やがてシンジは『LCL PLANT』と書かれた扉の前で立ち止まった。
「ここか」
厳しい表情で扉を見つめるシンジに、ミサトも傍らで息を呑んだ。
「でもどうするの?私のパスじゃここの扉は開かないわ」
ミサトが尋ねると、シンジは黙ったまま扉に向けて槍を振るった。
扉が音もなく幾つかのピースに分かれて崩れ落ちた。
「は、はは。シンちゃんったら過激」
有無を言わさないシンジの行動に、ミサトは引きつった笑いを浮かべた。
第四話<再び、書き換えられるシナリオ>
著作:狛犬
扉が開くと同時にむせ返るほどの濃密な血の臭いが立ち込めた。シンジは少しだけ眉を顰めて、目の前の空間へと足を踏み入れる。
部屋の中には一面に紅い水の張り巡らされた湖が広がっていて、そこから所々先端の尖った白い柱が突き出ていた。その光景の禍々しさは、容易に地獄を連想させた。
更に正面には十字架に貼り付けられた白い巨人。
どこかに傷でもあるのか、巨人からは絶え間なく赤い液体が流れ続け下の湖に零れ落ちていく。
そして、一人の少女が白い巨人と向き合うように宙に浮かんでいた。
「レイ!?」
ミサトが少女の名前を叫ぶ。
レイはミサトの言葉に何の反応も見せずに、自分の目の前にある白い巨人の顔に向かって手を伸ばした。
「やめるんだ」
静かに、シンジが言った。
レイは、伸ばした手を止めてゆっくりとシンジ達の方を向いた。
「なぜ?」
「自分が何をしようとしているのかわかってる?」
短いレイの問いに、シンジは問いを重ねて答えた。
「ええ、わかっているわ、リリスを取り込むの。そうすることで私は完全な体になれる」
「完全に人間とは別のモノになるよ」
「もともと人ではなかったもの。それに碇君と同じ体になるだけ」
碇君というのが一瞬自分のことかと思ったシンジだったが、直ぐにルシフェルのことだと思いなおす。目の前の少女の決意は固く、ほとんど面識のない自分では覆せそうもない。
「今それをするということは人間全てを敵に回すというのと同じだよ?」
「構わない。私には碇君たちがいればそれで良いもの」
そっけなく答えて、レイは再び白い巨人に向き直った。
「レイ、やめなさい!」
再びミサトが叫んだが、レイはやはり何の反応も見せずにゆっくりと白い巨人の顔に触れた。
「ただいま」
喜びさえ感じさせるように呟くと、レイの体は溶け込むように白い巨人に吸い込まれて消えた。
途端、空間が打ち震えた。
白い巨人は十字架から逃れようとでもいうのか、体から流れる血を辺りに撒き散らしながら悶え始めた。震動に共鳴して赤い湖の水面は波打ち、白い柱は次々と崩れ落ちていく。
そしてついに肉の引きちぎれる不快な音を立てながら、白い巨人は十字架からその身を引き剥がした。巨人の全身から溢れ出るように紅い光が漏れ出る。光は奔流となって、白い巨人の体を食い破った。
「ちっ」
シンジは傍らで声も無く立ちすくむミサトの腕を掴むと、その場を駆けだした。
「逃げますよ!」
シンジは返事も聞かずにミサトを引きずったまま部屋を飛び出した。
「なに、なんなのあれは!」
ようやく我に返ったのかミサトがシンジに腕を引かれながら叫ぶ。シンジはそんなミサトには構わず、全速力で通路を走った。
背後からは地響きとも唸り声とも聞こえる鳴動が響いてくる。
「伏せてっ」
シンジは大声で叫びながら、ミサトに覆い被さり倒れこむように地に伏せた。
次の瞬間、白い巨人が幽閉されていた部屋から爆ぜるように紅い光が吹き出した。同時に一際大きな咆哮が響き渡り、やがて水を打ったような静寂が辺りに訪れた。
衝撃が収まるまでそのままの姿勢で固まっていたシンジだったが、しばらくしてゆっくりと起き上がった。
「大丈夫ですか、ミサトさん」
同じように体を起こしたミサトに尋ねかける。
「え、ええ……何とか」
ミサトの返事を聞いて、シンジは自分の背後を振り返った。
よほど凄まじい衝撃だったのか、通路の壁は至るところめくれ上がっていて、衝撃の中心だった部屋の入り口は内側から無理やり空けられた巨大な穴が口を広げているだけになっていた。
「なにが……起きたの?」
ミサトが呆然と尋ねる。
「……あのレイって女の子、完全にネルフの敵になったみたいですね」
「どうして、どうしてレイが……あいつらに操られているの?……それ以前にレイのあの力は何?」
ミサトの問いかけにシンジは首を横に振った。ミサトの問いに答えるにはあまりにも情報が足りなかった。
「わかりません……彼女には一度しか会ってませんし。それに彼女はもともと……」
そこまで言いかけたとき、シンジの手の内でロンギヌスの槍が一瞬跳ねるように動いた。
「こ、今度はどうしたの?」
ミサトが恐る恐る尋ねる。
「しまった、彼女は囮かっ」
シンジは叫んで、弾かれたようにその場から走り出した。
(どういうことだ?本命は別のところにあるのか?)
槍の反応では、どうやらこの地下の別の場所に使徒が現れたようだった。一体何が狙いなのか。
シンジにはルシフェルの意図が読めなかった。だが、それでも放っておくわけにもいかない。シンジは考えながら槍が示す方向に向かって走り続けた。
槍から送られてくる感覚を頼りに、シンジは通路を走った。本当に大まかな方向しかわからなかったが、それでも道が一本調子なためシンジはほとんど迷わずに進むことができた。
やがてシンジは『人工進化研究所 第三分室』というプレートのある扉の前で立ち止まった。
「ここ……なの?」
ようやく追いついてきたミサトが、厳しい表情で尋ねる。
シンジは黙ったまま首を縦に振った。
先程と同じように扉を破壊して中に入ると、むき出しのコンクリートの壁に囲まれた荒れ果てた部屋が広がっていた。部屋の隅にはベッドが一つ置いてあり、床にはビーカーや錠剤が転がっていた。
「なんなのかしら、この部屋は」
ミサトは辺りを見回しながら呟いた。
「さあ、後でリツコさんにでも聞いてください」
シンジはその部屋を抜け、更に奥へと進んだ。
部屋を抜けると、渡り廊下のような通路になっていた。通路の下には空間が広がっているようで、シンジは少しだけ興味をそそられて手すりから身を乗り出して下を覗き込んだ。
そこには巨大な人型の物体が所狭しと押し込められていた。そのどれもが体のパーツの一部だったり、または一部がかけていて完全な人型とは言えないものばかりだったが、よくよく見ればケージで見たエヴァンゲリオン初号機と似ている物が多いようにも思える。
「これは……エヴァの失敗作?」
同じように下を覗き込んでいたミサトがシンジの横で呟いた。
「失敗作の廃棄場ってわけですか」
シンジは顔を上げて、更に奥へと向かって進んだ。
「さっきの白い巨人といい、ネルフには私も知らない秘密が随分あるみたいね」
「ええ、随分後ろ暗いところもあるみたいですね。でも今はとりあえず棚上げして起きましょう」
「そうね、まずは使徒を何とかしないとね」
ミサトは緊張しているのか、強張った表情で言った。
通路の突き当たりにある扉の前で、シンジは立ち止まった。
「ミサトさん、この先に多分います。覚悟はいいですか?」
「ええ、いつでもいいわよ」
強気に語るミサトだったが、少し言葉が震えているのは隠せていなかった。
「それでは」
シンジは扉に向かって槍を振るった。
視線の先には巨大な水槽が壁面一つを占領して存在した。
水槽の中は赤い液体で満たされていて、照明の光を受けて部屋の中を紅く照らし出している。
「なに……これ」
だが、何よりも水槽の中に浮かぶ者達が、その光景を異常なものに仕立て上げていた。
ある者は踊るように、ある者は漂うように、紅色の液体に浸って半ば浮かび、また半ば沈みかかっていた。
何よりも異質なのは、その姿だった。
水槽の中では、シンジが先程見たばかりの少女――――綾波レイとまったく同じ容姿をした少女達が一糸纏わぬ姿で漂っていた。
一瞬死体なのかと思ったシンジだったが、それを否定するかのように水槽の中の少女達は一斉にシンジ達に向けてその紅い瞳を向けた。
「これがネルフの抱える闇だよ」
部屋の隅から聞こえてきた声に、シンジはその場を飛び退いて槍を構えた。
そこには不適な笑みを浮かべたルシフェルが佇んでいた。
「どうだい?この組織がどれだけ酷いことをしているか理解できた?言っておくけどこれだけじゃないよ、ネルフの罪は」
「……だから、皆殺しにするの?」
シンジはじりじりと間合いをとりながらルシフェルに語りかける。
「そうさ、こんなどこまでも腐った組織はこの世に存在しちゃいけないんだよ」
ルシフェルが叫んだ。
「でもこんなものの存在を知らない人も多いだろう?ミサトさんだって知らなかったみたいだし」
ミサトの様子を伺うと、彼女は一応ルシフェルに目を向けているものの水槽の方に多くの気をとられているのは明白だった。その顔は青褪めていて、今にも倒れてしまいそうだ。
「知らなかった、仕方がない、どうしようもない。はははっ、まったく度し難いほど愚かな人達だよ本当に。ネルフの人間はそう言って自分を赦しながら他人を傷つけるのさ。そんなもの何の免罪符にもならないっていうのにね」
ルシフェルはひとしきり笑うと、水槽に向けて右手を伸ばした。
「彼女達は貰っていくよ。ここに居たら何に使われるかわかったものじゃないからね」
ルシフェルが言い終えると同時に、水槽の中に闇色の球体が現れた。それは水槽の中の少女達を全て飲み込み、収束するように消えた。
「何が、狙いなのかな?」
お互いの間合いを測りながら、シンジはルシフェルに尋ねた。
「彼女たちは魂なき存在だからね、あのままじゃ。だから僕が魂を入れて新しい人生をあげるのさ。綾波も賛成してくれたしね」
「使徒のボディにするつもり?」
「まあ簡単に言えばそうなるのかな」
ルシフェルの言葉に、今まで黙って会話を聞いていたミサトが声を上げた。
「ふ、ふざけないでよ。そんなこと許されるわけないでしょうっ!」
「別にあなた達なんかに許してもらう必要はない」
ルシフェルがそう言ってミサトを睨みつけた。
「ひっ」
ルシフェルから発せられるプレッシャーに、ミサトはその場に座りこんだ。
シンジはへたり込んだミサトを庇うように、ルシフェルとミサトの間に立った。
「どう?君もこんな救う価値もないような人たちなんて見捨てたら」
「いい加減にしてくれないかな。これ以上君のくだらない話を聞かされるのは不愉快だよ」
「なんだと?」
ルシフェルが一瞬眉を上げた。
「そうだろう?なんだかんだ言って君だって水槽の中にいた彼女達を利用するだけじゃないか。結局やってることは大してネルフと変わらないね」
シンジは唇の端を吊り上げて、皮肉をこめて告げた。
「黙れっ。これは綾波の意思でもあるんだ。ネルフと同じなんかじゃない!」
「いくら同じ姿形とはいえ、彼女達は綾波レイの所有物ってわけじゃないだろう?結局君だって同じだよ。君の言葉を借りれば、そうやって自分を赦しながら他者を傷つける……だっけ?」
シンジは執拗にルシフェルを挑発し続けた。
「うるさいっ、君なんかに何がわかる!」
ルシフェルが激昂して腕を振るった。シンジが身を屈めると、一拍遅れて轟音と共に背後の壁が抉られた。
「ほら、気に入らないとそうやって力で誤魔化す。ますます君の嫌いなネルフに似てきたね」
シンジは尚もルシフェルを挑発した。
「くっ……今は君に構っている場合じゃないんだよ。サキエル!」
叫びに応じて、ルシフェルの背後にサキエルが現れた。彼女の右腕の肩から先は無く、服の袖だけがぶら下がっているだけだった。
「シャムシエルをつけるから、この場は任せるよ」
ルシフェルがそう言って手をかざすと、床から生えてくるように一人の女性が現れた。身長はサキエルと同じ程度だが、サキエルの長い黒髪とは対象的にこちらは肩まで程の金髪で、なぜかボンテージのような際どい服を身に纏っていた。
「かしこまりました、我らが主を侮辱した罪。今度こそ奴の体で支払って貰います」
「私も、いくらルシフェル様と同じ姿とは言え赦せないわね」
サキエルがシンジを睨みつけながら、シャムシエルと呼ばれた女性は舌なめずりをしながら言った。
「それじゃ、後は任せたよ」
言うと同時に、ルシフェルの体が影に飲まれるようにして消えた。
「さて、それで君達が僕の相手ってことなのかな。サキエルさん、だっけ?腕の怪我が治ってないようだけど」
シンジは軽口を叩きながら槍を中段に構え、切っ先を二人の使徒に向けた。
「黙れ!今度こそ不遜なその態度を引っ込めさせてもらおう。そのためにわざわざルシフェル様に言ってまでこの場に残ったのだからな」
サキエルが言いながらじりじりとシンジとの距離を詰め始めた。
「そうよねえ、きっちり反省してもらおうかしら。最後まで意識があれば、の話だけどね」
シャムシエルはそう言って、右手を前に突き出した。その手の平から地面に向かって、一本の光が紐のように揺らめきながら垂れた。武器は光の鞭というところだろうか。
「死ねっ」
戦いは唐突に始まった。
サキエルから光の矢が放たれる。
シンジはそれを地面すれすれまで身を屈めて避けた。そこに間髪入れずにシャムシエルの鞭が飛来した。
「くっ」
横に飛び退く。ぎりぎりのところで避けることができた。
「あーら、中々いい反応してるわねえ」
シャムシエルが楽しげに言い、左手からも同様に光の鞭を出した。
「これでも避けられるかしら」
左右から同時に鞭が襲いかかる。シンジは片方の鞭を槍で弾いて消し飛ばし、そのまま槍を床に突き刺して高飛びのように宙に跳んで二つ目の鞭を避けた。
着地と同時にシャムシエル目掛けて走り寄る。が、首筋にちりちりと嫌な気配を感じて急激に横に飛んだ。
サキエルの放った光線が、頬を掠めて通り過ぎた。
動きの止まったシンジに、再び左右から鞭が飛来する。シンジは槍を旋回させて二つの鞭を弾いた。
「避けるだけで精一杯のようだな」
サキエルが笑いながら言う。その言葉には余裕さえ感じられた。
どうやら中距離のまま間合いを保ってシンジに近づかせない作戦のようだ。シンジの攻撃手段がロンギヌスの槍しかない以上、槍の間合いの外から攻撃をしかけられている限りはシンジには手の出しようが無い。
(やっかいだな)
シンジは内心の焦りを押さえつけながら思考を巡らせる。近接戦闘しか手段のないシンジは何とかして懐に飛び込むしかない。だが、一人ならともかく遠距離攻撃の持ち主が二人となるとそれもできそうに無い。
シンジの思考を遮るように、サキエルから光の矢が放たれた。
(防御に徹して勝機を待つしかない)
シンジは結論づけて、飛来する矢を躱した。
それからはシンジにとって苦行のような時間だった。飛び交う光の矢と鞭を、躱し、いなし、あるいは弾きながら防ぎ続けていたが、いつまでも確実に避け続けることが出来るわけもない。まして相手が使徒である以上、シンジの方が先に体力が尽きるのは目に見えていた。
それでもシンジは防御に徹し続けた。今集中力を乱せばまちがいなく相手の攻撃の餌食になってしまう。
「しつこい男は嫌われるわよっ」
叫びながら、シャムシエルが左手を閃かせた。横薙ぎに襲いかかる鞭を、シンジはロンギヌスの槍で弾き飛ばす。次の瞬間、シャムシエルの右手がシンジに向けて突き出された。その先から光の鞭が一直線にシンジに向けて伸び上がる。
(しまった)
今までの横方向の軌道に慣らされていたシンジは、咄嗟にその動きに反応することができなかった。
「くっ」
それでも無理やり体を捻り避ける。だが、その隙を突いてサキエルから光の矢が放たれた。シンジは体中の筋が引き攣れるのを感じながら、体を屈めた。頭上すれすれを光の矢が掠めていく。
そこに、シャムシエルが腕を振るうのが見えた。
(避けられない)
シンジが覚悟を決めたその瞬間、一発の乾いた音が響いた。
シャムシエルの体が横から弾かれたようによろめく。その銃声が、ミサトの放ったショットガンだと認識するよりも早く、シンジはシャムシエルに向かって頭から飛び込んだ。
転がりながら地を薙ぎ払う。両足を切り飛ばされたシャムシエルの体が宙に舞った。
シンジはそのまま返しの槍を振りかぶる勢いで起き上がり、空中に投げ出されたシャムシエルの体に容赦なく槍を突き立てた。
槍は墓標のようにシャムシエルの体を地面に縫いとめた。
「きさまあああああああ」
その光景に激昂したサキエルがシンジに向けて光の矢を放つ。
シンジはそれを横に飛んで避けると、サキエル目掛けて疾走した。
サキエルが再び光の矢を放つ。
シンジは大きく右足を踏み込むと、その足を軸にして体を外側に回転させた。光の矢は、シンジの脇をすり抜けて飛び去る。その回転の勢いそのままに、身を翻してシンジは槍を突き出した。
ロンギヌスの槍は狙いを外さずサキエルの胸に突き刺さった。
「が、あ、ああああああああ」
サキエルは苦悶の叫びを上げながら、それでも這うような動きで左手をシンジに向けた。
シンジは無言のまま槍を押し込んだ。
やがてサキエルの左手はゆっくりとその力を失い、糸の切れた操り人形のように地に向けて落ちた。
シンジはそれを見て槍を引き抜く。
支えを失ったサキエルの体が仰向けに倒れた。
そこへ、ショットガンを持ったミサトが興奮気味に駆け寄ってきた。
「シンジ君、怪我は無い?」
「ええ」
ミサトの質問に短く答えながらも、シンジは足元に転がる二つの死体から目を放さなかった。
「後悔してる?」
ミサトが尋ねる。何を、とは聞かれなかったがミサトの言いたいことは理解できた。
「それでも……代わりに死んであげるつもりが無い以上、後悔するつもりはありません」
そう言いながらも、シンジはじっと床を見つめたまま動かなかった。