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昼休みになって、私はいつものようにフルートのケースを抱えて、音楽室に向かっていたの。
《続く》
少しでもたくさん練習しなくちゃ、みんなに迷惑かけちゃうものね。がんばらなくっちゃ。
……あら?
今、階段登っていったの、早乙女くんと公くん……に見えたんだけど。
私は階段の所に駆け寄ると、上を見た。たしかに、上の方から足音が聞こえる。
この上って、屋上よね。
なんだか、早乙女くんの顔がこわばってたみたいだったけど、なにかあったのかな? ……気になっちゃうな。
私はフルートのケースを胸に抱えたまま、足音をたてないようにして、階段を駆け上がった。
そっと、屋上のドアを開けると、早乙女くんが何か言ってた。
何言ってるんだろう? よく聞こえないな。
と、突然、公くんが早乙女くんをフェンスに押しつけた。
ガシャン
フェンスのきしむ音に混じって、公くんの声が聞こえた。
「本当か、それは!?」
「冗談で、こんな事言うと思ってんのか!」
「どうして、どうしてそんなことに……、なっちまったんだ……」
公くん、なんだかがっくりとして、フェンスにもたれ掛かった。
なにがあったのかな?
私は耳をそばだてた。
二人は、しばらくその姿勢のまま、動かなかった。
ややあって、早乙女くんが呟く。
「……俺達って、何にも出来ないんだよな」
「そうだな」
公くん、空を見上げながら答えた。
……。
私は、そっと、階段を降りていった。
放課後。
練習を早めに切り上げて、私はテニス部の練習場に行ってみた。
いつもは、そこで素振りをしてた公くんの姿が、今日はなかった。
私は、そこにいたテニス部員の人に聞いてみることにした。
「あの、すみません」
「おや? 見学ですか?」
その人は振り向いてにこっと笑った。私はかぶりを振った。
「いえ。あの、こ……、主人くんは、今日は来てませんか?」
「主人か? ちょっと待ってて」
その人、走っていくと、向こうで別のテニス部の人と何か話してから戻ってきた。
「ごめんね。主人は、今日は来てないんだ」
「そう、……ですか」
「ああ。何だか、今日は体調が悪いとかで、家に帰るってさ。確かに顔色も悪かったから許可したってよ」
「そうですか。ありがとうございました」
私は頭を下げると、少し考えてから歩き出した。
近所の公園。
今の子ってこういう所じゃあんまり遊ばないのかな。ぶらんこが錆び付いちゃってる。
昔、よく公くんとここで遊んだな。
私はぶらんこに腰掛けてみた。
あのときは、公くんと二人で座れた木の板が、私一人が座るのがやっとくらいに小さくなっちゃってる。
ううん。私が大きくなったのね。
懐かしいなぁ、あの頃が。
そんなことを思いながら、ぶらんこを揺すってみる。
キィッ
鎖がきしんだ音を立てた。
カラカラカラ
私の部屋の窓を開けると、公くんの部屋の窓が見える。
電気がついているところを見ると、部屋にいるみたいね。
私は、そっとフルートを唇に当てる。
ラヴェルのボレロ。そのフルートパート。
金色の楽器が、涼やかな音色を奏でる。
演奏が終わり、私が顔を上げると、いつの間にか公くんの部屋の窓が開いていた。
私は一礼して尋ねた。
「今日の演奏は、どうだったかしら?」
「相変わらずうまいよ」
公くん、窓枠に頬杖ついてる。
私は尋ねてみた。
「ねぇ、今日、早乙女くんとなにかあったの?」
「……見てたのか?」
「ちょっとだけ……。二人が屋上に行くのが見えて、なんだか早乙女くんただならぬ顔してたし、喧嘩になったら止めなきゃと思ったから……」
「古式さん、知ってるだろ? 前に紹介したよね」
えっと、確か公くんと同じテニス部の娘よね。
私はうなずいた。
「ええ」
「古式さん、結婚するんだってよ」
「???」
公くんが何を言ってるのか、一瞬わからなかった。
公くんは、ぽつりぽつりと話してくれた。
「……政略結婚っていうこと? 未だにそういうのがあるのね」
「まったくだ。江戸時代の話だと思ってたのによぉ、まさか自分に降りかかってくるとは思ってなかったぜ」
え? 自分って、どういうこと?
「公くん、もしかして、……」
「え? 何?」
「……ううん、なんでもないの」
怖かった。公くんからその言葉を聞くのが。
「と、とにかく、ちゃんと確かめてから、どうするのか考えた方がいいんじゃないのかな?」
「……そうだよな。サンキュー、詩織。いつも助けられちゃうよな、おまえには」
「ううん。気にしないで。幼なじみじゃないの」
そう。私と公くんは幼なじみ。だから……。
この先もずっと、一緒にいられる、そんな気がしてたのに……。
「じゃ、俺はもう寝るぜ。お休み」
「あ、公くん。ダメだよ、ちゃんと宿題しなくっちゃ」
「へへっ」
公くん、笑って窓を閉めた。
私は、右手のフルートに目を落とした。
金色のフルートの表面に、ゆがんだ私の顔が映ってる。
「……公くんの……バカ」
そっと呟くと、私はフルートを抱きしめて、その場にうずくまった。
私の心が、あの錆び付いたぶらんこみたいな、きしんだ音をたてた。