月は影ろふ(後編)

著作:狛犬


 

 目が覚めると、テーブルの上に見覚えのない一枚のディスクが置かれていた。
 綾波が置いたのだろうか?この部屋には僕と綾波しか入らないのだから、僕でない限り綾波がやったということになる。でも、一体どこからもって来たのだろう。
 首を傾げながら、それでもノートパソコンのドライブに入れて再生してみる。

 僕は息を呑んだ。

 現れたデータは、まさにネルフが抱える闇の集まりだった。

 人類補完計画。 
 アダム
 リリス
 使徒
 シンクロの意味
 父さんの計画
 ゼーレの計画

 僕たちチルドレンと呼ばれる子供達が何のために呼び寄せられたのか、その全てがそこに示されていた。
 肉親を犠牲にすることで成り立つシンクロシステム。
 僕たちは世界を救うためのパイロットなんかじゃなくて、世界を滅ぼすための贄だった。
 過酷な環境に追い込んで、自我を壊すことによってサードインパクトのインターフェイスとして利用して自分たちの願いを叶える。そのために必要な生贄。
「ふざけるな」
 食いしばった口の隙間から声が漏れる。

 許されない。
 僕たちはこんなことに利用されるために生まれてきたんじゃない。
 悔しかった。
 何も知らなかった自分が。
 何も知らずにやつらの手伝いをさせられていた自分が。

 死にたくない。

 僕は生まれて初めて強く願った。
 死にたくない。こんなくだらないことに利用されたまま死にたくない。せめてこの事実を誰かに知らせたい。そ知らぬ顔をして世界の救世主となっている奴等の真実を知らせたかった。
「でも、もう遅いよ」
 力なく俯く。
 僕はここから出ることはできない。そしてこの部屋は完全に外と切り離されていて、外部と連絡をとることはできなかった。綾波に頼むことも考えたけれど、こうしてわざわざ僕のところにもって来たということは、綾波も外の誰かに知らせる事はできないのだろう。
 僕は悔しさに唇を噛み締めた。

 そのとき入り口をノックする音が聞こえた。

 扉の外にはミサトさんが立っていた。僕を拘束することを告げたときのように厳しい表情をしている。
「あなたの死刑が決定したわ」
 ミサトさんは短くそう告げた。
「私達を恨んでくれても構わないわ。でも私たちはあなた一人よりももっと多くの命を救わなければならないの。そのための必要な措置よ、これは」
 ミサトさんは、まるで自分を納得させるかのように僕にそう語った。
 この人は真実を知っているんだろうか。
 そう考えて、僕は心の中で否定した。この人はあんな真実を知っていてなお僕を陥れることが出来るほど器用じゃない。ただの甘い感傷なのかもしれないけれど、僕にはそう思えた。
「最後に何か要求はない?多少のことなら叶えて上げられるわ」
 ミサトさんの言葉に、僕は脳裏に閃くものを感じた。
「待っていて下さい」
 僕はいったん部屋に戻って、先程のデータの入ったディスクをパソコンから取り出した。それをポータブルプレイヤーの中にCDの替わりにセットする。僕はそれを持って再び入り口に向かった。
「これを、トウジに届けてくれませんか?」
「これを?」
 ミサトさんが、訝しげに僕の手元を見た。
「はい、この部屋にいる間、一番僕の身近にあったものです。受け取ってもらえないかもしれませんが、形見としてトウジに届けてください」
 僕が言うと、ミサトさんは僕の手からプレイヤーを受け取って頷いた。
「わかったわ。必ず鈴原君に届けるから」
 それだけを言って、ミサトさんは踵を返すと出て行った。

 これで良い。
 あのデータを、ネルフに人生を狂わされたトウジに預けるのは正しいことのような気がした。トウジがあのデータを見て尚沈黙を続けるのなら、僕は文句を言うつもりはない。
 単なる思い付きに過ぎなかったけれど、僕にはこれ以外の手は考えられなかった。
 もしかしたら中身を調べられて没収されるかもしれない。
 そもそも本当にトウジに届けてくれるのかもわからない。
 例えトウジの手元に渡ったとしても、トウジがあの中身に気付くとも限らない。
 それでも、後は運命に任せるしかなかった。

 夜が明けるまで僕は興奮して眠ることができなかった。
 だから綾波にたくさんのことを語りかけた。

 初めてケージで会った時のこと。綾波が包帯だらけの格好で驚いたこと。
 IDカードを届けた時のこと。綾波の裸にみっともなくうろたえたこと。
 第五使徒と戦った時のこと。綾波の笑顔を初めて見たこと。
 綾波が僕を庇って自爆した時のこと。心が張り裂けそうなほど悲しかったこと。
 人ではない綾波に恐怖したこと。そんなことは関係ないと気が付いたこと。

 一年にも満たないほどの短い間だったけれど、僕は色々な綾波を見ることができた。もしもサードインパクトが起こらなければ、もっと色々な綾波を見ることができたはずなのに。
 こんなときでさえ涙を流すことができない自分が、恨めしかった。

 朝が来て、黒服を来た男が僕を連れに来た。
 その男について部屋を出る。ひさしぶりに部屋から外に出る。二度とこの部屋に戻ってくることがないかと思うと、なんだか寂しかった。
 引き連れられていった先ではミサトさんが待ち構えていた。ミサトさんは無言のまま歩き出し、黒服の男と僕はその後に付いて歩いた。
 ジオフロントの出口で護送車に乗せられる。このまま地上に出て、処刑台まで連れて行かれるのだろう。僕は間近に迫る自分の死に、膝が震えるのを感じた。
「何か、言い残すことはある?」
 護送車に僕を乗せる直前、ミサトさんが僕に尋ねた。
「ありません」
 僕は一言そう答えた。語るべきことは昨日綾波に全て語りつくした。これ以上語るべきことも、語るべき人もいない。
 ミサトさんは僕の言葉を聞いて、無言で護送車の扉を閉めた。
 ゆっくりと護送車が発進する。
「駄目だったみたいだね、綾波」
 僕が恐らくそばにいるだろう綾波に呟いたとき、護送車が急ブレーキと共に停止した。
 何が起こったのだろうと、息を潜めているとなんだか車外が騒がしい。
「大変です、外にものすごい数のマスコミが……」
 誰かの慌てたような叫び声を聞いて、僕は自分が賭けに勝ったことを理解した。

 後でトウジに話を聞いたら、全てがギリギリのタイミングだったらしい。僕から送られてきた古めかしいCDプレイヤーに、トウジは首を傾げるだけだったそうだ。だけど偶々そのときトウジのところにケンスケが遊びに来ていたのが幸いだった。中に入っていたディスクに気が付いたケンスケは、データを見て青褪めた。
「寿命が年単位で縮んだぞ、まちがいなく」
 ケンスケはそう言っていたが、それももっともだと思う。
 とにかくそのデータを見たトウジの怒りは凄まじかった。自分の妹さえもネルフの策略で殺されたのだ。怒って当たり前だろう。
 その後はケンスケがそのデータを全世界に向けてほとんど無理やり流して、トウジは自分が知っている人間に迷惑を顧みず片っ端から連絡を入れた。
 それらのどれが成功したのかわからないけれど、とにかくネルフの評判は一晩で地に堕ちて、死刑寸前だった僕は何とか生き長らえることができた。

 こうして僕は久しぶりに、あの窓の無い部屋以外のところで夜を明かすことになった。そこはネルフの宿舎らしく、間取りはあの部屋と大して変わり無かった。
 綾波はどうやら僕に憑いて来ているらしく、夜中にひとりでにテレビのスイッチが入って、僕はあの暑苦しいロボットアニメを見るはめになった。
 その後、僕は布団に入って夕べのように綾波に色々なことを語りかけていた。あれだけ色々話したにも関わらず、不思議と言葉は尽きなかった。
 それでも夕べの徹夜が響いたのか、いつしか僕の瞼は落ちていった。

 気が付くと、目の前に綾波がいた。だけど僕はそのことを当たり前のこととして受け止めていた。
「碇君に会えて、私は幸せだった」
 綾波が呟くように僕に語り掛ける。
「でも、僕は何にも出来無かったよ」
 僕は本当に無力で、あれだけ綾波に助けられたのに綾波には何一つして上げることが出来なかった。
 でも綾波はゆっくりと首を横に振った。
「碇君は私に絆をくれたわ。身代わりではなく、本当に私自身を見つめてくれた。それが私にとってどれだけ嬉しかったか、たぶん碇君にはわからないのね。肉体を失ってからも碇君と過ごした日々は、暖かくて、安らぎを感じた。それだけで私は本当に幸せだったわ」
 そんなものは本当は誰もが当然に与えられるものなんだ、と言おうとしたけれど本当に幸せそうに語る綾波に、僕は口を噤むことしか出来なかった。
「でも、いつまでもこうしていることは出来ないの」
 綾波は少しだけ悲しそうに呟いた。
「え?」
「死者は生き返らない。この世界はこの世界に生きる人たちによって創られていくべきだから、私はもう行かなくてはいけないの」
 引き止めたかった。
 でも、それが綾波を困らせるだけだということをわかってしまったから僕は何も言うことができなかった。
「幸せになって、碇君。たぶん、それが私の幸せだから」
 だんだんと揺らめくように消えていく綾波の姿を見つめながら、僕は自分が夢から覚めようとしていることに気が付いた。
「――――」
 最後に、綾波が何かを呟いたのを感じた。

 朝、目が覚める。
 ゆっくりとベッドから起き上がるとテーブルの上にお皿が置いてあった。僕が教えたのが役に立ったのか、今度はお皿の上に載っているのはどこから見てもサンドイッチに見えた。苦笑しながら腰を下ろすとテーブルの中央に、一枚のメモ用紙が置かれていることに気が付いた。僕は震える指でそれを手にとった。
 そこには整った字でただ一言『ありがとう』と、書かれていた。そのそっけなさはいかにも綾波らしくて、彼女がもうどこにもいないのだということを強く僕に感じさせた。
「あや……なみっ」
 それ以上僕の感情は持ち堪えてはくれなかった。頬を濡らす感触が、自分の流した涙だということに気が付くまでにしばらく時間がかかった。そして、それに気が付くと同時に僕は声を上げて泣いた。サードインパクトの後で涙を流したのはこれが初めてだった。
 メモの隅には、一度文字を書いた上から、ボールペンで塗り潰した跡が残っていた。懸命に塗りつぶしたように、そこのところだけ真っ黒になっていたけれど、紙の凹凸を見て、なんて書いてあったのか読むことはできた。

『さようなら』

 塗りつぶされたその下には、震える字でそう書かれていた。

「そうだね、綾波。これはさよならなんかじゃないよね」
 泣きながら呟く。
 いつかの青褪めた月の下で僕が言った言葉を、彼女は覚えていたのだろうか。僕はこの文字を塗りつぶしている彼女の姿を思い浮かべて、もう一度声を上げて泣いた。



月の光の下で、わずかに微笑んだ君を覚えている。
僕の言葉にわずかに頬を染める君を、覚えている。
僕を救ってくれたのは確かに君だった。
だから
例えしばらく会えなかったとしても、いつか必ず君に会いに行くから。
僕が死んだ後かもしれないし、それよりももっとずっと先の話なのかもしれない。
それでも信じ続ける限り、きっと望みは無くならないはずだから。



「希望……なんだね、綾波」
 僕は涙を拭って、お皿の上のサンドイッチを手にとった。
 一口食べると、自分の涙と混ざって少しだけしょっぱかったけれど、それは今まで食べたどんな料理よりも美味しくて、きっとこれから食べるどんな料理よりも美味しいだろう。
 僕はこのときの味を一生忘れない。




 服を着替えて、勢いよく玄関を開ける。
 朝早いせいか、外はまだ薄暗い。
 まずはアスカのお見舞いに行かなくちゃいけない。その後は久しぶりにトウジに会いに行こう。もしかしたらケンスケにも会えるかもしれない。
 僕はなんだか我慢できずに、意味もなく走り出した。
 ネルフの幹部はほとんど逮捕されてしまって、僕自身これからどうなるかまったくわからないけれど、やることはたくさんあって、やりたいことはもっとたくさんある。
 だから今はとにかく懸命に生きていこう。いつか彼女に出会ったときに胸を張って語れるように。


   見上げた青空には、取り残されたような白い月が穏やかに僕を見守っていた。