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キィッ
《続く》
車が止まりました。運転していた石橋さんが、外に回るとドアを開けてくださいます。
「学校に着きましたよ、お嬢さま」
「すみません」
わたくしは、編んでいたセーターを紙袋にしまいながら答えました。
新須さんのところから公さんに助けてもらってからというもの、お父さまは心配なさって、こうして毎日自動車で送り迎えをつけてくださいます。
それはとてもありがたく、また嬉しいことなのですが、公さんと一緒に歩いて帰ることができなくなってしまったのは、とても残念なことです。
でも、お父さまが心配なさってくださるのはよくわかりますので、わがままを通すこともしたくありませんので、こうして毎日、石橋さんに送り迎えをしていただいております。
まぁ、通学中にぼーっとしてしまって、遅刻するということはなくなったのですけれども。
「今日はクラブがありますので、5時半頃に迎えに来てください」
「わかりました。それでは行ってらっしゃいませ」
石橋さんは頭を下げますと車に乗り込んで戻って行かれました。
わたくしが学校の方を見ますと、公さんが鞄を持って歩いていらっしゃいます。
公さん……。
わたくしの胸が早鐘のように鳴ります。
あの時……、わたくしに白南風を渡してくださいました。
公さんは、知っていたのでしょうか?
白南風にまつわる伝説を……。
ずぅっと昔の話です。
貧しいながらも愛し合っていた若い男と女がおりました。
男は、笛職人の見習いでした。そして女は白拍子、つまり踊り子でした。
ところが、その女がある時殿様に見初められ、御殿に上がることになったのです。
それを聞いた男は、女のために全身全霊を込めて、一本の笛を作りました。
この想いが叶わぬならば、せめて自分が彼女を愛していた、その証を残したいと思ったのです。
この笛を贈って、男は女に別れを告げたのです。
女は御殿に上がりましたが、自慢の舞を舞うこともなく、毎日部屋に閉じこもってじっと笛を抱きしめていました。
そしてある日、募る想いに耐えかねた女は、とうとうその笛を持って男の元に逃げ戻ってしまいました。
怒った殿様は、自ら軍勢を率いて女を追いました。
殿様とその軍が、彼らの住む村に着いたとき、既に夜になっており、満月がこうこうと辺りを照らしていました。
ふと、彼らの耳に笛の音が聞こえてきました。殿様達はその音に引かれるように村はずれの野原にやってきました。
男と女はそこにいました。
男が笛を吹き、それに合わせて楽しそうに踊る女。
それを見ていた殿様は、やがて呟きます。
「余は、いままで何を見てきたのだろう……」
殿様は、軍勢に引き返すように命じると、自分もそっとそこから帰っていったのでした。
こうして、二人は末永く幸せに暮らしました。
この時、この男が作った笛は、いつしか「白南風」と呼ばれるようになり、この笛を贈られた女は幸せになるという伝説が生まれたのでした。
お父さまは、この白南風をお母さまに贈り、お二人は幸せになられました。
そして、こんどは、公さんがわたくしに……。
そう思っただけで、わたくし、頬が熱くなってしまいます。
わたくしは公さんのお姿を後ろから見ておりました。
と、
「公くーん」
公さんの後ろから一人の女の方が走ってこられました。あら、たしか公さんのお隣の藤崎さん、ですね。
藤崎さんは、公さんと並ぶと、何か話しかけていらっしゃいます。
あらぁ?
なんだか、今、胸の辺りがちくりと痛みました。
いつも、公さんのことを想うだけでドキドキしたりするんですが、今のはそれとは違うような……そんな気がします。
どうしたのでしょうか?
そんなことを考えておりますうちに、お二人は校舎の中に入ってしまわれました。
まぁ、大変。このままでは遅刻してしまいますわ。
わたくしも急いで校舎の方に歩いていきました。
お昼休みの時間になりました。
わたくしは公さんのクラスに顔を出してみましたが、公さんはいらっしゃいません。
あ、朝日奈さんがいらっしゃいますね。聞いてみましょう。
「あの、朝日奈さん」
「あ、ゆかりん。なになに、どうしたん?」
お友達と何かお話をしていらっしゃいました朝日奈さんは、振り向いて私だとわかると気さくにお返事をしてくださいました。
「公さんはどちらか、ご存じありませんか?」
「え? ……沙希、知ってる?」
「主人くん? さっき藤崎さんと屋上に行ったみたいだったわよ」
朝日奈さんとお話をしていた女の方が答えてくださいました。
それを聞いて、またわたくしの胸の奥がチクリと痛みました。
わたくしはお礼を言うと、急いで屋上に向かいました。
屋上に上がる階段に足をかけたところで、わたくしは上から流れてくる笛の音に気づきました。
「笛の……音?」
それは、日本の横笛の音ではありません。
でも、とても綺麗な透き通るような音色で、わたくしはしばらくそこで聞きほれてしまいました。
はっと我に返りまして、階段を上がっていきます。
屋上に出る扉は半開きになっていました。そして、その隙間から外の様子が見えます。
屋上では、藤崎さんがフルートを吹いていらっしゃいました。そして、公さんがフェンスにもたれ、目を閉じてそれを聞いています。
公さん、とっても穏やかな顔をしていらっしゃいますね。
そう思った瞬間、わたくしの心を衝撃が走ったのです。
あの白南風の伝説が……。
白拍子と笛職人の見習いの若者。
白拍子を見初め、後からそれを強引に奪った殿様。
わたくしは……、藤崎さんから公さんを強引に奪おうとしているのでは……ないのでしょうか?
そう、白拍子を若者から奪った殿様のように。
確かに公さんはわたくしを助けてくださいました。でも、優しい公さんですから、わたくしでなくても、助けてくださいましたでしょう。わたくしのことが好きだから、助けに来てくれたというのは、わたくしの驕りにすぎません。
それなのに、わたくしは公さんがわたくしに好意を持ってくださっていらっしゃると思いこんで……。
わたくしは……。
わたくし、静かにそこから離れて、階段を下りていきました。幸せな二人を見て、そっとそこから離れていった殿様のように……。