爆炎に包まれる北川を眺めながら、俺は香里に話しかける。
「どうせふっ飛ばすんなら、最後まで言わせてやればいいのに」
「いやよ」
 一言で済ませると、香里は佐祐理さんに尋ねた。
「でも、そんなことできるんですか?」
「そうですね。今日にでも、お父様にお願いしてみます」
 佐祐理さんはそう言って微笑んだ。
「きっと、お父様も賛成してくださいますよ」
「それじゃ、私お弁当作っていきますね」
「あっ、真琴も作る〜っ!」
「みんなで作ればいいよ」
「……そんな事言って、名雪、あなた起きられるの?」
「くー……」
「寝るなぁっ!」
「あはは〜っ」

 授業が終わり、俺は約束の場所に向かった。
 みんなにも、来ても良いとは言ったのだが、どうやらみんなの方が遠慮したらしく、俺は一人で行くことになった。
 目の前を遮る梢を払いのけ、雪を踏みしめながら歩いていると、やがてその場所にたどり着く。
 森の中にぽっかりと開いた空間。そこにある巨大な樹の切り株。
 そして、その切り株にちょこんと座った人影。
 俺はその人影に声をかけた。
「よう、不審人物」
「うぐぅ……遅いよ」
 そいつは、ぷっと膨れて俺を見上げる。と、頭に乗せた帽子がずれて落ちかけ、それを慌てて両手で押さえる。
「いや、色々とあったんでな。で、それは新手のイメチェンか?」
「違うもん」
 俺は、既に大方の予想はついていたが、あえて尋ねる。
「それじゃ、どうしたんだ?」
「……祐一くん、もう声が笑ってるよ」
「そっ、そんなことはないぞっ。それよりどうしたんだ? 正直にゆえ」
「祐一くんが昨日、ロングヘアが似合わないって言うから……」
 うぐぅ、と俯く。
「散髪屋さんに行ったら、いっぱい切られた……」
「……ぷっ、くくっ」
「うぐぅ、笑わないでよっ」
「いや、しかし……くくっ」
「うぐぅっ、もういいもんっ」
 拗ねてぷいっと横を向くあゆに、俺は商店街に寄って買ってきた紙袋を差し出した。
「いや、悪かった悪かった。お詫びにこれをやろう」
「……あっ」
 その紙袋の中から漂う香ばしい匂いに、あゆはこっちに向き直る。
「祐一くん、これって、たい焼きだよねっ?」
「ああ。これやるから、その代わりに帽子取って見せてくれ」
「……うぐぅ」
 あゆはしばらく迷ってから、ゆっくりと帽子を取った。
「……わははははははっ」
「うぐぅ、やっぱり笑った……」
「わ、悪いっ、くくっ、す、好きなだけ、食ってくれっ」
 俺は体を折り曲げて笑いながら、あゆにたい焼きの入った紙袋を渡した。
「うぐぅ……、もういいもんっ」
 あゆは俺に背を向けて、たい焼きを食べ始めた。

「……ふぅ」
 しばらくして、ようやく笑いが収まったので、俺はこっちに背中を向けているあゆに歩み寄った。
 ちなみに、もうたい焼きは食べ終わったらしく、畳まれた袋が脇に落ちている。
「あゆ……」
「……」
 まだ拗ねているらしく、あゆはこっちを見ようとしない。
 俺は後ろから、そっとその小さな体を抱きしめた。
「また、逢えたんだな」
「……うん」
 あゆは、俺の手の上に、自分の手を置いた。
「ボク、約束は果たせたかな?」
「……ああ。ここで逢おうって約束は、ちゃんと果たせたぞ」
「うん……」
 しばらく、俺達はそのまま、感慨に浸っていた。

 やがて、あゆが身じろぎした。
「祐一くん、そろそろ帰らないと……」
「ああ、そうだな」
 俺は頷いた。
 いつしか、空がオレンジ色に染まり始めていた。
 と、不意にがさがさっと茂みが揺れたかと思うと、真琴がひょっこりと顔を出した。
「あーっ、こんなところにいたーっ」
「なんだよ、真琴?」
「夕ご飯出来たから呼びに来たのようっ!」
「そっか」
 俺が頷くと、真琴はとたたっと駆け寄ってきた。
「ちゃんと呼びに来たんだから、ごほうびちょうだいっ」
 しまった、と思ったときには、もう真琴は俺の唇に自分の唇を押しつけていた。
「わっ、わわっ! ゆゆゆ祐一くんっ!」
 なぜか俺よりも俺の前にいたあゆの方が動揺していた。
「ボボボボボクそういうことはいけないと思うんだよっ!」
「えへへっ、ごちそうさまっ」
 真琴は口を離すと、ぺろりと唇を舐めて笑った。
「うぐぅ……、祐一くぅん」
「いや、俺に言われても……」
「ほらほら、行くわようっ!」
 意気揚々と森の中に入っていく真琴。と、振り返った。
「もうっ、早くっ!」
「……へいへい」
 俺は立ち上がると、あゆに言った。
「んじゃ、行こうぜ……って、なんだ?」
 あゆは、俺の服の裾を握っていた。そして、俺を見上げる。
「祐一くん、ボクも……その……」
「なんだよ?」
「……キス、欲しいな」
「秋子さんに揚げてもらえ」
「うぐぅ……それは魚のきすだよ……」
 涙ぐむあゆに、不意打ち気味にキスをする。
「あっ……」
 すっと唇を離すと、俺は、ぽわーっとしているあゆの頭を撫でた。
「7年たったんだよな、あれから」
「……うん、そうだね」
 あゆは、ぽわーっとしたまま、俺の胸に頭をこつんとぶつけた。
「ボクも、ちゃんと7年分成長しなくちゃね」
「特に胸とか?」
「うぐぅ……ぜったいおっきくなるもんっ!!」
 と、どだだっと駆け戻ってきた真琴が、俺を後ろからぐいっと引っ張った。
「だめーっ! 祐一は真琴のだもんっ!!」
「うぐぅ、そんなのずるいよっ。ボクだって、ボクだって祐一くんのこと……」
「いいから、ほら、帰ろうぜ」
「……?」
 不意に、真琴が耳をぴくっと動かした。
「誰か来るよっ」
「え?」
 と、茂みががさがさっと揺れたかと思うと、ひょっこりと舞が顔を出す。
「舞?」
 こくりと頷くと、舞は脇に退いた。
「いつまでたってもみんな帰ってこないから、私たちが行くことにしたんですよ」
 そう言いながら、その後から秋子さんが出てきた。そして栞と名雪もその後から続いて出てくる。
「祐一、夕御飯持ってきたよっ」
「みんなで一緒に食べましょう」
 そう言いながら、両腕に抱えていたバスケットを下ろす2人。
 と、秋子さんがあゆに気付く。
「あら、髪切ったのね」
「うぐぅ……。似合わない……よね」
 帽子を胸に抱えて呟くあゆに、秋子さんは静かに答えた。
「とってもよく似合ってるわよ、あゆ」
「えっ?」
 一瞬きょとんとするあゆに、名雪が笑顔で言う。
「あゆちゃんは、今日からわたしの妹だよっ」
「……それって……」
 俺に視線を向けるあゆに、俺は頷いた。
「ま、そういうことだ。つまり、あゆに頼りない姉と手の掛かる妹が出来たってことだな」
「誰が手の掛かる妹ようっ!」
「ひどいよ〜。わたし、頼りなくないよ〜」
 抗議の声をあげる真琴と名雪、そして黙って微笑んでいる栞。
 あゆの表情がくしゃっと歪んだ。
「……うぐぅ、ボク……」
「そのお祝いも込めて、ちょっと今日は張り切ってみました」
 そう言いながら、切り株の上にバスケットから出した料理を並べ始める秋子さん。
「でも、もう暗くなるんじゃないですか?」
「大丈夫ですっ。今日はランタンを持ってきてますから」
 そう言いながら、大きなランタンを出す栞。
「……栞」
「あ、マッチですか? 大丈夫ですよ。忘れてくるなんてギャグをするはず無いじゃないですか」
「いや、そうじゃなくて、そのランタン、どこから出した?」
「どこって、ポケットに入れてきたんですけど……」
「……やっぱり四次元?」
「そんなこと言う人は嫌いですっ」
「……お腹空いた」
「舞、お前もちょっとは手伝えっ」
 賑やかな笑い声が、森の中にこだました。

『朝〜、朝だよ〜』
 枕元から聞こえる名雪の声に、起こされる。反射的にボタンを叩いて目覚ましを止めると、俺は身体を起こした。
 あれから数日がたった。
 秋子さんの裁定により、俺が許可しない限りは勝手に部屋の中に入らない、という協定が結ばれたおかげで、ここ数日は静かな目覚めを迎えることが出来ていた。
 ……俺のこれまでの経験に基づく推測では、あと数日で真琴あたりが協定破りを起こして、その後うやむやのうちに破棄されてしまいそうだった。つまり、のんびりできるのも、あと数日ってことだ。
 俺はため息をつきながら起き上がろうとして、ふと目覚ましに視線を向けた。
 そういえば、昨日、名雪が「ちょっと返して。夜にはまた貸してあげるから」って言って持っていってたんだよな。
 もう一度ボタンを叩いて、名雪が吹き込んだメッセージの続きを再生してみる。
『朝ご飯食べてプールに行くよ〜』
 ……なるほど、そうか。今日は日曜だったな。
 俺はカーテンを開けた。さっと明るい光が部屋に射し込む。
 今日もいい天気のようだった。
『朝〜、朝だよ〜。朝ご飯食べてプールに行くよ〜』


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