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ジジィーッ
《続く》
私は、低い音と共にプリントアウトされてくる紙を取ると、クリップボードに挟んだ。
向こうでは、私の実験体になる予定の男がイライラした様子で足踏みなどしながら待っている。
「まだなんですか、紐緒さん」
「落ち着きなさい。慌てる乞食はもらいが少ないって言うでしょう?」
私は、紙を見ながらキーボードに指を走らせる。
ピッ
ビープ音が短く鳴り、画面にいくつかの文字が並んだ。
私は椅子を回転させて、彼に言った。
「OK。アクセスしたわよ」
「やった」
彼は歓声を上げ、私の脇に来てディスプレイを眺めた。
昨日、早乙女好雄から話を聞いたときは、何の興味もなかった。
しかし、彼の言葉を聞いて、気が変わった。
早乙女は言った。
「なにせ、軽井沢の新須家の別荘って、とても一般人に近寄れるような所じゃないらしいし」
そう、「一般人に近寄れるような所じゃない」という言葉が、私のプライドを刺激したのだ。
まぁ、リクレーションにはちょうどいい。それに、彼らに未来の支配者たる私の実力の片鱗を見せておいてもいいだろう。
そう思って、私は彼らに力を貸してやることに決めたのだ。
間違っても、同情したとか共感を覚えてとか、そういうことではないので、そこのところを誤解しないように。
「これが、問題の屋敷の見取り図よ。警備会社のデータベースからちょっと拝借してきたわ」
私は彼に数枚の紙を渡した。
「あと、これが警備状況」
「すげぇ。よくわかるね」
彼は感心した声を上げて紙を見る。まぁ、私にとっては児戯に等しいが、素直な賞賛を受けるのは、それはそれで心地よい。
「これを見た限りでは、こっそり潜入するのは可能ね。塀に仕掛けられたレーザー監視装置と、庭の数カ所にある暗視カメラさえ気をつければ、あとは警備員しかいないからね」
「よし。……あ、もうこんな時間か」
彼は壁の時計を見上げて言うと、私の方に向き直った。
「じゃ、図書室で作戦会議するから、紐緒さんも来てくれないかな?」
「研究があるんだけど……。まぁ、息抜きも必要ね」
私は立ち上がると、電子手帳から通信ケーブルを引き抜いた。
私と彼が図書室に入ると、もう如月と早乙女がそこに待ちかまえていた。
「よ。遅かったな」
早乙女があいかわらず軽薄そうな声を上げ、手を振る。まぁ、声質はそう簡単に変わるものでもないから、我慢しておこう。
如月は、私達を見ると立ち上がって会釈した。彼女の方が早乙女の12.4倍は未来の支配者に対する礼儀を心得ている。
私達は机一つを囲んで座った。
最初に如月が話し始めた。
「まず、何故新須氏が、非合法的な手段まで用いて古式さんとの婚約を強行したか、ですが……」
彼女は手元に広げた経済雑誌を指した。
「新須重工が、バブルのつけで5期連続の大赤字を計上してます。ふつうならとっくに倒産してもおかしくありません。なぜ倒産していないかといえば、伊集院グループ系列の銀行が融資を続けているためです。しかしながら、既に重工業は日本では斜陽産業で、業績の回復する見込みはありません。こういう場合、生き残りをはかるためのもっとも手っ取り早い方法が、合併、それも異業種との合併です」
そこまで一気にしゃべると、不意にめまいでもしたのか、彼女は机に手をついてしばらく目を閉じていた。
心配になったか、主人が気遣わしげに声をかける。
「だ、だいじょうぶ、如月さん?」
「はい、すいません」
如月は、顔を上げた。多分、一気にしゃべったので貧血でも起こしたのであろう。いわゆる虚弱体質というやつか。
「でも、それにはリスクが伴います。伊集院グループとしては、これ以上新須重工のために血を流したくないという思いがあったのでしょう。そして、白羽の矢が立てられたのが、伊集院グループとは直接の関係が無く、かつ業績のよい古式不動産でした」
彼女はそこまで言って、今度はそのまま倒れかかった。慌てて隣の早乙女が支える。どさくさ紛れに胸の辺りを触っているのを見たが、放っておく。
「座って話してもいいよ」
見かねたか、主人が言うと、如月はうなずいて座った。
「ただし、単純に合併の話を持ちかけただけでは、古式不動産側はうなずかないでしょう。古式不動産側にとってみれば、新須重工との合併には何ら利がなく、リスクを背負い込むだけですから。そこで、今回の騒動が仕組まれたものと思われます」
「それじゃ、あの社長の息子とやらが古式さんを見初めたってのは嘘なんだな?」
おや、妙に主人が興奮している。
「そうでしょうね。古式さんはそういう社交界に出たことはない様子ですから、接点はなかったはずです」
如月はうなずいた。
「畜生!」
主人はぱぁんと両手を打ち合わせた。
「そんな事ってあるかよ。ゆかりちゃんの意志を無視しやがって」
ははぁ。そういうことか。
主人は古式に対して恋愛感情を抱いているわけだな。これは面白いサンプルになりそうだ。
私がそんな思いで観察していると、不意に早乙女が言った。
「で、どうする? いっそのこと、結婚式に乗り込んで古式さんを奪うとか……」
「映画の見過ぎ。問題にならないわね」
私は一顧だにしなかった。早乙女が傷ついた表情をしたが、バカな発言をした報いとしては当然だろう。
「それとも、事を大きくして古式さんをワイドショーのレポーター達に追いかけまわらせたいの?」
そう言うと、やっと納得したらしく早乙女は沈黙した。これだから愚民は困る。
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
主人が私の白衣の襟を掴んで尋ねた。無礼なことこのうえないが、これも恋愛感情とやらのもたらす作用であるなら面白い。
私は、その手を掴んで襟から離させてから言った。
「いくらでも方法はあるわ。問題は、どれがもっとも成功する確率が高いか、よ」
「じゃあ……」
喚きかける彼を手で制して、私は言葉を続けた。
「古式さんを、連れ戻すのよ。あなたがね」
私は主人を指さした。
「……俺が?」
主人は聞き返した。愚問だが、私は親切に答えてやった。
「その通り。心配はいらないわ。私の立てたプラン通りにするなら、確実よ」
「でも……」
「わかりやすく説明して上げましょうか。いくら駒が揃っていても、王将を取られたら負けってことよ」
「あ、そうか。この場合、古式さん本人がいなかったら、向こうは何の手も打てないってことですよね」
如月がうなずいた。なかなか理解が早い。
それにひきかえ、男達の理解の遅いこと。
しかたなく、もう一度説明する。
「あなたが古式さんを連れ戻すことに成功すれば、こちらで勝手に婚約破棄する事だってできるわ。それに、向こうはもう手を出せないでしょうからね」
「何故、そう言い切れるんだ?」
主人が気遣わしげに尋ねた。早乙女はあさっての方を見ている。どうやら、彼の頭の処理能力をオーバーフローしてしまったらしい。
私は早乙女は無視して主人に言った。
「今回古式さんを取り返せば、今度は古式不動産側も自衛策を講じるはずでしょう? つまり、向こうは、今回以上の強硬手段をとらざるを得ない。そして、それは……」
「これ以上の強硬手段は、伊集院側が許さない、っていうことですよね」
如月が先回りした。
私はうなずいた。
「そういうこと。伊集院に見放されたら、新須には未来はない。まぁ、現状でも未来はないけどね」
かすかに危惧はあった。そういう状態になった新須がなりふり構わずの行動に出たら……。
しかし、私は頭を振ってその危惧を追い払った。
「異論はある?」
誰も、私の完璧な理論に異を唱えるものはいなかった。
それから数日。我々は毎日ミーティングを繰り返し、計画を練った。
そして、土曜日。
我々はきらめき駅に来ていた。軽井沢に向かう主人を見送るためである。
さすがに緊張した面もちで、主人は皆と握手した。
「じゃ、行って来る」
「帰ってくるときは、古式さんと一緒だぞ」
早乙女が念を押す。
正直、ここ数日で早乙女に対する私の評価も変わっていた。彼の情報収集能力は抜群に秀でている。私の配下として使っても良さそうだ。
さて、私の主人に対する評価は、彼のこれから48時間の行動にかかっている。
願わくは、私の評価に足る人間であることを。
ポポポポポポ
発車のアラームが鳴る中、列車のドアは閉じた。
私は身を翻した。
「さぁ、戻るわよ」
「え? でもまだ……」
早乙女が何か言いかけるが、私はぴしゃりと封じた。
「列車を見送る時間があれば、それだけ早く行動が起こせるわ」
「お、おう」
早乙女は頷いた。
私は呟いた。
「ああ、燃えてきたわ」
たった一つ気にかかっていたこと。首尾よく主人が古式ゆかりを奪還した後、新須がなりふり構わぬ行動に出ないためにはどうすればいいか。
そう。私には私の戦いがあるのだ。後顧の憂いを断つための。
私は駅前のタクシーに乗り込むと、後の二人が続いて乗り込むのを横目で見ながら運転手に告げた。
「伊集院邸へ」
「伊集院?」
二人が私を見る。
私は彼等の視線を無視して、シートに身を沈めて目を閉じた。回転し続ける頭脳をクールダウンさせる必要を感じたからだ。
私の戦いは、冷静さを欠いては勝ち目がない。
伊集院に新巣から手を引かせるための戦い。
私は何故、ここまでのめり込んでいるのだろうか?
決まっている。私の頭脳の明晰さを証明してみたいのだ。間違いなく、それだけだ。