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「こちらでお待ち下さい。社長はすぐに参りますので」
《続く》
そう言うと、儂を案内してきた女子社員は、一礼して応接室のドアを閉めた。
儂は一回り部屋を見回した。
さすが、伊集院コンツェルンというべきか。部屋に整えられた調度品はどれも一流のもののようだ。
その中でも一際目を引くのが、儂の背後の壁に掛かっている油絵だった。
それは少女の肖像画だった。歳の頃5、6歳くらいか、ぬいぐるみを抱えた金髪の少女。
……ゆかりにも、こんな頃があったな。
儂は柄にもなく感傷に浸ってしまう。
あれは……、そう。営業で温泉に行ったときだったな。
仕事が簡単に終わりそうだったので、儂は家族を呼んで、久しぶりの一家水入らずを楽しんだ。
ゆかりは、どこに行くにも「おとーさま、おとーさま」と儂にくっついて来たものだった……。
「おとーちゃまぁ!」
ゆかりが、懸命に走ってくる。
儂は、その声を聞いて振り向くと、その場に立ち止まってゆかりが来るのを待っていた。
と。
コテン
ゆかりが転んだ。
「ゆ、ゆかり!」
儂は慌てて駆け寄った。
ゆかりは、むっくりと起きあがった。
「ゆかり、泣かないもん」
おでこに擦り傷ができている。儂はハンカチで滲んでいる血を拭くと、頭をなでた。
「よし、えらいぞゆかり」
「うん」
ゆかりはにこっと笑った。
カチャ
ドアが閉まる音がして、儂は我に返った。向き直る。
そこには、和服をまとった初老の男がいた。
「古式君、よく来てくれたな」
「これは社長。いつもお世話になっております」
儂は立ち上がり、頭を下げた。
「いやいや。まぁ、かけたまえ」
彼はにこやかにいうと、儂の正面の椅子に座った。
「まずは、野暮用からすませようか」
そう言うと、彼の後ろに控えた若者が書類を渡す。
書類に印を押すと、彼はにこやかに受け取り、儂に手を差し出した。
「御苦労だったな。これで商談成立といったところか」
「ありがとうございます」
儂は手を握り、頭を下げる。
「ところで、お嬢さんはお元気かな?」
彼は突然、話を振った。
「は?」
「いやな、私の取引先の社長の息子が、君の娘さんに興味を示してな」
一瞬、息が止まった。
「興味、と言われますと?」
「うむ。一度正式に席を設けてお逢いしたいと、向こうの方から言ってきておるのだが」
「……見合い、でしょうか?」
「有り体に言えばそうなる」
「バカな。ゆかりはまだ高校生ですぞ」
儂は立ち上がった。と、彼は儂の肩に手を置き、低い声で言った。
「私の顔に泥を塗る気かね、古式君」
「……娘の話も聞かねばならないでしょう。この場でご返事、というのは……」
「まぁ、そうだな。来週までには返事をしてくれたまえ」
彼は微笑して、うなずいた。
儂は玄関から出ると、ビルを見上げた。
それは、権威の象徴のようにそびえ立っている。
伊集院に逆らうと言うことは、すなわち儂が今の職を失うことを意味している。
いや、それどころではあるまい。即座に警察の犬が礼状片手に押し寄せるだろう。
儂はかまわん。自業自得だからな。しかし、あかりとゆかりは……。
さりとて、見合いとは……。
「社長! どうしやした?」
声をかけられて、儂は振り向いた。
「おう、宮か」
そこにいたのは宮。先代の頃から忠誠を誓っている古参の幹部である。今は儂の車の運転手兼ボディーガードだ。
「……この後の予定は?」
「は」
宮は手帳を出した。
「この後、十七時より不動産会の例会です」
「キャンセルだ。それから、車をきらめき高校に回せ」
儂は車に乗り込みながら言った。
キッ
車はきらめき高校の前で止まった。フェンスの金網越しに生徒たちが校庭を走り回っているのが見える。
その片隅に、ゆかりもいた。
宮は、気を利かせて車をゆかりのよく見える位置に移動させた。
む?
ゆかりに何やら話しかけている男子生徒がいる。
そうか。あいつがゆかりの言っておった男か。
ゆかりは楽しそうに笑っておる。
……そうだ。あの笑顔だ。
儂は、ひさしく忘れていた。ゆかりのあの笑顔を。
そして、今またゆかりからあの笑顔を奪おうとしているのだ。あの男と引き離すことで……。