時の流れはとどまることを知らない。気づかないうちに流れていってしまう。
《fin》
きらめき高校を卒業して、俺は幸運にも恵まれ、プロテニスプレイヤーとなることが出来た。現在、賞金ランクで世界二十六位。でも、こんな所で満足してはいられない。どうせやるなら世界一をめざさなけりゃ。ゆかりのためにも。
詩織は、よくきらめき市に演奏に来ていたKMN交響楽団の一員として、フルートと一緒に世界中を駆け回ってる。
好雄は、なんでもきらめき市のタウン誌「メモリアルスポット」の編集長をやってるらしい。あいつらしいな。
他のみんなも、それぞれ活躍してるみたいだ。
「あらぁ、主人さん。おひさしぶりですねぇ」
俺を玄関で出迎えてくれたゆかりのお母さんは、俺を見るとそう言って、ころころと笑った。髪に白いものが混じるようになっているが、表情は相変わらず若々しい。素敵な女だよな。ゆかりもあんな風になるんだろうな。
「どうも、お邪魔します」
俺はしゃちほこばって挨拶すると、上がった。
と、お母さんは俺の肩を軽く掴んだ。
「は?」
「主人さん、靴は脱いでくださいね」
「あ、すっ、すみません!」
俺は慌てて靴を脱いだ。お母さんはその靴をちゃんとそろえて、土間に横向きに置くと、にっこり笑った。
「どうぞ。うちの人が待っておりますから」
「はっ、はいっ!」
俺は大声で返事をしてしまい、冷や汗をかいた。
スッ
お母さんがふすまを開けてくれた。
「では、ごゆっくり」
「はい」
俺はそう言うと、部屋の中に入った。
あの時、初めて親父さんと会ったのもこの部屋だった。ここはあの時と変わっていない……。
そんなことを思いながら、俺は待っていた。
そして、親父さんが入ってきた。
俺は頭を下げた。
「お久しぶりです」
「……そうだな」
親父さんの顔も、どことなく緊張しているようだった。
俺は、率直に切り出した。
「今日こちらに伺いましたのは、他でもありません、ゆかりさんのことについてです」
その瞬間、親父さんの顔は目に見えて強ばった。
「ゆ、ゆかりのことかね?」
「はい。ゆかりさんを、私の妻にすることを許していただきたいのです」
「……」
親父さんは腕を組んで、目を閉じた。
俺は、じっと待った。
カコーン
獅子脅しの音が高く鳴り響いた。それを待っていたかのように、親父さんは目を開けた。
「あれには、話をつけているのか?」
「ゆかりさんですか? いえ。まだです」
「……それは順番が違うんじゃないのか?」
俺は首を振った。
「ゆかりさんは優しい人ですから、親父さんが反対すれば、僕の妻にはなってくれませんよ」
「……自分の気持ちを殺しても、か?」
「ええ。あの時だって、お母さんから頂いた白南風がなければ、今頃ゆかりさんは……」
親父さんは、それには答えずに一言、呟いた。
「親とは、割にあわんものだな」
また、沈黙が流れる。
まぁ、いいさ。時間はたっぷりある。
俺は長期戦を覚悟していた。そのために、一週間はスケジュールを空けてある。
しかし、親父さんは立ち上がった。そして、俺を見下ろして一言だけ言った。
「わかった」
「親父さん?」
思わぬ展開に、俺はかえって拍子抜けしていた。
親父さんは俺の肩を叩いた。
「じっくり、六年間、お前という男を観察させてもらったよ。お前のような息子が出来るのなら、それもまたいいだろう」
「……ご期待に添えるように、努力する所存です」
俺は頭を下げた。
そんな俺に、親父さんは言った。
「ゆかりは、二階にいるはずだ。行って来い」
「はい」
俺は立ち上がろうとしてよろめいた。
緊張のあまりすっかり忘れていたが、俺の足はずっと正座していたせいで、すっかり痺れていたのだ。
階段を上がっていると、笛の音が聞こえてきた。
なにかあると、ゆかりはこの曲を吹いている。
「この曲を奏でていると、落ちつくんです」
いつか、ゆかりはそう言っていた。
俺は、彼女の部屋の前まで来ると、そっと声をかけた。
「ゆかり、公だ」
笛の音が止まり、ぱたぱたという足音がした。
ふすまがすぅっと開き、ゆかりが顔を出した。
「公さん……」
そういえば、俺がしばらく海外遠征なんか行ってたから、直接逢うのは久しぶりなんだよな。
俺は、その瞬間、たまらなくなってゆかりを抱きしめていた。
「ゆかり……。逢いたかった」
「わたくしも……」
ゆかりは、にこっと微笑んだ。
俺は、そのゆかりの左手をそっと取った。
「公……さん?」
「ゆかり、受け取ってくれないか?」
そう言いながら、俺はポケットから小箱を出し、中から指輪を出すと、ゆかりの薬指にそっとはめた。
「……よろしいんですか? こんなもの頂いて」
ゆかりは、指輪をそっとかざして見ながら、俺に尋ねた。
「ゆかりに受け取って欲しいんだ」
「でも……、わたくし、誕生日でもございませんのに……、こんな贈り物を頂くいわれが、ございませんが」
「だぁ〜」
俺は一気に脱力した。
と、ゆかりは不意に俺をまじまじと見た。
「こ、公さん!? もしかしましたら、これは婚約指輪というものなのでしょうか?」
俺はうなずいた。そのとたん、ゆかりは耳まで赤くなって俯いてしまった。
「あの、わたくし、これを頂いてしまって、よろしいんでしょうか?」
「もちろん。ゆかりに貰って欲しいんだよ」
「……謹んで、お受けいたします」
ゆかりは俯いたまま、そう言った。
その半年後……。
小さな教会は、大勢の人が溢れんばかりに入っており、いや、実際入れなかった人が外にまで溢れていた。
俺が、祭壇の前で待つ中、正面の扉が開き、ゆかりが親父さんにエスコートされて入ってきた。
おそらく、生まれて初めてタキシードを着た親父さんは緊張しまくりながら、ぎくしゃく歩いている。
そして、その隣には……。
白いウェディングドレスをまとったゆかりがいた。
一瞬、俺にはゆかりが天使のように見えた。
牧師は俺に向かって言った。
「汝、主人公は健やかなる時も病める時も、古式ゆかりを愛することを誓いますか?」
「誓います」
俺はきっぱり言った。
牧師は満足そうにうなずくと、ゆかりの方に視線を向けた。
「汝、古式ゆかりは、健やかなる時も病める時も、豊かな時も貧しき時も、変わらず主人公を愛することを誓いますか?」
おい、ちょっと長いぞ。
俺のそんな思いは、しかし次の瞬間、二百万光年の彼方へ旅立った。
ゆかりは、ちょっとはにかみながら、答えた。
「誓います」
「では、誓いのキスを」
俺は、そっとゆかりの顔を隠しているヴェールを持ち上げた。
ゆかりは、そっとささやいた。
「……わたくし、幸せです……」