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わたくしがこちらに参りまして11回目の夕食を頂いておりました。
《続く》
食事のときにいつも後ろに控えていてくださる執事の伊藤さんが、今日はにこにこしていらっしゃいます。
わたくしはそれが気になっておりましたので、食事が終わってから聞いてみました。
「あの、今日は何かありましたのでしょうか?」
「はい。とうとうお嬢様と若旦那様のご結婚の日取りが決まりましたので、爺は嬉しいのでございます」
「……結婚の、日取り、ですか?」
わたくしは、驚いてしまいました。
執事さんは不審げにわたくしに尋ねます。
「お嬢様、ご存じありませんでしたか?」
「……」
わたくし、声も出ませんでしたので、かぶりを振りました。
と、執事さんはぽんと手を打ちました。
「ああ、それで、若旦那様が今宵急にこちらにいらっしゃることになりましたのですな。これは、この爺、うかつなことを言ってしまいました」
「はぁ?」
「若旦那様は、ご自分の口からお嬢様にお教えするのを楽しみにしておられたのでしょう。ああ、なんということを……」
執事さん、青くなって頭を抱えてしまいました。なんだかかわいそうですねえ。
「伊藤さん、大丈夫ですよ。気にしないでくださいまし」
わたくしがそう言いますと、執事さんはぱっと顔を上げました。
「おお、なんという心の広い方でしょう。若旦那様は良い伴侶を見つけられましたなぁ。それでは、お嬢様、夕食後は若旦那様がこちらに着きますまで、お部屋でお待ちくださいますよう、お願いいたします」
「……わかりました」
他に答えようがありませんでした。
わたくしは、部屋に戻りました。
結婚の日取りが決まった、ということは、わたくしと新須さんが結婚することがもう決まったという事ですね。
……と、いうことは、もう公さんとは……。
公さんとは……。
なにかが胸の奥からこみ上げてきて、俯いているわたくしの膝にぽたりと暖かい滴が落ちました。
しばらくして、それが涙だと気づきました。
不意にお母さまのおっしゃったことを思い出しました。
お母さまは、わたくしが小さい頃、お部屋で泣いておりますと、いつも窓を開けておっしゃったものです。
『ゆかり、窓を開けて、あなたの悲しい気持ちを空に飛ばしてしまいましょう』
「はい、お母さま」
わたくしは立ち上がると、窓を開けました。
もう、外は暗くなっており、空には星が瞬いておりました。
わたくし、つい思ってしまいます。
ここに、公さんがいらっしゃいましたら……。
「ゆかりちゃん!」
と、呼んでくださいますのに……。
え?
いま、公さんの声が聞こえましたような……。
わたくし、思わず辺りを見回しました。
「……公、さん?」
「ここだよ、ゆかりちゃん!!」
窓の下に、公さんが立っております。左の肩に大きなぬいぐるみをつけていますけど、間違いなく、公さんです。
わたくし、幻ではないかと思いました。公さんのことを想うばかりに幻を見ているのか、と。
「……本当に、公さんなのですか?」
思わず、変な質問をしてしまいましたが、公さんは微笑んで答えてくださいました。
「ああ。俺は正真正銘の主人公さ!」
「誰だ!」
お屋敷の方から声が聞こえまして。青い服のガードマンさん達が懐中電灯を持って走ってきます。
「公さん!」
あっというまに公さんは取り囲まれてしまいました。
わたくし、窓のさんに手をかけて叫びました。
「やめてください! その方に乱暴をしないで……」
あらら?
わたくしの身体がその瞬間、ぐらりと傾きます。
身を、乗り出しすぎたようですねぇ。
そのまま、わたくしは2階の窓から落ちてしまいました。
「……ちゃん、ゆかりちゃん! しっかり!」
わたくしは、わたくしの名前を呼ぶ声で、うっすらと目を開けました。
「あ……、公、さん、ですねぇ」
公さんの心配そうな顔が目に入りました。わたくしが意識を取り戻したのを知って、公さんはほっと安堵した様子です。
「よかった。立てる?」
「わたくし……、窓から落ちて……」
「ああ。何とか間にあったみたいだ」
公さんはにっこりと笑いました。
わたくし、辺りを見回しました。どうやら、ここは窓の真下のようですわねぇ。
それじゃ、公さんがわたくしを助けてくださいましたのですね。
「公……さん」
「そこまでだ」
不意に声が聞こえました。
わたくし達を遠巻きにしたガードマンの方々をかき分けるように、新須さんが出ていらっしゃいました。どうやらこちらに着かれたばかりのようですね。
新須さんは、むっとした顔をしておっしゃいました。
「驚かせてくれるな。まぁ、無事で何よりだ。そこの男、妻を助けてくれたことに免じて家宅侵入で警察に突き出すのは勘弁してやる。さっさと消えるがいい」
「ふざけるな。何が妻だ!」
公さんは顔を紅潮させて叫びました。
「勝手にゆかりちゃんを誘拐しておいて、そんなことよくも言えたもんだな。ふざけるのもたいがいにしろ!」
「ふん。せっかく情けを掛けてやったというのに。しょうがないな」
そう言いますと、新須さんはパチリと指を鳴らします。すると、ガードマンの方々がわらわらと飛びかかってきまして公さんを押さえつけてしまいました。
「こ、この、放せ!」
「あの、やめてください」
「おっと、ゆかりさんはこっちに来ていただきましょう」
新須さんがわたくしの腕を掴んで引っ張り寄せますた。
「ち、ちくしょう」
地面に押さえつけられながらも、公さんは新須さんを睨みあげています。
「公さん!」
思わず駆け出そうとしたわたくしに、新須さんが囁きました。
「君のお父さんが、どうなってもいいのかね?」
「!」
わたくし、新須さんのお顔を見ました。
彼は話し続けます。
「忘れたわけじゃあ、ないだろうね? 君のお父さんの生殺与奪は僕の手の内だという事を」
「それは……」
「きみがこのまま大人しくしているというのなら、君のお父さんも安泰だし、そうだな、彼も無事に帰してあげようじゃないか」
「公さんは……関係ありません」
わたくし、小声で言いました。
「ほう。じゃ、彼はここで死んでもらうことになるさ」
平然と彼は言い放ちました。
「そ、そんな……」
「すべては君の心次第だ。さぁ、どうするかね?」
「ダメだ! ゆかりちゃん、そんな奴の言うことを聞いては!」
「黙っていろ」
ドカッ
叫びかけた公さんがガードマンの人に蹴られました。苦しそうに顔をゆがめています。
だめ。
公さんが殺されてしまいます。
それくらいなら、いっそ……。
いっそ、わたくしが……。
「新須さん、あの……、わたくし……」
「ゆかりちゃん! これを!」
公さんが、急に何かを投げてきました。それは、わたくしの足下に落ちました。
わたくし、とっさにそれを拾い上げました。
「こ、これは……」
その袋には見覚えがありました。わたくしは急いでそれを開きました。
中からは、思った通りのものが出てきました。
「……白南風……」
わたくしは、その横笛をかき抱くと、新須さんに向き直りました。
「決心は付いたようだな」
新須さんは笑いました。
わたくしは静かに言います。
「お断りします」