ここは、和樹くんのお部屋です。……いえ、『元』和樹くんのお部屋、と言った方がいいでしょう。なにしろ、当の本人はそこから遠く離れた六甲の山奥にある旅館に永久就職してしまったからです。
"God's in his heaven,all's right with the world."
まぁ、本人がそれを承知しているのなら、別にそれはそれでいいんじゃないか、と、普通の人なら思うところでしょう。
でも、今この部屋に集まっている人は、そうは思ってないようですね。
「さて、お集まりのまいぶらざぁ……はいないか。それではまいしすたぁず。諸君も知っての通り、吾輩の野望の主、ブラザー2の千堂かずきこと千堂和樹が、先日の春こみ以来消息を絶って久しい。しかるに、このままでは吾輩の野望、同人の世界をこの手に握る計画に重大な支障を来しかねぬ。というわけで、吾輩はここに、千堂和樹奪還計画を発動することにした!」
ドドーン
効果音付きでポーズを決めているのは、言うまでもなく九品仏大志くんです。
「ったく、パンダ娘のくせに人間連れて逃避行なんてなんか許せないから、この同人界の女王、大庭詠美さまも協力してあげるわね」
とのたまっているのは、本人も言うとおり大庭詠美ちゃんです。
「お兄さんが幸せなら、千紗はいいんですけど……」
「私も、二人が合意の上なら、それは別に構わないんじゃないかと思うんだけど……」
顔を見合わせているのは、つかもと印刷の看板娘、塚本千紗ちゃんと、こみパスタッフの優しいお姉さんこと牧村南さんです。
「甘いぞ、二人とも!」
大志くんが割り込むと、まずはびしっと南さんに指を突きつけます。
「南女史! 彼がこのまま旅館の若旦那として納まり、筆を折ってしまうようなことになれば、それは同人誌界にとって、ひいてはこの日本の漫画界において重大な損失だとは思わないですか?」
「そ、それは……確かに彼の才能は惜しいけど……」
「でしょうでしょう。さて……。そしてっ!!」
「きゃぁっ!」
今度は自分の目の前に指を突きつけられて、千紗ちゃんびっくりして後ずさりします。
大志くんは、ずいずいっとそれを追いかけて、千紗ちゃんを壁際に追い込みます。
トン、と背中が壁に付いて、退路が無くなった千紗ちゃんは、思わず涙を浮かべてしまいます。
「ふぇぇ。千紗悪いことしてないですぅ」
と、大志くんはその耳に囁きます。
「いいのかなぁ? 和樹がこのまま猪之坊旅館に行ってしまって」
「ふぇ?」
「ああ、かわいそうな和樹。朝から晩までこき使われ、食事は一日一度、それもお粥のみ。毎朝、長さ200メートルの廊下の拭き掃除、水くみ薪割りと雑用をすべて回され、へとへとになるまで働かされ、疲れた体にむち打たれ、そしてふと空に一番星が光のを見て思うのだ。ああ、千紗ちゃんは元気なのだろうか……。僕は死んでもあの星になって千紗ちゃんを見守るよ……」
「お兄さん、かわいそうですぅ……」
ぐすっと涙ぐみ、その涙を拭うと千紗ちゃんはぐっと拳を握りました。
「わかりました! 千紗もお手伝いしますっ!」
「よぉし、さすがまいしすたぁ。なぁ、同志高瀬瑞希!」
「わ、私は、別にどうでもいいんだけど、和樹はまだ大学生なんだし、やっぱり卒業くらいちゃんとしないとまずいでしょ。その、だからよ、手伝うのは!」
なんだか無理矢理理由をつけているのが、高瀬瑞希ちゃん。和樹くんとは高校時代からの腐れ縁で、なんだかんだと世話を焼いてきた間柄です。
そして、この部屋に集まっているメンバーはこれで全員です。
大志くんは、満足そうにその顔を見回すと、高らかに宣言しました。
「よぉし。それでは諸君。早速出発しようではないか!」
「え?」
思わず動きの止まる一同。
南さんがおそるおそる訊ねます。
「あの、大志さん。出発って、何処に行くんですか?」
「無論、神戸ですよ、南女史」
何を今更、と言わんばかりに、腕組みして言い放つ大志くん。
とたんに部屋の中は大騒ぎになりました。まぁ、当然ですね。
「何考えてるんですかっ! いきなり神戸まで、そんなに簡単に出かけられるわけないでしょう?」
「なんでこの詠美様がパンダの里まで出かけなくちゃならないのよっ!」
「もうちょっと常識を考えなさいよっ!!」
「千紗は頑張りますっ!!」
……若干一名、乗り気になっている娘もいますけど。
大志くんは、しばらくみんなが騒ぎ疲れるまで待つと、おもむろに懐から切符を取り出しました。
「ちなみに、各隊員の神戸までの切符は、既にこの通り確保してあるっ!」
「なっ!?」
思わず顔を見合わす一同。
「さぁ、それでは行くぞまいしすたぁず!」
そう高らかに宣言する大志くんでした。
「しんおおさか〜、しんおおさか〜」
それから半日後、一同は新幹線を降りて、新大阪駅のプラットフォームに降り立ったのでした。
「……はっ!? なんで私はこんなところに?」
急に目が覚めたようにきょろきょろ辺りを見回す南さん。その肩を、瑞希ちゃんが軽く叩きました。
「ごめんなさい。あいつに関わったのが運命と思って、諦めてください」
「高瀬さん、達観してるのね……」
「達観もします。なにせあいつとは高校時代からの付き合いですから」
何故か遠い目をする瑞希ちゃん。
「思えば一年前は、あたしもごく普通のスポーツ少女だったのに……」
「……苦労してるのね」
一方、千紗ちゃんは嬉しそうにぴょんぴょん跳ねています。
「わぁ! 千紗、大阪まで来たの初めてですぅ!」
「ま、たまには旅行して見聞を広めるのも大事よね。……わぁ、あれなにかしら? あっ、あんなの初めて見るぅ。さすが大阪〜」
詠美ちゃんはお上りさんよろしくきょろきょろしています。
「さて、同志諸君! それでは今から吾々は在来線を用いて神戸に突入する! 一同続けっ!」
大志くんはそう言うとさっさと歩き出しました。そして、しばらく歩いてから振り返りました。
……誰もついて来ません。
(……吾輩ともあろう者が、人選を誤ったか?)
「で、ここはどこ?」
新大阪から電車を乗り継ぎ、終点で降りた一同は、駅前の広場に出てきました。おやおや、もう陽は西に傾いていますね。
「ふふふふ、愚問だなまいしすたぁ。何を隠そう、こここそが猪之坊旅館に最寄りの駅なのだっ!」
ドドーン
「なるほど。この奧の山の中に珍獣パンダが生息してるってわけね!」
詠美ちゃんもなにやら盛り上がっています。
「それでは、あそこにタクシーがいますから、それを使って……」
「いけませんな、南女史」
タクシー乗り場の方に向かおうとした南さんを、大志くんは止めました。
「は?」
「タクシーなど使えば、吾々が旅館に向かったことがばれてしまうではありませんか」
「そうよ! パンダにはパンダのネットワークがあるに違いないわ!」
なぜか詠美ちゃんも同意しています。
「それじゃ、どうやって旅館まで行くんですか?」
当然の疑問を口に出す南さんに、大志くんは自信満々に言い放ちました。
「吾々には二本の足があるではありませんか!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ大志っ! まさか歩いて行けって言うわけ!?」
「おお、さすがまいしすたぁ。よくぞ私の言いたいことを理解してくれた」
「あのねぇっ!!」
「さぁ、行くぞ皆の者っ!!」
大志くんはスタスタと歩き出しました。
それから数時間がたちました。陽も西の山に隠れて、だんだん暗くなりはじめていますね。
荒い息を付きながら、瑞希ちゃんが訊ねました。
「あの、大志。聞いてもいい?」
「ん〜? なんだね、まいしすたぁ瑞希?」
大志くんは、悠然と振り返りました。
「なんだかずいぶんと山の中をさまよっている気がするんだけど」
「うむ。そうかもしれん」
「あとの3人、バテバテなんだけど」
さっと後ろの方を指す瑞希ちゃん。ずっと遅れてる3人の姿が見えます。なんだか最後尾の詠美ちゃんに至ってはふらふらしてるように見えますね。
「むぅ。吾が手駒としては体力的にも優れていなければならんというのに。困ったものだ」
腕組みして言い放つ大志くん。瑞希ちゃんははぁとため息をついて、訊ねました。
「で、ここはどこ?」
「六甲山系のどこかの山の中だが?」
「あのね、あんまり確認したくないんだけど……、もしかして、道に迷ってたり、しないわよね?」
「うむ。さすがまいしすたぁ。的確な判断だ」
「迷ったのね?」
「まぁ、そう言うかもしれんが。……お、おい、何を……?」
「迷ったで済むかぁっ!!!」
バキィィィィィィィッ……キラン☆
そのまま大志くんはお空の一番星になりました。
「……ふぅ。あんなのに付いてきたあたし達がバカだったわ」
流石にぐったりして、瑞希ちゃんは道ばたにしゃがみました。
「舗装された道があるっていうことは、自動車も通るってことですから、こうしていれば誰か通ると思いますよ」
そう言うと、南さんはバッグから携帯電話を出して耳に当てましたが、苦笑してスイッチを切ります。
「だめですね。範囲外みたいです」
「千紗、疲れちゃいましたぁ……」
「……」
詠美ちゃんが一番お疲れのようですね。言葉もなくぐったりしてます。やっぱり日頃の運動不足でしょうか?
と、不意に瑞希ちゃんは顔を上げました。
「車!?」
「えっ? あ、本当!」
南さんも表情を明るくしました。
向こうの方から、エンジン音とヘッドライトの明かりが近づいてきます。
瑞希ちゃんは道の真ん中に出ると、大きく手を振りました。
「すみませ〜ん!!」
向こうから走ってきたのは軽トラックでした。ヘッドライトに照らし出された瑞希ちゃんの姿に、急ブレーキをかけます。
きききき〜〜〜っ
思わず目を閉じる瑞希ちゃん。その5センチ前で軽トラックが止まりました。そして助手席から怒声が飛びます。
「どこに目ぇつけとんじゃぁわれぇっ! 轢いてまうか思たやんかぁ〜〜っ!! ……って、あれ? 瑞希やん」
「えっ?」
おそるおそる目を開けてみると、助手席から顔を出しているのは、猪名川由宇ちゃんその人でした。
「ゆ、由宇……?」
そのまま、ぺたんと道に座り込む瑞希。
「ふぇ、ふぇぇぇぇぇん」
「な、なんやなんや、どないしたっちゅうねん?」
「由宇ちゃん……」
脇から弱々しい声が聞こえて、由宇ちゃんはそっちに目を向けました。
「牧やん? それに千紗坊に大バカ詠美まで……」
「誰が大バカよぉ〜〜」
疲れ切ってる詠美ちゃん。反論の声もいつになく弱々しいですね。
「ホントにどないしたんや? こないなとこで行き倒れとるなんて。ま、ええわ。とりあえず乗り」
「乗りって、どこに?」
訊ねる瑞希ちゃんに、由宇ちゃんはぴしっと後ろの荷台を指しました。
「ええっ!? 荷台にぃっ!?」
「だって、他に乗れるとこあらへんやん。それに大志はもう乗っとるで」
「ええっ!?」
言われてみると、確かに荷台には大志くんがいるじゃないですか。
「やぁ、まいしすたぁず。ほら、遠慮せずにさっさと乗るがよいぞ」
「あんたはぁぁぁ」
思わず拳をぷるぷるさせる瑞希ちゃんでした。
キーッ
軽トラックが止まると、由宇ちゃんは助手席から降りて、荷台に声をかけました。
「着いたでぇ〜」
「あう〜〜」
うめき声が上がるなか、華麗にすたっと降り立ったのは大志くんでした。
「さて、それでは部屋に案内してもらおうか」
「そゆことは予約入れてから言うてや。ま、ええけどな。どうせシーズンオフやから部屋は空いとるし。で、他のみんなはどないしたん?」
「どないしたん……って、……うぷっ」
荷台から顔を出した瑞希ちゃん、こみ上げるものがあったのか、慌てて口を押さえました。
由宇ちゃんは荷台をのぞき込んで、あちゃぁと額を押さえました。
「なんや、みんな伸びとるやんか」
「パ、パンダとは違って、……人間は、繊細なのよぉ」
詠美ちゃんも蒼い顔をしていますね。南さんも千紗ちゃんも似たような状況です。
まぁ、曲がりくねった山道を荷台に揺られていればこうなってしまうのかもしれません。
と。
「……あれ? 瑞希? それに南さんや千紗ちゃんや詠美まで……」
「和樹!?」
「和樹さん?」
「お兄さん!?」
「パンダの片割れ!」
みんな同時に声を上げました。それもそのはず、旅館の入り口から、ご丁寧に旅館の名前入り半纏を引っかけて姿を現したのは、千堂和樹くんその人だったのです。
「みんなどうしたんだよ、こんなへんぴな所まで」
スパーーーンッ
由宇ちゃんが、目にも留まらぬ勢いで、ハリセンでひっぱたかれていますね。
「なにが『こんなへんぴななんもあらへん所』やねん! もっと自分の旅館に自信を持たんかいっ!」
「なんか形容詞が増えてるじゃないか」
「口答えすなっ!」
バキィッ
今度は直接殴られてますね。ご愁傷様です。
「やぁ。相変わらずだな、まいぶらざぁ」
「……せっかく目に入らないように無視していたのに……」
ぶつぶつ言う和樹くんを無視して、大志くんは振り返りました。
「さぁ、それでは皆の者、旅館に入ろうではないか!」
それを聞いて、由宇ちゃんはもう一度ハリセンで和樹くんをはたきます。
「ほれ、和樹っ! 挨拶するで!」
「挨拶!? で、でも、今更……」
「来てもらう以上はどんな奴でもお客様や。お客様は神様やでっ! ほれ、さっさと立ちぃ!」
「は、はいぃ〜」
二人は玄関の左右に立って、笑顔でぺこっと頭を下げました。
「いらっしゃいませ! 猪之坊旅館へようこそ〜!」