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……まいったな。
《続く》
俺は呟いた。
まさか、あんな所に詩織が飛び出してくるなんて。
あの時……。
屋上に出たところで、俺は好雄に言った。
「何の用だ? 俺、クラブの練習中だったんだぜ……」
バキッ
好雄は振り向きざまに俺を殴りつけた。そんなこと予想だにしていなかった俺は、その一撃をもろにくらい、よろめいてその場に膝をついた。
「……何をしやがる!?」
「今のは古式さんの分だ」
好雄は俺を見おろしていた。
鉄の味がして、俺はその場に唾を吐いた。赤い色をしている。
「どういうことだ?」
「わからねえ、とは言わせないぜ。公、古式さんと付き合うってんなら、藤崎さんに思わせぶりな事するのはやめろ」
「……お前に関係ないだろう?」
俺は立ち上がった。
「確かに、俺には関係ないさ。だけどな、お前がそうやって両天秤かけてな、傷つくのは誰か、考えたことあるのかよ」
「誰が両天秤かけたかよ」
「かけてるように見えるぜ。へっ、それともなにか? 俺は優しいから、好意をかけてくれる女の子を無碍に出来ないってか?」
好雄は腕を組んで言い放った。
「そんなのは、優しいんじゃねえ。自分に酔ってるだけだ」
「てめぇ!」
「おめえがそうなら、俺も考え直す。古式さんは俺がもらう。お前なんかに任せておけるか!」
「言わせておけば!」
俺は好雄にタックルをかけた。不意をつかれ、好雄はその場に倒れる。
その好雄に馬乗りになると、俺はまず一発殴り返した。続いてもう一発殴ろうとしたところで、好雄が身をよじり、跳ね起きた。
俺は叫んだ。
「詩織は、ただの幼なじみだ。俺が好きなのは、ゆかりちゃんだ!」
キィン
後ろで不意に金属音がして、俺達は睨み合いを中断して昇降口の方を見た。
詩織が、いた。
「詩織!?」
「藤崎さん!?」
俺達は同時に叫んでいた。
「ご、ごめんね。ごめんね、公くん。……私、わた……さよならっ!」
詩織は、取り落としたフルートを拾い上げると、階段を駆け下りていった。
一瞬間をおいて、好雄が言う。
「追いかけねぇのか?」
「……いや」
俺は、その場に座り込んだ。
「ここで追いかけて、どうするんだ? 詩織に、今のは嘘で、本当は君が一番好きだとでも言えってか?」
……確かに、好雄に言われるまでもなく、このままじゃいけないってことは解ってた。
でも、俺は恐れてたんだ。今までの関係を壊すことを。
それが、結局みんなを傷つけるだけなのは、解ってたことなのに……。
「公……」
「すまん、好雄」
俺は顔を上げた。
「でも、俺は……」
「わーったよ」
好雄は肩をすくめた。そして屋上から降りていく。
「好雄?」
「もう、俺は介入しねえよ。後はお前がどうにでもしろって」
そう、言いおいて、好雄は階段を下りていった。
俺は、それからもしばらく屋上に佇んでいた。
胸の中で、自問自答を繰り返しながら。
わかってる。もう、これ以上は……。
でも……。
俺は空を見上げた。
ゆかりちゃんはどうなんだろう?
俺のことを、どう思ってるんだろう?
結局、今まで、俺が最後の一歩を踏み出せなかったのは……。
……それが卑怯だってことはわかってる。でも……。
でも、やっぱり詩織にきちんと言う前に、ゆかりちゃんにもきちんと言っておかなくちゃいけないよな。
よし。
ゆかりちゃんに告白しなきゃ。
俺は、フェンスにもたれて、校庭を見おろした。テニスコートが見える。
ゆかりちゃんは今頃、練習をしてる……あれ?
俺は、向き直るとテニスコートの中を探したがゆかりちゃんの姿はない。
今日は帰ったのかな?
もしかして、俺が傷つけたせいで……!?
俺は階段を駆け下りた。
「え? 古式さんなら保健室にいると思うけど……、どうかしたの、主人くん?」
「いや。ありがと、虹野さん」
俺は教えてくれた虹野さんに頭を下げると、保健室の方に駆け出した。
まだいてくれ!
保健室のドアを開ける。
ガララッ
いたっ!
「ゆかりちゃん!」
「公さん……」
椅子に座って編み物をしていたゆかりちゃんが、顔を上げて俺に気がつく。
「あの……」
「ゆかりちゃん、何も言わないで聞いて欲しいんだ」
「……はい」
ゆかりちゃんは静かに頷いた。
俺は、保健室のドアをそっと閉め、そしてそのドアにもたれ掛かった。
心臓が、激しく鼓動を打っている。壊れそうなくらい。
全力疾走してきたからだけじゃない。
俺は、深呼吸して、それからゆかりちゃんをじっと見つめた。
ゆかりちゃんも、俺のことをじっと見上げている。
保健室の中は、壁に掛かった時計のたてるチッチッという微かな音だけが支配していた。
どうした、公?
これ以上、ゆかりちゃんも詩織も苦しめちゃいけないんだ。そうだろ?
そのためにも……。
「お、俺……」
自分の声と思えないほど、しわがれてる声。
俺は咳払いすると、思い切って言った。
「俺は、ゆかりちゃんが、君のことが、す、すっ……」
どうして、つっかえる?
俺はもう一度深呼吸して、言った。
「好きなんだ」
「まぁ……」
ボン。そんな音が聞こえそうなほど、ゆかりちゃんは一気に真っ赤になった。
俺は、一番言えなかったことを言ったせいか、すらすらと言葉が続いた。
「好雄に聞いたよ。詩織とのことで、ゆかりちゃんが傷ついたって。今更俺がこんなことを言っても迷惑にしかならないかもしれないけど……。でも俺は、詩織よりも、ゆかりちゃんのことが……」
「公さん……」
ゆかりちゃんは、立ち上がるとよろめいた。俺は慌ててゆかりちゃんに駆け寄ってその身体を支えた。
そういえば、虹野さんが、ゆかりちゃんは足をくじいたって言ってたっけ。
「ご、ごめんなさい」
「大丈夫?」
「はい。……あの、公さん……」
ゆかりちゃんは、俺を見上げた。
……ゆかりちゃんの大きく見開かれた瞳に、俺はどきっとした。普段はいつも目を細めて微笑んでるから、こんな表情を、それもこんな近くで見たこと無かったん
だ。
丸い瞳が潤んでいる。
「わたくし……、公さんのことを考えますと、胸がドキドキとして、切なくて……。この気持ちをなんと言っていいのかわかりませんでした……。でも……、今は言えます……。公さん……。わたくし……公さんのことが好きなんです」
ゆかりちゃんは小声で、でも俺をじっと見つめながら言った。
そっと、俺はゆかりちゃんの手を握った。ゆかりちゃんも握り返してくる。
それだけで、十分だった。
俺は、何度目かのため息をつき、窓の向こうに見える詩織の部屋を眺めた。
いつものように、ピンク色のカーテンの向こうから、柔らかい光が漏れている。
「……このままじゃ……いけねぇよな。詩織の方にも、はっきりと言わないと……」
そう呟いて、俺はコードレスホンに手を伸ばし、ボタンを押す。
数回の呼び出し音の後、詩織の声が聞こえてきた。
「はい、藤崎です」
「……俺だよ」
「あ……」
詩織の声が途切れた。電話回線を沈黙が支配する。
「どうかしたのか?」
言ってから、俺は自己嫌悪を感じていた。どうかした、何てもんじゃないだろうが……。
詩織の声が受話器から聞こえてくる。
「……ううん、何でもないの……」
俺は受話器を握り締めた。
「あ、あのさ、ちょっと話したいことがあるんだけど、出てこれるかな?」
「え……」
「直接……、話がしたいんだけど……」
「……」
詩織は再び沈黙した。永劫にも思える一瞬の後、彼女の声が聞こえる。
「うん、わかった。……近所の公園でいい?」
「ああ」
「じゃ、待ってるね……」
プツッ
電話が切れた。
俺が公園に着くと、既に詩織は先に来て待っていた。木にもたれて、爪先を見つめている。
「待たせたか?」
駆け寄って声をかけると、彼女は顔を上げた。
「ううん。私も今来たばっかりよ」
首を振る彼女。
俺達は、しばらく黙っていた。
やがて、詩織が言う。
「それで、……話って何?」
「……あのさ、詩織。俺……」
何をやってるんだ? はっきりするって決めたんだろうが!
俺は思い切って、言った。
「俺、詩織とはつき合えない」
「……初めてね。公くんが私のお願いを断ったの」
詩織は、妙にしみじみした感じで言った。
「……」
「うん、もう、いいの」
彼女は向き直った。
街灯の光が、彼女の顔に微妙な陰影をつけている。
プラスチック製のヘアバンドが、街灯を反射してキラッと光った。
「……いいって、何が?」
俺は聞き返した。
詩織は街灯を見上げながら言った。
「あのね、公くん。私、あれからゆかりさんとお話ししたのよ」
「……ゆかりちゃんと?」
俺は、その瞬間、おそらく間抜けな顔をしていただろう。
それを見て、詩織がくすっと笑った。
「やだ。公くんったら」
「ゆかりちゃんと話したって……詩織……」
「……」
詩織は少し黙り、それから口を開いた。
「公くん、……今まで迷惑だったよね。ごめんね……」
彼女は、それだけを言うと、その場から静かに歩き出す。
「し、詩織……」
俺が声をかけると、彼女はくるっと振り向いた。
「公くん、ゆかりさんにちゃんと告白したの?」
「ああ」
俺は反射的に答えてしまった。からかうような声を上げる詩織。
「そうなんだぁ……。公くんも成長したね」
「どういう意味だよ」
俺は苦笑した。詩織は、にっこりと微笑んだ。
「公くん。ゆかりさんを悲しませたりしたら、私が承知しないからね」
その時の詩織の笑顔は、俺が今まで見た中でも極上の笑顔だった……。