プルルルル・プルルルル
《das Ende》
部屋に備え付けてあるインタフォンが呼び出し音を鳴らした。
私は、シャワーを止めると、身体にバスタオルを巻き付けてバスルームから出て、インタフォンを取った。
「はい」
「藤崎詩織様、日本から国際電話が入っておりますが、如何致しますか」
きれいなドイツ語は、フロントからだった。
日本から? また、お父さんかな?
心配してくれるのは嬉しいけど、お見合写真をいっぱい送ってくるのはやめて欲しいな。
そんなことを思いながら、私はフロントに告げた。
「つないでください」
「かしこまりました。少々お待ちください」
受話器から音楽が流れる。それを聞きながら、私は窓の外の青く澄んだ空と、それと対照的なくすんだ色をしている石造りの街並みを見ていた。
KMN交響楽団がヨーロッパ公演に出て、もう2カ月。いっぱいいろんな所を回ったなぁ。
フランスでは、片桐彩子さんに再会した。
もうすっかりパリに溶け込んでたけど、一緒の部屋で寝たとき、日本が恋しいって泣いてたっけ。でも、彼女は強いから、きっと大丈夫よね。
そして、イギリスでは……。
キィッ
ロンドン橋のたもとでタクシーを降りると、冷たい風が吹き付けてきた。
思わず身をすくめる。
「寒ーい」
霧の街、ロンドン。その言葉通り、辺りには霧がたちこめていて、近くに見えるはずのビッグベンも見えない。
もう暗くなっていて、辺りをガス灯が照らしていた。
カツン、カツン
足音が聞こえた。私がそっちの方を見ると、灰色のコート姿の男の人が歩いてくる。
「……公、くん?」
彼は立ち止まった。サングラスを外して、私の方を見る。
「詩織、か」
「うん」
私たちは駆け寄った。
公くんに逢うのは、もう何年ぶりだろう。
きらめき高校を卒業して、公くんはすぐにプロテニスプレイヤーになり、私はKMN交響楽団に入団した。それっきり、音信不通に近い状態が続いてた。
実家はずっとお隣同士だったんだけど、私がオフのときは公くんが試合だったり、公くんがオフのときは私がツアーに出てたりして、ぜんぜん逢う機会もなかった。
お正月も、公くんはゆかりさんのお家にずっと行ってたから逢えなかったし。
「久しぶりだね」
公くんは私を抱きしめた。ここはイギリスだし、私も公くんも海外生活が結構長いから、別に違和感は感じなかった。
「そうね。4年ぶり、くらいかな?」
「ああ……。詩織」
「なに?」
「お前さ、ちょっと太ったんじゃないのか?」
「なによ、もう!」
ふざけて、公くんを殴る格好をする。公くんは笑いながら後ろに飛び退く。
「ははは。ごめんごめん」
「んもう。で、何か御用?」
怒ったように、口をとがらせて腕を組む。
前の公くんなら、慌てておろおろしてるところだけど、目の前の公くんは笑ってる。
もう、演技も通じなくなっちゃったのね。なんとなく、寂しいような……。
「なに、顔が見たくなってね」
「なによ、いまさら。あの時は、俺はゆかりちゃんが好きなんだぁって叫んでたくせに」
私は肩をすくめながら言った。
もう、こんな事もさらっと言えるようになったんだからね、公くん。
私の気持ちを知ってか知らずか、公くんは真面目な顔になった。
「実は、相談したいことがあって……」
「長くなりそうね。あそこのパブでも入らない?」
私はテムズ川の河畔にあるネオンサインに視線を向けた。
「トースト」
「プロージット」
私たちは、お互いのグラスを軽く合わせた。チン、と澄んだ音がした。
ビールを喉に流し込んでから。お互いに眉をしかめる。
「……やっぱ、ビールはドイツだなあ」
「そうよね」
そう言って、ひとしきり笑った後、公くんは切り出した。
「相談っていうのはさ、ほかでもないゆかりちゃんのことなんだ」
「……私に、それを聞くの?」
私は、グラスをカウンターに置いた。
スツールから降りる。
「私、帰るね。さよなら」
「お、おい!」
公くん、慌ててる。うふっ、変わってないなぁ、やっぱり。
私は笑顔で振り向いた。
「冗談よ、冗談」
でもね、ちょっとだけ冗談じゃないのよ。
片桐さんの口癖をまねてみた。心の中で。
公くんは笑顔に戻った。
「ほんとに、悪い冗談だぜ」
「で、ゆかりさんがどうかしたの?」
「その、なんだ……。ほら、もう卒業して4年だろう? ゆかりちゃんをあんまり待たせるのもあれかなって……」
ドキン
や、やだ。なんで私がドキドキしなくちゃいけないのかしら。
私は努めて冷静な声を出そうとする。
「そうね。でも、それはお互いの気持ちでしょう? 何も私に聞くことじゃないじゃない」
「それはそうなんだけど……」
「もう、優柔不断なんだから。そんなのでよくテニスなんて出来るわねぇ」
公くんは、抜群の判断力を持ったテニスプレイヤーだって、いろんな雑誌に載ってたけど、ほんとにこういうことになったら優柔不断だものね。ゆかりさんも大変よ。
「それとこれとは、関係ないだろう?」
「……本当に、そう思ってる?」
私は公くんの顔をのぞき込んだ。
「……まったく、詩織にはかなわないよな」
公くん、照れ笑いした。
「いや、実はもう決心はしてるんだけどさ、いざとなると、ね。なんだか崖っぷちで下を見ちゃったみたいで、足がすくんじゃったっていうか、さ」
「それで、私に後ろから突き落として欲しいの?」
そう言いながら、私はマスターにリキュールを頼んだ。
公くんはジンビームを頼みながら笑った。
「まぁね」
「ほんとに、公くんったら」
「でさ、プロポーズってどうやればいいんだろう?」
「知らないもん。私だってしたことないんだから。おじさんかおばさんに聞いてみたら?」
「だめだめ。あの二人ってムードもロマンもへったくれも無いんだから」
公くんは肩をすくめた。
「そうかなぁ?」
私は公くんの両親を思い浮かべた。ま、たしかに公くんの両親だものね。
「指輪を贈りながら、受け取ってくれるかいっていうのはどう?」
「お、それいいなぁ。さすが詩織」
「でね、指輪って給料の3カ月分が相場ですって」
「あのね。俺固定給ないんだけど」
「じゃ、年俸の四分の一ね」
「あのなぁ……」
翌朝。
「ん……」
私は、明るさで目を覚ました。
気がつくと、窓から朝日が射し込んできて、私の顔に直接当たってた。
「どこ、ここは」
あれから、公くんとずっと飲んでたことは覚えてるんだけど……。
スーッ、スーッ
気持ちよさそうな寝息が聞こえた。私は反射的に飛び退いて、そっちを見た。
「こ、公くん!?」
「ううーん。ゆかり……」
のんきに寝言を言いながら、公くんは寝返りをうった。
ど、どうして?
私は、ただ混乱して、シーツを抱きしめていた。
とっ、とにかく、このままじゃいけないわ。
公くんを起こさないと。
私は、公くんを揺さぶった。
「公くん、起きて! 起きてってば!」
「うーん、ゆかり、そんなに揺するなよ……」
「……起っきろーーっ!!」
私が耳元で思いっきり叫ぶと、やっと公くんは目を開けた。
「ん? もう、朝かぁ? ……ああ、詩織じゃないか。おはよう……って、だぁぁ!?」
公くん、勢いよく飛び退いた。勢い良すぎてベッドから転がり落ちちゃった。
ドシン
「あ、だ、大丈夫?」
「いててて。ま、まぁね。でも、どうして……?」
どうやら、公くんの方も、何があったのか覚えて無いみたい。
「も、もしかして、俺達……」
「と、とりあえず、私シャワー浴びてくるっ!」
私はバスルームに飛び込んだ。
シャーッ
熱いシャワーを浴びながら、私は一生懸命に昨日のことを思い出していた。
二人でかなり飲んでからパブを出たことは覚えてる。
で、二人で肩を組んで、きらめき高校の校歌を歌ってたことも覚えてる。……恥ずかしいな、もう。
それから、もう一件パブに寄って……。
だめ、その後が思い出せない。
私はシャワーを止めると、バスタオルで体を拭いた。そして、着替えがないことに気がついた。
ずいぶん慌ててたのね。
私はバスルームのドアを少しだけ開けた。
「公くん……」
「ん?」
ベッドに腰掛けてた公くんが顔を上げた。
「ち、ちょっと、こっち見ないでよ」
「あ、ごめん」
「その、私の服、その辺りにある? あったら持ってきて欲しいんだけど……」
「わかった」
公くんは、ベッドの脇に落ちてた私の服を拾い上げると、持ってくる。
「あ、ありがとう」
私はそれをひったくるように受け取って、バスルームのドアを閉めた。
私が身支度を整えてバスルームから出てくると、公くんも一応服を着て、タバコをふかしていた。
私を見て、慌ててタバコをもみ消す。
「詩織、俺達一体……」
「それは、私の方が聞きたいのだけど……」
私たちは揃ってため息をついた。
それから、恐る恐る公くんが私に尋ねる。
「その、俺達、何もなかったよな?」
「ないわよ。絶対!」
私は断言した。だって、そうしないと……。
どうすればいいの?
「と、とにかく、早く帰ろうぜ。詩織、今日コンサートじゃなかったか?」
「公くんこそ、今日試合でしょ?」
「そうそう。えっと、今何時だ?」
「ちょっと待ってね、ええっと、8時40分よ」
「やべぇ。俺の試合って10時からだ! 詩織、ええと、今夜、コンサートの後は?」
「何もないけど……」
「じゃ、その時に。ゴメン!」
公くん、大慌てで飛び出していった。
パチパチパチ
大勢の人の拍手の中、幕は下りた。
みんな、立ち上がると周りの人と握手してる。
今日のコンサートは大成功だった。
「ふぅ」
私は、軽く伸びをして緊張をほぐすと、フルートをケースにしまい込んだ。
「藤崎さん、藤崎さんはいらっしゃいますか?」
不意に名前が連呼された。私は立ち上がった。
「はい、藤崎は私ですけど」
コンサートホールの係員さんが、私の所に駆け寄ってくると、一礼してメッセージカードを差し出した。
「これを、藤崎さんにお渡ししてくれと申しつかりましたので」
「ご苦労様」
私はチップを払ってカードを受け取ると、開いてみた。
見慣れた文字が目に飛び込んできた。
「急ですまないけど、急いでデュッセルドルフに行かなければならなくなった。
コンサートは成功したと思う。おめでとう。
夕べのことは、何もなかった。そういうことにしよう。
一方的でゴメン。いつか、この埋め合わせはするよ。
K.N.」
私は目を上げて、係員さんに尋ねた。
「これは、誰が?」
「日本人の男性でした。あなたと同じくらいの歳ですね。コンサートが始まった直後に飛び込んでこられたんですが、もう演奏が始まってると申しましたら、その場でこれを書いて、あなたに直接お渡ししてくれ、と」
「ありがとう」
私はカードを畳むと、フルートのケースに一緒に入れた。
……本当に、公くんって不器用なんだから。
公くんとは、それっきりだった。
また、どちらも忙しい日々が続いて、連絡すら取れなかった。
ピッ
回線の繋がる音が、私を回想から呼び戻した。
私は、受話器を持ち直して声をかけた。
「もしもし」
「あ、詩織か?」
「公くん!?」
私はびっくりした。だって、今まで思い出してたところだったんだもの。
「はぁ、やっと見つけた。捜すの、苦労したぜ」
「ご苦労様。で、どうしたの?」
「あのさ、半年先のスケジュールってわかる?」
「半年先? ちょっと待ってね」
私はメモ帳を出して、ページをめくった。
「あいてるわ。でも、どうして?」
「いや、実はさ、ゆかりちゃんと結婚するんだ、俺」
「え?」
私は、その瞬間、なんて言っていいのかわからなかった。ようやく、声が出た。
「おめでとう」
「ありがと。で、出来ればさ、詩織にも式に出て欲しいなって思ってさ。なんてったって、幼なじみだもんな」
「……そうね。幼なじみだものね。うん、わかったわ」
「じゃ、詳しいことが決まったら、また連絡するよ」
「そう。じゃ、楽しみにしてるね」
「じゃ、お休み、だね。そっちは」
「そうね。それじゃ」
プツッ
電話が切れた。私は受話器を戻した。
ポトッ
あ……。涙?
ダメよ、詩織。
私は、もう一度バスルームに入った。シャワーを全開にして、奔流に身を浸す。
半年先。
それまでに……。それまでに、変わらなきゃ。
笑顔で、「おめでとう」って言えるように……。