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Kanon Short Story #7
プールに行こう Episode 30

「天野、キミだっ!!」

「あ、そうですか」
 ……。
 天野のあまりといえばあまりなリアクションに、バスの中は静まり返った。ちっ、盛り上がりってものを理解してない奴め。
 と思ったが、静まり返ったのは天野のリアクションのせいでもなかったようだ。
「そっか。そうだったんだ。わたし、全然知らなかったよ」
 名雪はそう言って俯いた。
「今までごめんね、祐一……」
 ちょ、ちょっと、おい?
「そうだったんですか……」
「ボク、知らなかった……」
 あれ? なんで栞やあゆまで俯いてるんだ?
 と、いきなり真琴がつかつかっと近づいてきた。
「お? なんだ、まこっ」
「ばかーっ!!」
 バキィッ
 いきなりぶん殴られて、俺はバスの床にひっくり返った。
「なっ、なにすんだっ!」
「わかんないわよっ! なんだかわかんないけど滅茶苦茶腹が立ったのようっ!」
「あのな……」
 床に手をついて、起き上がりながら文句を言う俺。
「冗談言っただけで殴られちゃたまらんわいっ!」
「ええっ? 冗談!?」
 素っ頓狂な声を上げたのはあゆだった。
「……そんな冗談言う人は、大嫌いです。すごくびっくりしました」
 胸をなで下ろすようにしてほっと一息付く栞。
「もうっ。そんな冗談ダメだよ。天野さん傷ついちゃうよっ」
 ……そう言ってる割には嬉しそうだな、名雪。
「すまん、天野」
「……迷惑です」
 天野はあっさりと答えた。そして、そっぽを向く。
「私は誰とも付き合うつもりはありませんから。……特に、相沢さんとは絶対に付き合わない事に決めました」
 うーむ、怒らせてしまったな。後でもう一度謝っておこう。
 その時、殺気を感じて俺は振り返った。
「嘘を付いたってわけね」
 香里が笑顔で言った。そして、俺の両肩をがしっと掴んだ。ちょっと、マジ痛いんすけど。
「みんなをおちょくるなんて、いい度胸してるじゃない。特に栞をもてあそんだ罪は重いわ」
「ま、待て香里っ! 栞をもてあそんでなんて……」
「ううっ、私、祐一さんのこと、信じてたのに……」
「こらっ、栞、泣き真似するなっ! 落ち着け香里っ!」
「さぁ、今度こそ本当の事を言ってよねぇ〜」
 笑顔のままで言う香里。肩に爪が食い込んでて痛いぞ。
「わかった、わかったから放せっ!」
 俺はやっとの事で香里から逃れた。と、その目の前にマイクが突き出される。
「で、誰なんだ?」
「北川、お前なぁ……」
「正直に言ってしまえ。ホレホレ」
 バスを見回すと、再びみんな真面目な顔で俺をじぃーっと見つめていた。もっとも天野だけは、興味なさそうに窓の外を眺めていたが。
 俺は覚悟を決めた。
「判った。言うよ。俺は……」
 ごくり、と誰かが生唾を飲み込んだ。
 マイクを握りしめて、俺は叫んだ。

「俺は、みんな大好きだ〜っ!!」

 名雪が笑顔で運転席に声を掛けた。
「ねぇ、お母さん」
 キーッ
 バスが、赤信号で停車した。そして、秋子さんが振り返った。
「どうしたの、名雪?」
「やっちゃっても、いいかな?」
「了承」
 1秒だった。

 意識が浮かび上がってくる。と同時に、周囲の喧噪が耳に聞こえてきた。
「……あれ?」
「気が付きましたか?」
 静かな声に、俺は体を起こした。
 どうやら、駅前のベンチに寝かされていたらしい。
 辺りを夕焼けがオレンジ色に染めている。ってことは、結構時間が過ぎてるってことだ。
「……つつ」
 体に痛みが走り、俺は思わず声を上げた。
「あまり無理に動かない方がいいですよ」
 その声に、俺は視線を走らせた。
 隣のベンチに座っていたのは、天野だった。手にした文庫本から視線を逸らさずに言う。
「他の皆さんは別の所に行っています」
「別の……?」
「水瀬先輩のお母さんと、倉田先輩、川澄先輩は、市役所に車を返しに行きました。水瀬先輩達は、薬局に行きました」
「薬局……?」
「はい。湿布を買いに行く、と言ってましたけど、やっぱり相沢さんと顔を合わせづらかったんでしょう」
 淡々と答える天野。
「それじゃ、天野は?」
「荷物の見張り番です」
 そう言われてみれば、俺の寝ているベンチの周りには、みんなのバッグが置いてある。
「ついでに相沢さんも」
「……俺はついでか」
 苦笑して、俺はまた走った痛みに顔を顰めた。
「しかし、みんな無茶苦茶してくれるぜ……」
 何も答えない天野。ただ、一瞬俺に向けた視線は、どう見ても俺を非難しているようにしか見えなかった。
「なんだよ、俺が悪いとでも言いたげだな」
「……はぁ」
 ため息をつくと、天野はそのままぱたんと文庫本を閉じた。それから、俺に視線を向け直す。
「判ってないですね」
「何がだ?」
「……優しすぎるのは、残酷なんですよ」
 そう言うと、天野は立ち上がった。そして、脇に置いてあったバッグを肩に掛ける。
「それでは、失礼します」
「お、おい……」
「相沢さんが気が付いたのなら、私が荷物番をしている必要もありませんから。皆さんによろしく言っておいてください」
 天野はそのまま歩き去りかけて、不意に立ち止まった。そして肩越しに振り返る。
「今日は、楽しかったです」
 その時の天野の表情は、俺の見間違いじゃなければ、初めて見た満面の笑顔だった。

「あっ、祐一くんっ!」
 天野の小柄な姿が雑踏に紛れて見えなくなってからも、ぼーっとそっちを見ていた俺は、耳慣れた声に現実に引き戻された。
 引き戻されついでに、すっとベンチを立ち上がる。
 ゴン
 鈍い音とともに、木製のベンチの、ちょうど俺が座っていたところに、あゆが顔面から突っ込んでいた。
「おい、大丈夫か?」
「……」
 返事がない。
「もしかして、全然痛くないとか」
「そんなことないよっ! すごく痛かったよっ!!」
 がばっと顔を上げて、あゆが半泣きになりながら俺に食ってかかる。
「あ、気が付いたんだね」
 その声に、俺は顔を上げる。
「よぉ、名雪。さっきはよくも殴り回してくれたなぁ」
「あれは相沢くんが悪いんでしょ」
 肩をすくめながら、香里が言った。その後ろから北川が叫ぶ。
「そうだ。なんてうらやましいことを……」
 バキィ
 無言で香里の放った裏拳で、そのまま轟沈する北川。
 そっちには目もくれずに、香里は言葉を続けた。
「まぁ、あんなしょうもない答えじゃ誰も納得しないわよね」
 うんうん、と頷く名雪、あゆ、栞といった面々。
 香里は腕組みして、言葉を続けた。
「でも、まぁよく考えてみたら、あんなところですぐに答えを出せ、っていうのも、相沢くんにとって酷よね」
「おう、その通りだ」
 俺は深々と頷いた。
 香里は笑顔で指を一本立てた。
「というわけで、1週間の猶予をあげるわ」
「そうか。それはありがたい……。って、待てこらっ!」
 慌てて食ってかかろうとする俺に、不意に名雪が訊ねた。
「ねぇ、祐一……」
「なんだよ? 今取り込み中だ」
「天野さんはどうしたの?」
「ああ、天野なら先に帰ったぞ。みんなによろしくって言ってた」
「あ、そうなんだ。どこに行ったのかなって思ったよ」
 名雪はにこっと笑って頷いた。それから俺に言う。
「それじゃ、来週までに決めてよね」
「そうだな。……って、お前なぁっ!」
「なによ、男のくせにそんなことも決められないの? この優柔時短!」
 真琴が馬鹿にしたように言う。……が、間違ってるので効果半減だ。
「真琴ちゃん、それ言うなら優柔不断だよ」
「そ、そうとも言うわねっ!」
「そうとも言う、じゃなくて、そうとしか言わないぞ」
 俺が指摘すると、真琴は真っ赤になって言い返した。
「そう言うところだってあるのよっ!!」
「どこだよ、それは?」
「知らないけど、どこかにはきっとあるわっ!」
 “優柔不断”のことを“優柔時短”なんて言うところは、世界中捜しても、絶対どこにもないと断言できるぞ。
「はいはい、漫才はその辺りにしてちょうだい」
 香里が割って入ると、俺に言った。
「それじゃ、ちゃんと決めなさいよ」
「だから、何で俺が……」
「それでは、来週の日曜日も、みんなで集まらないといけないですね」
 後ろで声がした。俺が振り返ると、佐祐理さんがにこにこ笑っていた。後ろに秋子さんと舞もいる。
「あら、天野さんは?」
「もう先に帰ったって祐一が言ってたよ」
「あらあら、そうなの?」
 秋子さんと名雪が言葉を交わしている間に何かを思いついたらしく、佐祐理さんはパンパンと手を打った。
「はい、皆さん注目〜」
 たちどころに静まると、みんなは佐祐理さんに視線を向けた。
 佐祐理さんはまずぺこりと秋子さんに頭を下げた。
「今日はありがとうございました。おかげで大変、助かりました〜」
「いいのよ。私こそ楽しかったわ。また何かあったら、いつでも声を掛けてちょうだいね」
 秋子さんも笑顔で頷く。佐祐理さんはもう一度頭を下げると、俺達の方に向き直った。
「皆さんも、ご苦労様でした〜。こうして、みんながちゃんと無事に帰ってこられて、佐祐理は嬉しいです」
「俺も嬉しいぜっ!」
 北川が声を掛けると、佐祐理さんは笑顔で頷いた。
「はい、そうですね〜。よかったですね〜」
 実にあっさりといなされて、北川はがっくりと肩を落とした。
「くそぉ、強敵だ」
「で、さっき小耳に挟んでしまったんですけれど、来週また皆さんで集まるんですよね〜?」
「そうです。相沢くんがそこで誰が一番好きかを公表するってことで」
「こら香里っ! 俺はまだいいって言ってねぇぞ!」
「あ、倉田先輩、相沢くんの言うことは無視して下さい」
 あっさり言う香里。慌てて香里を止めようとする俺を北川が羽交い締めにした。
「まぁ待て、相沢」
「うるさい、放せこらっ!」
 佐祐理さんはぽんと手を合わせた。
「佐祐理、いいことを思いついたんですよ〜。どうせ来週もみんなで集まるんだったらですねぇ〜」
 そこで一拍おいて、佐祐理さんは言った。
「今度こそ、プールに行きませんかぁ?」
「それは良い考えですね、倉田先輩」
 香里はこくりと頷くと、名雪達に訊ねた。
「みんなはどう?」
「異議な〜し」
 声を揃える一同。今日一日一緒に過ごしたせいか、すっかりチームワークがとれている。
 嬉しそうに佐祐理さんはぽんと両手を合わせた。
「詳しいことはまた後日お知らせしますね。それじゃ、今日はここで解散にしましょう」
「お疲れさまでした〜」
 賑やかに挨拶をして、皆はそれぞれ帰途に着いていった。
 俺はため息をついた。その背中を名雪が叩く。
「どうしたの、祐一?」
「……俺って、不幸だよな?」
 俺が訊ねると、名雪は首を振った。
「そんなこと無いと思うよ」
「そうか?」
「わたしは、幸せだもん。だから、祐一も幸せだよ」
「……どういう基準だ、それは?」
「祐一く〜ん! 名雪さ〜ん!」
 あゆの声に顔を上げてみると、皆はもう先に行っていた。秋子さん、ぴろの入ったバスケットを抱える真琴、そして大きく手を振るあゆの姿が、夕焼けのオレンジ色に染まっている
「祐一、帰ろ!」
 そう言って駆け出す名雪。
「おいっ、名雪!」
 俺はもう一つため息をついて、名雪を追いかけて駆け出した。
「祐一、来週楽しみだねっ!」
「俺は全然楽しみじゃねぇっ!」
「来週は、プールへ行こーーっ!」

Fin

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あとがき

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