喫茶店『Mute』へ 目次に戻る 前回に戻る 末尾へ 次回へ続く
トゥルルル、トゥルルル
《続く》
電話機が呼び出しのベルを鳴らしています。
わたくしは受話器を取ると、耳に当てました。
「はい、古式、ですけれども」
「もしもし、主人と申しますが、ゆかりさんは……」
「まぁ、主人さん。一体何のご用でしょうか?」
「あ、古式さん? あのさ、来週の日曜日空いてるかな?」
わたくしは少し考えました。確か、予定はなかったはずですわね。
「ええ、特に予定は入っていないようですよ」
「よかった。それじゃさ、きらめき中央公園に行かない?」
「そうですね……、よろしいですよ」
「そう? じゃあさ、10時にきらめき公園の前で」
「わかりました。では、おやすみなさいませ」
「なんだと!?」
夕食の時、お父さまとお母さまその話をいたしましたところ、お父さまが突然怒鳴りました。
普段、わたくしの前ではおよそ怒ったりすることがないお父さまでしたので、わたくしはただびっくりしてしまいました。
「お父さま?」
「そいつはどこのどいつだ?」
お父さまは、晩酌のぐい呑みを置いて、わたくしに尋ねました。
「そいつ?」
「お前に電話をかけてきたという若造だ」
「クラスメートの主人さんですけど」
「主人か。よし」
お父さまは立ち上がると、どたどたと書斎に戻って行かれました。
しばらくして、お父さまは、まるでお正月のような羽織袴姿で、片手に家宝の日本刀を下げて出ていこうとなさいました。
お母さまが声をかけます。
「あなた、どちらへ?」
「知れたこと。その若造に会ってくる。もし遊びなら、たたき斬るまでだ」
「まぁ、出かける前にお茶でもどうですか?」
お母さまはにこにこしながら言いました。
「う、うむ」
お母さまの煎れるお茶はとっても美味しいのです。お父さまは、渋々といった感じで椅子に座りました。
お母さまはお茶を煎れながら、わたくしに尋ねました。
「ゆかり、その主人さんという方とは、どちらでお知り合いになったのですか?」
「ええ、実はテニスの練習中に、間違えてボールをぶつけてしまいまして……」
「なに? そいつ、ゆかりに球をぶつけおったのか? ますますもって許せん!」
言うなり日本刀を持って立ち上がりかけたお父さまは、いきなりその場に転びました。
「あらあら。あなた、慌ててるとろくな事がございませんよ。まぁ、お茶でもどうですか?」
お母さまは、にっこり笑いながらお茶を差し出します。
「う……、うむ」
あらぁ? 床に石鹸が落ちていますわ。どうしてこんな所に?
わたくしは石鹸を拾い上げました。
お母さまが、それを見て言います。
「まぁ、その石鹸、そんな所にあったのね。捜していたのよ」
「それより、その若造、ゆかりのどこに球をぶつけたのだ?」
お父さまが尋ねました。
わたくしは首を振りました。
「いいえ。違いましてよ。ぶつけてしまったのはわたくしの方です」
「まぁ。ゆかり、その主人さんにちゃんとお詫びしましたか?」
お母さまが、ちょっと怖い顔をしました。わたくしはうなずきました。
「はい。ちゃんとお詫びしました」
「それならいいんですよ」
お母さまがにっこりされます。
「しかしなぁ……」
「わたくし、久しぶりに笛を吹きたいのですが」
お母さまが微笑まれながらお父さまに向かっておっしゃいました。
「む……。そうか。それは聞かねばなるまいなあ」
お父さまは一つうなずかれますと、やっといつものようにお笑いになられました。
お母さまの奏でられる笛の音は、それは綺麗な音色ですのよ。
わたくしもときどき、お母さまに教わっているのですが、なかなかお母さまのようにはうまくなれませんの。
さて、次の週の日曜日。
どういうわけか、その日は朝から雨がしとしとと降っておりました。
お父さまは朝から大騒ぎなさっておりましたが、出かけようとしているわたくしの所に来て言いました。
「ゆかり、こんな天気だ。今日は出かけるのはやめたほうがいいんじゃないか?」
「それでは、主人さんとの約束が……」
「そんなものはどうでもいいじゃないか、な?」
「お父さまは、約束を破る人はよくないといつもおっしゃっていたではありませんか?」
「そ、それはそうだが……」
「あなたの負けですよ。おとなしくしてらっしゃい」
お母さまがそういいながら出てきました。
「ゆかり、失礼のないようにね」
「はい。行って参ります」
「楽しんでらっしゃいね」
わたくしが傘を広げて玄関から出ると、お母さまは火打ち石をカチカチとならして見送って下さいました。
その後ろからお父さまもわたくしを見送っていました。お父さまのあんな情けなさそうな顔を見たのは初めてで、悪いとは思いつつも、ついつい笑ってしまいます。
公園に着きますと、もう主人さんは来てらっしゃいました。
「あ、古式さん、こっちこっち」
呼ばれまして、わたくしは主人さんの所に行くと、まずは頭を下げました。
「遅れまして、申し訳ありませんでした」
「いやぁ、時間間違えたかと思っちゃったよ」
主人さんは頭を掻くと、辺りを見回しました。
「それにしても、雨じゃ予定狂ったなぁ。晴れてたら公園で散歩して、ボートでもって思ってたんだけど……」
「あら、雨でもよろしいではありませんか。散歩しませんか?」
わたくしは傘を上げて、主人さんの顔をのぞき込みながら言いました。
「そう? じゃ、古式さんのおっしゃるとおりに」
主人さんも微笑しながらおっしゃいました。
サァーッ
雨降る公園には誰もいません。わたくしと主人さん、赤と黒の傘だけが動いていました。
わたくしは、傘の下から空を見上げました。
鉛色の雲から、銀の糸を引いて、雨粒が落ちてきます。
視線をそのままおろしますと、綺麗な紫陽花の木が目に入りました。
「まぁ、紫陽花が、きれいに、咲いておりますわねぇ」
「本当だね」
主人さんは立ち止まると、わたくしを呼ばれました。
「ほら、古式さん、カタツムリだよ」
「まぁ」
指先くらいの小さなカタツムリが、紫陽花の葉の上でゆったりと動いています。
「かわいらしいですねぇ」
「かわいい……?」
「そう思いませんか? 殻がついておりますし、角が出たり引っ込んだりしますのよ。ほら」
ツン
わたくしがつつくと、カタツムリは角を引っ込めます。でも、暫くすると恐る恐るその角を伸ばすのです。
「ほら。おもしろいでしょう?」
「ま、まぁね。そ、それより、ずっと歩き詰めで疲れたでしょ? 喫茶店でコーヒーでも、どう?」
「まぁ、コーヒーですか? よろしいですわねぇ」
正直言って、ちょっと疲れておりましたので、主人さんの提案にわたくしは乗らせていただきました。
「本当に、それだけか?」
「ええ。コーヒーをいただいた後、主人さんと別れて帰ってきたんですけど」
「そうか……」
家に帰り着くなり、待ちかまえていたお父さまからの質問責めにあってしまいました。
「とっ、とにかく、今後は……」
何か言いかけたお父さまを遮るように、お母さまがおっしゃいました。
「ゆかり、楽しかったですか?」
「はい」
「そう。それは、よかったですね」
お母さまは、にっこりとお笑いになられました。
その夜、床についたところで、わたくし不意に気づいたことがありました。
もしかして、今日、主人さんとお会いして、公園に行ったことは、世間様で言うところのデートというものではなかったんでしょうか?
「まぁ……」
我知らず、わたくしは顔を赤らめてしまいました。
デートとは、恋人同士がするものと聞き及んでおります。それなら、わたくしと主人さんは恋人同士と言うことになるのでしょうか?
そんなことを考えております内に、夜が明けてしまいました。