俺は主人公。一ヶ月くらい前にここ、私立きらめき高校に入学した、ま、いわゆる新入生ってやつだ。
《続く》
小さい頃からの幼なじみの藤崎詩織も、俺と同じくきらめき高校だ。というよりは、ここに入れたのは、彼女は当然、俺は偶然って感じかな。
まぁ、詩織のことはさておいて……。
中学生の頃から陸上部に入っていた俺は、当然のようにここでも陸上部を選択した。だが、先輩がかさにかかって下級生をしごく、いわゆる体育会系のノリは俺に合わなかった。
その日も俺達新入生は先輩の命令で、トラック二十周のマラソンランニングをしている最中だった。
はぁはぁはぁ
もう何周しただろうか?
だいたい、俺はスプリンターで、マラソンランナーじゃない。もっとそれに適したトレーニング方法だってあるだろうに、くる日もくる日もこれじゃ、やってられねぇ。
そんなことさえ考えるのが億劫になってきていた。
今の俺は、ただ機械的に左右の足を交互に動かしているだけ。
当然、前など見てなかった。トラックのカーブなど、これだけ走れば身体が覚えているから特に注意などしていないし。
と。
「あ、あぶな……」
バチコォン
突然、横合いから何かが飛んできて、俺の横っ面をひっぱたいた。いや、そんな生やさしいもんじゃない。まるでプロボクサーの右フックを食らったような衝撃が俺を襲ったのだ。
半ば慣性で走っていた俺は、ひとたまりもなく撃墜され、トラックにダウンした。
倒れたまま、頭上に"FIRST ATTACK"の文字が浮いてないかと捜していた俺の視界の中に、一人の少女が飛び込んできた。テニスウェアを着て、ラケットを抱いているところを見ると、テニス部の娘みたいだ。
彼女は、なんだかスローな口調で俺に尋ねた。
「あの、大丈夫ですか?」
「ま、まぁね」
俺はふらつきながらも起きあがり、とっさに左右を見回した。
小うるさい先輩達はいない。よし、この隙に休ませてもらおう。
「でも、ちょっとふらふらするなぁ」
「それは、いけませんねぇ。では、あそこの木陰などで休んでいて下さいな」
その女の子は、校庭の隅の方の雑木林を指した。俺はそのお言葉に甘えて休むことにした。
「じゃ、そうするかな」
「そうしてくださいな。それでは、わたくしは練習がありますので、これにて失礼させていただきます」
彼女は静かに一礼すると、テニスコートの方に戻っていった。
この高校は、何故かは知らないがやたらと樹が多い。樹齢千年とまで言われる通称「伝説の樹」を筆頭に、これでもかと言わんばかりに木がはえている。
校庭の一角には、その名の通り雑木林がそのまま残っていて、生徒たちの散策の場(一説にはエスケープの隠れ家)になっている。
俺は一本の樹にもたれ掛かり、空を見上げた。
五月に入ったばかりで、空は澄み渡っていた。そんな空を見上げながら、練習の疲れもあって、いつしか俺はうとうととしていた。
ん?
不意に俺は目を覚ました。
カァ、カァ、カァ
鴉が鳴き交わしながらねぐらに帰っていく。既に空は茜色に染まりつつあった。
やべぇ、寝過ごしちまった。
と、
くぅ、くぅ、くぅ
気持ちよさそうな寝息が聞こえた。俺はその寝息の方を見た。
俺と同じ樹にもたれ掛かって、さっきの女の子が気持ちよさそうに眠っている。
しかもテニスウェアのまま……。
正直に言おう。俺だって健康な男だ。その姿を見て、一瞬むらっときたのは確かだ。
この間、自称親友の早乙女好雄に見せられたエッチな漫画のワンシーンが頭をよぎる。
だが、ここでそれを実行するのは単なる変態じゃないか。
いや、しかし……。
時間にすれば数秒だったかも知れないが、果てしない葛藤の末、俺は常識人としての振る舞いをすることにした。笑うなら笑え。俺はこの歳で世間に背を向けて生きるだけの度胸はないんだ。
俺は彼女の肩に手をかけて揺すった。
「お、おい……」
「ううーん」
彼女は可愛らしく呻いた。
テニスウェアの襟元から見える微妙なカーブが……、いかんいかん。俺は紳士になるんだ!
俺は、もう一度、今度はちょっと力を込めて揺さぶった。
「おい、起きろよ!」
「ん……。あらぁ?」
彼女はゆっくり目を開いた。まだぼんやりしてるみたいで、辺りを見回している。
「わたくし、眠ってしまっておりましたかぁ〜?」
「ああ、そうだけど……、どうして?」
「あなたのことが、ちょっと心配になりまして、見に来てみましたら、あなたがここで気持ちよさそうに眠っておりましたので、目を覚まされるまでちょっとお待ちしておりましたら、つい気分よくなって、うとうとしてしまいましたようですわね」
彼女は微笑した。
その微笑みを見た瞬間、俺は思った。紳士でいてよかったと。
それほどの、なんていうか、俺の貧困なボキャブラリーでは表現できないけど、素晴らしい微笑みだった。
「あ、申し遅れました。わたくし、古式ゆかりと申します」
「俺は主人。主人公っていうんだ」
「まぁ、主人さんですか? それでは、これで失礼いたします。どうやら、少し遅くなってしまいましたようですから」
「あ、よかったらさ、俺送るよ。ほら、そろそろ暗くなるしさ」
俺は申し出た。古式さんは少し考えていたが、うなずいた。
「いいですよ。それでは、わたくし、着替えて参りますので」
「あ、俺も着替えないと。じゃ、校門の所で待ち合わせって事で」
「よろしいですよ。それでは……」
彼女はにこっと笑うと、歩き出した。
おかしいなぁ。まだかなぁ。
俺は腕時計を見た。去年、おじさんからもらったごついダイバーウォッチは、もらって以来一度も時間を合わせたことはないが、正確に時を刻んでいる。
六時五十八分。
なんぼなんでも、遅すぎる。何かあったのかな?
俺は、テニス部室に向かって走り出した。
ここだな。
俺は「テニス部(女)」と書かれたプレートを確認した。
かわいいイラスト入りの部員募集中ビラの貼ってあるドアをノックする。
トントン
返事はない。おかしいなぁ、もう帰っちゃったのか?
約束したのに、それはないよなぁ。
そう思いながら、ノブを回してみる。
鍵が掛かってると思っていたそれはあっけなく回った。
俺にとって不幸なことに、そのドアは内開きであり、そのドアに体重をかけていた俺は、当然のごとくそのまま部屋の中に転がり込んでいた。
ドタァン
「つっ」
肩から床に倒れた俺は、顔をしかめながら立ち上がろうとして、そこで硬直した。
俺の前に、古式さんがいた。それも、着替えている最中だったようで……。
白く、微妙なラインを描くボディラインが、一瞬にして俺の脳裏に焼きついた。
「ご、ごめん!」
俺は慌てて、部室から飛び出し、後ろ手でドアを閉めた。
どれくらいたったのか。俺は女子テニス部の部室の前で茫然自失していた。
キィッ
静かな音がして、ドアが開いた音がした。俺は飛び出した姿勢のまま凍り付いていたので、自然ドアには背を向けている。
パタン
ドアが閉まったようだ。ということは、古式さんが出てきたはずだ。
「あ、あの……」
ダメだ。何も言えない……。
と、古式さんが俺に尋ねた。
「ご覧になったのですか?」
一瞬、彼女が何を言っているのかわからなかった。
ご覧になるというのは、見るの丁寧語だから、見たのか、と言ってるんだろう。
頭の中でそう変換して、俺は答えた。
「い、いや、一瞬だったから……」
「ご覧になったのですね?」
今度は念を押すようなイントネーション。
俺は、向き直り、その場に土下座して頭を下げた。
「ごめん。信じてもらえないだろうけど、本当に覗こうとかそんなつもりはなくて……、その……」
「そうでしょうねぇ。覗こうとするなら、ドアを開けて乱入はしないでしょうし。事故だったのですねぇ。あ、そんな事までしなくても。お立ち下さいな」
古式さんは柔らかな口調で言った。
俺は顔を上げて、彼女の顔を見た。
「じゃ……」
「よろしいですわ。事故、ですものねぇ」
彼女は目を細めて微笑んだ。俺はほっとして立ち上がった。
「ありがとう。とにかく、今日はもう遅いから、早く帰ろう」
「あら、すっかり時間のことを忘れておりましたわ」
古式さんはそう言うと、ゆったりと歩き出した。
これが、俺と彼女、古式ゆかりとの出会いだった。